第五話「テストと結果」
国家という巨大な機構が何かを隠蔽しようとするとき、最も都合が良いのは「地下」である。どれほど不条理な暴力も、狂気に満ちた実験も、分厚いコンクリートと土の層で蓋をしてしまえば、地上の市民にとっては存在しないも同然となるからだ。
一九七三年(昭和四十八年)二月。
東京・虎ノ門にあった郵政省分室の地下二階に、ある特殊な実験室が完成した。表向きは「通信機器の耐圧・耐振テスト用施設」という名目であった。確かに間違ってはいない。ただしそこでテストされる機器は人間の肉体と言うことを除けばではあるが。
壁面は分厚い鉛と防音材で隙間なく覆われ、室内気圧を富士山頂と同等の〇・七気圧まで減圧可能な密閉チャンバーである。鉛が防ぐのは通信の電波ではなく、あるいは中に放り込まれる放射線源の漏洩を防ぐためか、はたまた中で行われる実験の「絶叫」を絶対に外界へ漏らさないためであったのか。いずれにせよ、それは極秘裏に進められていた『鳥籠』計画――純国産有人宇宙船の搭乗員を育成するための、隔離された牢獄であった。
ここに集められたのは、前述の自衛隊パイロット十二名から最終選抜された搭乗員候補の四名である。
神谷一等空尉、三島二等空尉、倉本一等空尉、佐伯二等空尉。
かつて愛機のF-104Jを駆り、音速の壁を越えて成層圏まで駆け上がった誇り高き空の騎士たち。しかし今の彼らの顔に、かつての瑞々しい野心やエリートとしての矜持は見当たらない。青白い蛍光灯に照らされたその表情には、極限の疲労と、死の恐怖を自衛官としての義務感で無理やり押さえ込んだ、血走った眼光だけが宿っていた。
無理もない。この地下室へ辿り着くまでの間に、彼らはすでに地獄の釜の底を這いずり回ってきたのだ。当初十二名いた飛行士候補のうち、遠心力発生装置を用いた固体ロケット模擬Gの複合訓練の段階で、すでに数名がふるい落とされていた。そして、この「体操」の訓練が本格化してからのわずかな期間で、あの狂気のメソッドがもたらす凄惨な生体負荷により、すでに三名が脱落していたのである。
一人は過剰な等尺性収縮により自らの筋繊維を断裂させて横紋筋融解症で倒れ、一人は肋骨の疲労骨折が肺に刺さって血を吐き、もう一人は服部の狂った変拍子と暗黒の周波数に精神を完全に破壊され、医務室で幼児のように夜鳴きを上げるようになった。残されたのは、肉体と精神が奇跡的なバランスで崩壊を免れている、この四名だけであった。
彼らの置かれた状況は、滑稽さと悲惨さが奇妙に同居するものであった。彼らは「全密閉式与圧服」――まだ洗練されていない、分厚い難燃性ゴムと金属の継ぎ手で構成された、無骨で身動きの取りづらい初期の宇宙服の原型――を着用させられ、一・八立方メートルという狭窄カプセルを模した金属製モックアップの中に押し込められた。
身動き一つ取るのも不自由なその棺桶のような空間で、彼らに課せられた任務はただ一つ。服部正信が作り上げた呪われた伴奏テープに合わせて、「ラジオ体操第四」の動作を連日八時間ぶっ続けで叩き込まれることであった。
そして、この地獄の底で彼らを指導する役割を担ったのが、古流柔術・当身道師範の滝本巌である。
最新鋭の航空宇宙装備である与圧服を着込み、直立不動で整列するエリート自衛官たち。その正面に、和装に袴姿の老人が竹刀を持って立つ。B級のSF映画か前衛演劇のような、時代錯誤も甚だしい光景である。
しかし、ここは汗と泥にまみれた町道場ではない。国家の命運を賭けた自衛隊の極秘訓練施設だ。私語や緩みは一切許されず、そこにあるのは冷徹な軍事教練のヒエラルキーのみである。
「神谷一尉、大胸筋の拘縮が甘い! 貴様、宇宙の果てで背骨をへし折るつもりか!」
「ハッ! 申し訳ありません!」
ミリタリー・プロトコルに則った端的な叱責と、それに対する反射的な自衛隊式の絶叫。徹底した軍隊式の規律の中で、オカルトじみた古武術の身体操作が要求されるという異常な空間。
滝本の眼光は猛禽類のように鋭く、一切の妥協を許さなかった。彼はモックアップの狭いハッチから容赦なく竹刀を突き入れ、等尺性収縮の筋肉の緊張がわずかでも緩んだ箇所を見つけるや否や、その部位を激しく打ち据えた。
「引くな! 筋肉を外へ張るな、骨に向かって絞れ!」
分厚い与圧服越しであっても、古武術の達人の一撃は確実に骨膜へと響く。滝本の怒号が、汗とオゾンとゴムの匂いが充満する鉛の防音室に反響する。
「腱で骨を圧し折る気組みで固めろ! 宇宙の虚無にお前の内臓を吸い出されるぞ!」
それは比喩ではなく、文字通りの警告であった。宇宙空間の絶対的な真空と、固体ロケットの狂暴な振動を前にしては、自らの筋肉で内臓を締め上げるしか生き残る術はない。滝本は、彼らの肉体を鋼鉄の装甲へと鍛え上げるための、鬼の鍛冶屋であった。
こうして数ヶ月に及ぶ壮絶な肉体改造を経て、いよいよその成果を披露する日がやってきた。
一九七三年五月十一日。計画の進捗を評価するため、関係閣僚および各省庁の官房長クラスによる極秘査閲が行われたのである。
防音ガラス越しにしつらえられた、わざわざ運び込まれた豪奢な革張りの観察席には、日本の国家中枢を担うエリートたちが居並んでいた。大蔵省からは予算の生殺与奪を握る冷徹な主計局幹部が、防衛庁からは自信過剰な制服組トップがふんぞり返っている。さらには、後に首相となる大物政治家や若手のホープと呼ばれるニ世政治家姿もあった。
大物政治家は高度経済成長期の熱をそのまま体現したような傲慢な笑みを浮かべ、高級なシガーを指先で弄びながら、これから始まる見世物を「血税を注ぎ込んだ高価なサーカス」程度にしか認識していなかった。彼らは皆、安全な絶対優位の場所から、下々の者が這いずり回る様を冷笑的に見下ろすことに慣れきった人間たちであった。
モックアップの分厚いハッチが重々しい金属音とともに閉じられ、巨大な減圧ポンプの重低音が地下室の床を這うように響き渡る。室内気圧が徐々に下がり、富士山頂レベルの〇・七気圧まで低下した状態が人為的に作り出された。
これは単なる演出ではない。大気圏外へと打ち上げられる過程において、万が一カプセル内の与圧が低下した際、気圧変化による体液の沸騰や減圧症に肉体がどこまで耐え得るかを検証するための、極めて冷酷な医学的環境設定であった。
視察席のスピーカーに電源が入り、拡声器から、あのアナウンサーの無機質な声と、それに続く服部の異様なピアノ伴奏が流れ始めた。
「ラジオ体操、第四。……始めッ!」
多くの官僚たちがその言葉に苦笑する中、モックアップの中央で、神谷一等空尉が動いた。いや、動いたように見えただけで、実際には極小の角度で関節をロックし、信じがたい筋肉の緊張とともに最初のポーズをとったのである。
第一節から第二節へと進むにつれ、医学的見地から見ても彼の体内では破滅的な事態が進行していた。極限の等尺性収縮により、主動筋と拮抗筋が互いの筋繊維を千切り合わんばかりの圧力で衝突する。血圧計の針があれば、収縮期血圧は瞬時に二五〇ミリHgを軽々と突破していただろう。自らの筋肉の鎧によって完全に拘束された胸郭の中で、行き場を失った心臓が狂ったように血液を送り出そうと足掻く。皮膚は瞬く間に赤黒く鬱血し、首筋の頸動脈が親指ほどの太さに異常に浮き上がった。
「ミシッ……ギリリリッ……」
全身の筋肉と骨が発する凄惨なきしみ音が、マイクを通じてマジックミラー越しの視察室に生々しく響いた。それは、生命体が発する音ではなく、巨大な万力で生肉と軟骨をゆっくりと圧縮しているかのような、悍ましい破砕音であった。
視察席のエリートたちの顔から、徐々に余裕の笑みが消え失せていく。彼らはようやく、目の前で行われているのが健全な体操などではなく、人間の肉体を兵器の規格に無理やり押し込むための「公開生体実験」であることに気づき始めたのだ。
異変が決定的な破綻へと向かったのは、第七節「末梢微小循環遮断」から、第八節「胸郭拡張呼吸」への移行部であった。
第七節で意図的に鎖骨下動脈を圧迫し、極限の虚血状態を作った後、一気に脱力して爆発的な血流再灌流を起こす。そして間髪入れずに、肋間筋だけで無理やり胸郭を押し広げる第八節へと突入する。生理学的に言えば、これは自殺行為に等しい。堰き止められていた激流のような血液が、急激な呼吸ポンプの作動によって一気に頭部へと逆流したのだ。
突然、神谷の動きがピタリと止まった。
直立不動の姿勢のまま、彼の顔面は鬱血の赤黒さから一転して蒼白を通り越し、不気味な土気色へと変色していった。過剰な血圧上昇と気圧低下による毛細血管の限界。次の瞬間、目、鼻、そして固く食いしばった歯列の隙間から、鮮やかな細い血の筋がツー、と流れ落ちたのである。全身の拮抗筋収縮による異常な血圧上昇に、急激な呼吸動作が重なり、限界を超えた肺胞毛細血管と鼻腔粘膜が完全に破綻したのだ。
「止めろ! 減圧を解除しろ!」
モニターを見つめていた神保が絶叫したが、すべてが遅すぎた。
神谷は、顔面から血を流したまま、一切の防御姿勢をとることなく、棒のように直立した姿勢を崩さずに前倒しになり、床の鋼板へと激突したのである。
鈍く、重い音が地下室を揺らした。彼は気を失って崩れ落ちたのではない。全身の筋肉が完全な強直性痙攣を起こしており、脳の意識が飛んでもなお、中枢神経からの収縮命令が解除されず、倒れても手足は曲がらなかったのだ。人間の形をした血塗れの鋼鉄の塊が、ただ物理法則に従って倒壊したのと同じであった。
視察室は、一瞬の凍りつくような静寂の後、阿鼻叫喚の修羅場と化した。
ただでさえ凄惨な生体崩壊の光景に加え、開いた扉から響くスピーカーからは服部の狂った超低周波のピアノ重低音が、容赦なく視察者たちの脳髄をかき回し続けていたのである。ピタゴラス音律の不協和音が生み出す「うなり」は、彼らの脆弱な三半規管を物理的に破壊し、理性という薄皮をいとも容易く剥ぎ取った。
観察席の最前列にいた郵政省の事務次官補は、神谷の目から血が噴き出すのを見た瞬間、ひしゃげた悲鳴を上げて首元のネクタイを狂ったように掻き毟り始めた。彼はパニックを起こして激しい過呼吸に陥り、白目を剥いてその場で意識を失って卒倒した。彼が官僚機構の表舞台に戻ることは二度となかった。退官後もピアノの音を聞くたびに失禁を伴うフラッシュバックに襲われ、都下の手厚い療養施設で廃人同様の一生を終えることになる。
大蔵省の主計局幹部は、先刻まで見下していた「モルモット」の血の飛沫を幻視し、自らが機械的に承認した予算がこのような冒涜的な肉体破壊に使われていたという事実に精神の耐荷重を超えた。彼は高級な絨毯の上に四つん這いになり、胃液を撒き散らしながら「数字が、数字が溶けていく」と意味不明なうわ言を繰り返し続けた。彼もまた、後日「重度の神経衰弱」を理由に窓際部署へと追いやられ、二度と予算編成のペンを握ることはなかった。
制服組トップの防衛庁幹部は、立ち上がって逃げ出そうとしたものの、腰が完全に抜け、自らの尿でスラックスを濡らしながら無様に床を這いずり回った。後に首相となる大物政治家でさえ、指先から高級シガーを落とし、顔面を蒼白に引き攣らせてブルブルと震えることしかできなかった。
彼らは、人間が宇宙の虚無に触れることの真の恐ろしさを、安全なマジックミラー越しにすら耐えることができなかったのである。
次話につづく




