第四話「そのピアノの音色は、恋にも似て」
「ラジオ体操」という国民的身体文化を象徴するのは、何と言ってもあの軽快で溌溂としたピアノの伴奏である。
序章でも記したが、第一体操の明るいハ長調の響きは、もはや日本人のDNAに刷り込まれた朝の記憶そのものだ。あの和音の連なりを耳にするだけで、私たちは無意識のうちに清々しい朝の空気を肺いっぱいに吸い込み、今日という一日を健全に生き抜こうというささやかな希望を抱く。
しかし、極秘裏に開発された「ラジオ体操第四(マル四)」において、ピアノは健康を促進するための楽器ではなく、人間の神経系を物理的にハッキングし、極限環境下での生存を強制するための「音響兵器」として再定義されていた。そこには、万人の健康を願うような牧歌的な思想は欠片も存在しない。
この常軌を逸した伴奏音楽の全権を委ねられたのが、当時逓信省(後の郵政省)嘱託作曲家という肩書きの陰に隠れていた前衛音楽家・服部正信であった。
昭和四十七年(一九七二年)。この年は日本の現代史において極めて特異な熱を帯びていた。二月の連合赤軍によるあさま山荘事件、五月の沖縄本土復帰、九月の日中国交正常化。
政治の季節が狂騒と絶望の入り混じった熱を放つ一方で、文化面では、一九七〇年の大阪万博で花開いた前衛芸術や現代音楽(武満徹や黛敏郎、カールハインツ・シュトックハウゼンらの電子音楽)の熱狂が、まだ色濃く残っていた時代である。新しい音、未踏の周波数が、旧態依然とした価値観を破壊してくれると信じられていた、ある種の芸術的野心に満ちた時代背景があった。
当時のNHKには電子音楽スタジオという、世界でも最先端の音響実験施設が存在した。巨大なオシレーターやオープンリールの磁気テープが壁一面を覆うその密室は、さながら現代の錬金術師の工房であった。
服部正信は、表向きは官公庁のPR映画や博覧会のパビリオン音楽を作曲する地味な職業作曲家であったが、裏ではこのNHK電子音楽スタジオに出入りし、ある特定の周波数が人体に与える生理的影響――いわゆるサイコ・アコースティクス(音響心理学および生体音響学)を独自に研究する狂信的な異端児であった。
彼がなぜ、これほどまでに音による人体支配に執着したのか。そのルーツは、戦後二十六年が経過したこの時代においてもなお、彼の精神の奥底にへばりついて離れない、ある絶対的な「恐怖の記憶」に起因している。彼が残した手稿と、友人に宛てた手紙などからその記憶を再現したい。
昭和20年(一九四五年)、太平洋戦争の末期、東京音楽学校(現在の東京藝術大学)から、学徒出陣した若き日の服部正信は、大日本帝国海軍の新型高速潜水艦、伊号第二百四潜水艦に「水測員」として搭乗していた。
既に制海権もとうに失われ、連合国側の絶対的な海となっていた南太平洋、マリアナ海溝の深淵に近い暗黒の海域に、ある特殊な目的を持って彼らは密かに侵入していた。軍令部からの特別命令だった。
その夜、敵駆逐艦の執拗な爆雷攻撃を逃れるため、伊二百四潜は機関を完全に停止。深度計の限界を超える深度で、自動懸垂装置を使い海中で静止し、静かに息を潜めていた。
照明も落とされ、温度も湿度も二酸化炭素も、徐々に濃くなっていく鉄の棺桶の中で、服部はひとりヘッドホンを耳に当て、外界の音に全神経を集中させていた。スクリュー音、爆雷の着水音、そして水圧で軋む船体の悲鳴。
しかし、数時間に及ぶ潜伏の果てに、服部のソナーが捉えたのは、人間の作り出した兵器の音ではなかった。
それは、海の底の、さらにその下から響いてくるような、名状しがたい巨大な「脈動」であった。
鯨の歌声などという生易しいものではない。まるで、地球という惑星そのものが寝返りを打つような、あるいは、有史以前から海底の泥の底でまどろんでいる、山脈ほどもある巨大な「何か」が、ゆっくりと呼吸をしているかのような音だった。
その音波には、人間が理解できるユークリッド幾何学的な規則性が一切存在しなかった。波長は不気味に歪み、和音は人間の耳の構造を根底から否定するような狂った倍音を含んでいた。音の中には気の狂ったオーボエのような響きや、回転しながら近づくホイッスルのような響きが、耳の裏から脳の中に巻きつくように入ってきていた。
瞬間、服部は直感した。「この宇宙は、人間のために作られたものではない」と。圧倒的な宇宙の無関心と、人類の存在など塵芥に等しいという冷酷な真理が、音響情報を介して直接彼の脳髄に流し込まれたのである。
唐突に感じるかもしれない。私もそう思う。狂人の戯言であると。しかし彼はそう感じ理解したは確かだった。
服部は恐怖で身を竦ませたが、悲劇はそれだけでは終わらなかった。ヘッドホンを通さずとも、艦の外穀から響きはじめたその冒涜的な「音」を微かに感知した周囲の乗組員たちが、次々と正気を失い始めたのである。
ある者は自らの鼓膜を鉛筆で突き破り、ある者は「星が、星が降ってくる」と泣き叫びながらハッチを開けようとして取り押さえられた。人間の脆弱な神経系は、その未知の深淵のバイブレーションに耐えきれず、ショートしてしまったのだ。
何とか正気を保っていた艦長の命令により緊急浮上した彼らが目撃したものは、それまで彼らを追撃していた二隻の合衆国海軍の駆逐艦が、絡み付くように衝突し、燃え盛り沈みゆく姿であった。
その後、奇跡的に生還を果たし、復員後に音楽学校に復学した服部であったが、彼の内面はすでに別のものへと変質していた。出征前は快活で笑顔を絶やさぬ男と評判であったのものが、深海の暗闇から生還した後は独り言の多い青白い神経質そうな面構えに変わっていたという。人間が宇宙の暗闇や深海の底に潜む「真の恐怖」に直面したとき、いともたやすく発狂し、肉体を自壊させてしまうという事実。彼はそれを呪いであると同時に、人類が克服すべき至上命題だと家族や友人に聞こえにくい声でよく話していたと言う。
以下は筆者の勝手な思い込みかもしれない。しかしながら、当時の彼のことを知る者から丁寧に聞き取りをした結果、さほど間違ってはいないものかと思う。
卒業後、服部はパリ音楽院に留学し、オリヴィエ・メシアンの下で鳥の歌や複雑なリズムを学んだとされる華麗な経歴を手に入れたが、実のところ、彼の関心は西洋音楽が重んじる「美」や「調和」には一切なかった。
彼が探求していたのは「音によって人間の自律神経をいかに強制操作するか」という一点のみである。パリでの前衛音楽の学習すらも、あの海底で聞いた「狂気の周波数」を論理的に再構築するための手段に過ぎなかった。
例えば、「4.5Hzの超低周波を含ませた和音を鳴らすと、被験者の胃酸分泌が異常亢進する」「特定の変拍子(例えば11/8拍子)を継続して聴かせると、大脳辺縁系の恐怖中枢が麻痺する」といった、兵器転用すら可能な危険なデータ群を彼は密かに蓄積していた。
音楽を聴いて心を震わせるのではない。音楽を浴びせて、物理的に内臓を震わせ、脳を麻痺させる。彼は、音波を使って人間の神経を人為的に進化(あるいは去勢)させるための「音響のワクチン」を作ろうとしていたのだ。
そんな研究を行っていて、目をつけられないわけがない。異端ではある。しかし役に立つ異端であるのならば、元より、このマル四自体が異端である。有人宇宙飛行計画を推進する極秘合同チームは服部を諸手を挙げて迎え入れた。
彼らは服部に対し、無重力空間と異常Gに耐えるための「ラジオ体操第四」の伴奏作曲を特命として下したのである。服部にとって、これは千載一遇の好機であった。国家の潤沢な予算と、死んでも文句の言われないモルモット(被験者)を使って、人間の肉体を宇宙の虚無に耐え得る「強靭な部品」へと作り変えることができるのだから。
十二節の体操内容に対して、服部が提出した「ラジオ体操第四」の音楽スコア(総譜)は、音楽の常識を根底から破壊するものだった。
後に流出した資料の一部によれば、それは五線譜に音符が並ぶ従来のものではなく、図形楽譜に近い代物であった。そこには小節線が存在せず、代わりに「心拍数」「血圧」「G(重力加速度)の推移」を示すグラフが五線譜と並行して描かれていた。それはもはや楽譜ではなく、生体を解体するためのタイムチャートであった。
彼のスコアに秘められた異常性は、大きく三つの要素に分解される。
第一に、調性の完全解体と「純正律」の悪用である。第四には主旋律が存在しない。シェーンベルクが提唱した十二音技法をさらに極端にした無調音楽であり、聴く者に「いつ終わるのか、どこへ向かっているのか」という強烈な不安感を与える。しかし服部の真の狙いはそこではない。彼はピアノの調律を、一般的な平均律ではなく、古代ギリシャの「ピタゴラス音律」をベースに独自に歪めた特殊なチューニングに指定した。
ピタゴラス音律は、完全五度の響きを美しく保つ一方で、特定の和音においては激しい濁り(ウルフの和音)を生じさせる。服部はこの濁りを意図的に増幅させた。これにより、特定の和音を強く打鍵した際、弦の振動同士が干渉し合って不気味な「うなり」を生じさせる。この「うなり」の周波数が、搭乗員の脳波をシータ波(深い瞑想や無意識状態の脳波)へと強制的に引きずり込むように計算されていたのである。それは、彼が深海で聞いたあの這い寄るような低周波の、見事な人工的再現であった。
第二に、ポリリズムによる左右脳半球の強制分断である。第十節『前庭小脳系同期捻転』の伴奏において、服部は左手に4/4拍子の執拗なオスティナート(反復音型)を、右手に7/8拍子と5/8拍子がランダムに入れ替わる旋律を配置した。
人間は宇宙空間で無重力状態に置かれると、視覚情報と三半規管からの情報がズレて激しい宇宙酔いを起こす。服部はこのポリリズムによって、左脳(論理)と右脳(感覚)の情報処理を聴覚から意図的に分断・混乱させ、結果的に三半規管からのエラー信号を大脳が「無視」するように仕向けた。いわば、音楽を使った人為的な神経遮断である。
第三に、メトロノーム記号の暴力である。曲の進行はテンポの異常な跳躍を伴う。第一節の『呼吸連動求心性覚醒運動』では、BPM(一分間の拍数)が「30」という、ほとんど時間が停止したかのような遅さで始まるが、第七節の『末梢微小循環遮断並びに強制還流運動』に至ると、突如としてBPMが「180」へと爆発的に跳ね上がり、不協和音のクラスター(鍵盤を掌や腕で叩き潰す奏法)が連続する。これは搭乗員の心拍数を音楽によって強制的にコントロールし、意図的な虚血状態からの血流再灌流を引き起こすためのトリガーであった。
この人間の生体を破壊・再構築するためのスコアを演奏できるピアニストは、日本中を探しても存在しないかに思われた。感情を込めて弾けばテンポが揺れ、生体同期の計算が狂う。しかし、単なる機械的な演奏では、鍵盤の底まで打ち抜くような「打鍵のエネルギー」が足りず、必要な音響物理的圧力が生み出せない。
白羽の矢が立ったのは、当時、桐朋学園大学音楽学部に在籍していた十九歳の女子学生であった。彼女の名は、未成年でもあることから、計画内では「A・K」と呼称されていたが、A・K―すなわち華佗中亜希子は、ある種の欠落を抱えた異形の天才であった。
彼女は幼少期から絶対音感を超えた超・絶対音感(音の周波数や自然音を含むリズムを絶対値として知覚できる能力)を持ち、どんなに複雑な現代音楽の初見演奏でも、メトロノームと寸分違わぬ完璧な表現で、一切の感情を交えずに弾き切るという異端の才を持っていた。ただ、当時の教授陣からは「技術は世界クラスだが、感情が全く見えない。演奏に血が通っていない」と酷評されていた。
しかし、彼女にとって音楽とは、感情の表現などという生温かいものではなかった。彼女の目には、音が極めて冷徹な幾何学模様として、あるいは底なしの暗黒の空間を構築する数式として映っていた。人間的な喜怒哀楽が入り込む余地など一ミリもない。ただ、楽譜と言う法則に従って、表記された音符や速度やアーティキュレーションを音という物理現象として空間に配置していく作業。それが彼女のピアノであった。
服部にとって、彼女のその血の通わなさこそが、奇跡のような福音であった。服部が求めていたのは芸術家ではない。神の数式を狂いなく物理的打撃へと変換する、完璧な「生体部品」であったからだ。
昭和四十七年十一月十四日、深夜零時。
渋谷区神南のNHK放送センターの地下深く、厳重なセキュリティに守られた第五スタジオ(CR-509)に、彼女は連れてこられた。
スタジオの中央には、この日のためだけに特注されたウィーン製の巨大なピアノ、ベーゼンドルファー・インペリアルが鎮座していた。このピアノの最大の特徴は、通常の88鍵よりも低い音が出るエクストラ・ベース(97鍵)を備えていることだ。黒く塗られたその追加の鍵盤は、深淵への入り口のように口を開けていた。服部は、ロケットの轟音に対抗する超低周波を生み出すため、このインペリアルを更に特殊調律させていた。
副調整室には服部正信、神保博士、そして第九企画室の背広組が陣取り、分厚い防音ガラス越しに、一台の巨大な黒い獣と対峙する華奢な少女を見下ろしていた。
「テイク1、第一節から通しで」
服部のマイクを通した無機質な指示とともに、彼女は鍵盤に指を下ろした。
その瞬間、スタジオ内の空気が物理的に歪んだ。
録音セッションは、まさに地獄絵図の様相を呈した。
ベーゼンドルファーの最低音域の弦が、ピタゴラス音律の狂った和音を弾き出した途端、目に見えない圧力波となってスタジオの床を這い回ったのである。それは、服部がかつて深海の底で聞いたあの絶望の「脈動」の不完全ながら、人の手にによる初めての再現であった。人間の理解を拒む不浄な音波が、防音壁を震わせ、分厚いガラスをきしませる。
第四節『脊柱圧縮対抗屈伸』の伴奏パートに差し掛かると、彼女の指はもはや鍵盤を弾くのではなく、ハンマーのように叩き割り始めた。服部の指定したダイナミクス(音量指定)は、狂気の「ffff(フォルテッシッシモ・極めて強く)」の連続であった。
テイクが重なるにつれ、人間の身体に目に見える異変が起き始めた。
まず、スタジオ内で待機していたベテランの専属調律師が、突如として激しい吐き気と目眩を訴え、膝から崩れ落ちた。インペリアルの発する不自然な音のうなりが、三半規管と内臓の共振周波数に直撃したのである。彼はうめき声を上げながら床を転げ回り、直後に鼻血を吹き出し、医務室へと担ぎ込まれた。
副調整室のエンジニアや役人たちも、冷や汗を流し、胸を抑えて気分を悪くし始めていた。防音ガラス越しでさえ、その複雑に共振する周波数は彼らの神経を確実に犯しつつあった。
しかし、彼女は止まらなかった。
テイク15を超える頃には、彼女の指先は鍵盤との激しい摩擦で裂け、象牙の白鍵には点々と赤い血の飛沫が飛び散っていた。
ピアニストにとって命とも言える指が破壊されていく。それでも彼女の顔には一切の苦痛も疲労も浮かばず、まるで何かに憑依されたかのように、あるいは自身の肉体が音楽そのものと同化したかのように、完璧な変拍子と狂気的な打鍵を刻み続けた。
彼女の虚無の瞳の奥底に、服部は確かに見た。宇宙の暗闇を見つめ返し、その深淵に潜む底知れぬ狂気を平然と咀嚼し、自らの肉体を通じて新たな物理法則として再構築してのける「新しい人」の誕生を。
かつて暗黒の海底で服部の精神を粉砕したあの絶対的な恐怖を、一介の少女が完全に手懐け、凌駕してしまったのだ。
そこに、自身が到達できなかった高みへと至った若き才能に対する嫉妬などは微塵もなかった。服部の胸を支配していたのは、人類という脆弱な種の限界を突破した新たな生命の在り方を目の当たりにしたことへの、宗教的とも言える深い感動と畏敬であった。
録音が終わったのは、翌日の午後二時。連続十四時間にも及ぶ、狂気のセッションであった。
最後の第十二節、全神経をリセットする虚脱の和音を弾き終えた瞬間、彼女は鍵盤の上に糸の切れた操り人形のように倒れ伏し、そのまま深い昏睡状態に陥った。彼女の手首は腱鞘炎を通り越し、微細な疲労骨折を起こしていた。
血塗られた象牙の鍵盤。昏倒する少女。しかし、その凄惨な犠牲と引き換えに、オープンリールの磁気テープには確かな成果が刻み込まれた。それはもはや単なる旋律の記録ではない。空気を物理的に歪め、聴く者の神経を直接侵躙する、明確な質量を持った致死性の「音塊」そのものであった。人類を宇宙の深淵へと放り込むための変拍子の呪いが、実体のある暴力としてこの世に産み落とされたことに対し、服部は身震いするほどの歓喜を覚えた。
静寂を取り戻した副調整室で、服部は録音されたテープの波形モニターを恍惚とした表情で見つめていた。実体化した狂音への陶酔と、ガラスの向こうで静かに眠る「新しい人」への果てしない賛美。狂人のように震え、こぼれ落ちる笑い声を抑えきれないまま、彼は呟いたという。
「完璧だ……。これで人間は、人間のまま宇宙の闇を直視できる」
彼が深海で知った恐怖への復讐は、ついに完成した。そしてその呪いの音塊は、これから虚空行きの棺桶へと押し込められる十二人の被験体たちの肉体を、内側から容赦なく引き裂いていくことになるのである。
次話へつづく
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