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第二話「四ヘルツ 対 変拍子」

 人間は、自らが創り出した機械の恐ろしさを、自身の肉体が破壊されるその瞬間まで真に理解することができない。それは、知性の限界というよりも、進化の過程で獲得した想像力の欠如と言うべきだろう。


 宇宙を目指すという甘美な響きの裏で、『虫籠』計画の心臓部となる急造の全段固体燃料クラスタロケットは、搭乗するパイロットたちに対して、およそ人類が経験したことのない凄惨な暴力を牙を剥いて待ち構えていた。


 液体燃料ロケットと固体燃料ロケットの違いは、端的に言えば「蛇口」の有無である。


 液体燃料ロケットは発射後もスロットル調整によって推力を加減し、搭乗員へのG(重力加速度)負荷を一定に制御できるという人間的な猶予が残されている。


 しかし固体燃料は違う。それは本質的に、巨大な筒に詰め込まれた火薬の塊である。一度点火器が作動すれば最後、途中で止めることも、勢いを弱めることもできない。ただ内部の推進薬が燃え尽きるまで、凄まじい暴力的な推力を放ち続けるのみである。それは飛行というより、終わりのない爆発の先端にしがみつくような行為に等しい。しかし問題は、その単なる「Gの大きさ」だけではなかった。


 さらに恐ろしいのは、推力を無理やり増強するために複数のロケットモーターを束ねたクラスタ構造がもたらす、極めて複雑で悪魔的な振動波形の発生であった。燃焼室内部で発生する圧力微小振動、すなわち「アコースティック・オシレーション」と呼ばれる現象である。数千度の炎と高圧ガスが噴出する過程で、ロケット全体が微細かつ猛烈な振動を引き起こす。


 計算の結果、この機体全体を揺さぶる激しい縦揺れの周波数が、あろうことか「人間の内臓の共振周波数(4〜8Hz)」に極めて近いという、悪夢のような事実が判明したのである。


 物体には、それぞれ揺れやすい固有の周波数がある。グラスに特定の高さの音を当て続けると割れてしまうのと同じ理屈だ。人間の内臓――胃、肝臓、腸、そして心臓もまた、4ヘルツから8ヘルツの激しい振動を与えられると、体内で強烈に共振し、固定されている靭帯や結合組織から引き剥がされるように暴れ狂う。それは外傷を伴わずに、内臓をミキサーにかけるような拷問であった。


 さらに、複数の固体ロケットモーターが発する位相の異なる振動波が干渉し合うことで、特定のタイミングで振動の振幅が異常に跳ね上がる「ビート現象」まで重なる。これはもはや、人間を運ぶための乗り物の挙動ではない。


 この残酷な物理法則を身をもって知ることになったのは、極秘裏に選抜された十二名の空の騎士たち――「第一種特殊身体技能官」たちから抽出された三名である。彼らは遠心力発生装置(セントリフュージ)に押し込められ、固体ロケットの打ち上げプロファイルを見立てた10Gの模擬Gと、4〜8Hzの複合振動訓練を受けさせられた。


 結果は惨憺たるものであった。強靭な肉体を誇る元戦闘機パイロットたちは、次々と網膜剥離を起こし、心臓の不整脈に倒れ、極度の筋肉の収縮による横紋筋融解症を発症した。さらには、凄まじいGと振動の中で、ただ呼吸をするためだけに胸郭を動かそうとしただけで、肋骨の疲労骨折を起こす者まで現れたのである。


「このままでは、軌道に到達した時点で搭乗員は全員ショック死しているか、内臓出血の激痛で操縦不能に陥っている」


 防衛省嘱託であり、本計画の主任医官を務めた元陸軍軍医学校教官・神保修三(じんぼ・しゅうぞう) 医学博士は、内閣調査室長に対して否定的な報告書を提出せざるを得なかった。神保は、かつて大陸で人間の肉体の限界と崩壊を嫌というほど観察してきた男である。その彼をして、このロケットの生体負荷は「人間を乗せる前提で作られていない」と断言させるほどの絶望的な数値であった。


 しかし、地獄は打ち上げの瞬間だけでは終わらない。仮に奇跡的に内臓が破裂せずに大気圏外へ到達できたとしても、今度は実験プロセスそのものが要求する過酷な負荷が彼らを待ち受けている。核弾頭の分離、計測機器の手動アライメント、そしてEMPの嵐をやり過ごした後のデータコアの手動回収。これら一連のミッションを完遂させるためには、凄まじい空間識失調(いわゆる宇宙酔い)による絶え間ない嘔吐感と激しい眩暈を克服し、絶対的な精神的明晰さを保ち続けなければならない。


 さらに彼らを絶望させたのは、その居住空間の異常な狭さである。


『虫籠』計画のために急造設計された単座式カプセル「天翔一号」の船内容積は、わずか一・八立方メートルしかなかった。それは公衆電話ボックスよりも狭く、棺桶を少しだけ縦に引き伸ばした程度の空間である。体を伸ばすことすら叶わず、膝を抱えるような窮屈な姿勢でシートに厳重に拘束され続ける。この極小の金属の檻の中に、打ち上げから帰還までの数日間にわたって閉じ込められるのである。


 前話で触れた通り、彼らが持ち帰らねばならないデータコアは、アナログ磁気テープや鉛ガラスで保護された写真乾板という、極めて重厚な物理メディアである。これを機械式マニピュレーターを手動で操作するか、最悪の場合は船外活動で力ずくでカプセル内に引き込まなければならない。拘束された姿勢のまま、手首と腕の筋肉だけで数百キログラムの物体を動かすような、無重力空間特有の慣性モーメントとの格闘が要求される。


 ストレッチをする空間的な余裕など全くない。何か器具を持ち込むことは、重量とスペースの制限から一グラムたりとも許されなかった。ペイロードはすべて核弾頭と分厚いシャドウ・シールド、そして計測機器に全振りされているからだ。


 物理的な方法で対処できないとなれば、次に考案されるのは化学的アプローチである。薬物による神経・筋緊張維持も試みられた。しかし、アンフェタミン系刺激剤(かつて特攻隊員に投与された「ヒロポン」の系譜である)は、極度の精神的偏執病(パラノイア)を引き起こすことが臨床実験で確認された。至近距離での熱核兵器起爆という極度に冷静な判断を要する任務において、パラノイアを発症したパイロットが計器を握るなど、狂気以外の何物でもない。薬物の使用は、根本的に不適格と判定された。


 核爆発実験という複雑かつ困難なミッションを、一・八立方メートルという狭小な棺桶の中で、自らの神経系と筋肉のみを極限まで駆動する事によって、器具を使わず、一切の薬物に頼らず、凶悪な加速と振動に耐えた後、生体機能を維持するのみならず、絶対的に冷静な判断力を維持し続け、成功させる。


 それは、東洋の神秘主義者か、あるいは魔法使いにしか不可能な所業に思われた。防衛庁の技術将校たちも、東大の物理学者たちも、この人類の肉体の限界と言う生物学的な袋小路の前で沈黙した。


 だが、ここで神保博士の狂気に満ちた着眼が光を放つ。彼が導き出した解決策、それは「日本人が幼少期から身体に刻み込んできた、ある文化的身体記憶」の軍事・生体工学的転用だった。


 そもそも人間という生物は、極限のパニック状態や過剰G下では論理的思考を停止するようにできている。脳に血が巡らなくなり、恐怖で大脳皮質が焼き切れそうになったとき、どれほど高度な訓練を受けたパイロットであっても、複雑なマニュアルを思い出すことは不可能である。


 しかし、神保博士は知っていた。人間の脳が論理を放棄したその先で、最後まで働き続けるものがある。それは「条件反射」である。



 一九二八年(昭和三年)、昭和天皇即位の礼を記念して逓信省簡易保険局があるものを制定した。「国民保健体操」に端を発する、あのラジオ体操である。それは、単なる健康法ではなかった。全国民に同じ時間に同じ動きをさせるという、国家規模の壮大な身体調律プログラムであった。


 この体操は、日本人の筋骨格、そして神経反射のパターンに深く、あまりにも深く根を下ろしていた。


 号令とピアノの拍子を聞くだけで、大脳皮質を介さずに小脳と脊髄反射のレベルで筋肉が連動する。「イチ、ニイ、サン、シイ」という無機質な四拍子のリズムを耳にした瞬間、日本人は無意識のうちに姿勢を正し、特定の筋肉を収縮させる準備を整えてしまうのだ。


 神保博士はこの「無意識の身体連動」に目をつけた。「幼少期から刷り込まれた『イチ、ニイ、サン、シイ』のリズムだけは、死の直前まで脳幹を駆動し続ける。この反射弓を利用し、新たな拍子の身体連動を極限の生体防衛反射を組み込むのだ」


 論理的な訓練では限界がある。ならば、日本人が生まれながらにして植え付けられている「ラジオ体操」という国民的パブロフの犬のシステムを善用(ハッキング)し、そこに宇宙空間と過剰Gを生き抜くための、全く別の致死的な身体コマンドを上書きしてしまえばいい。これが神保の導き出した解決策であった。


 計画は、恐ろしいほどの速さで実行に移された。


 一九七二年八月、郵政省簡易保険局保険健康課の奥に、表向きは「職域向け新規高強度体操開発班」という、いかにもお役所らしい無害な看板を掲げた特別作業班が発足した。しかし、その密室に集められた参画メンバーの顔ぶれは、健康増進という言葉からは対極にある、異形のエキスパートたちであった。


・神保修三(神保総合生理学研究所所長。医学博士。防衛庁嘱託。畸福蛭子神社宮司)

 経歴は前述済み。生体工学・航空医学の権威として計画を統括する。本ミッションで必要とされる各種要件洗い出し、人間の肉体をどこまで痛めつければ壊れるかという限界値を設定する。


・高取栄一郎(元日本体育大学教授・徒手体操理論家)

 運動力学的プログラミング担当として、彼は人間の関節や筋肉の連動を物理的なベクトルとして計算し、一切の無駄を削ぎ落とした「動きのアルゴリズム」を構築する。拘束衣のような宇宙服を着たまま、極小空間で完結する手首と足首、首の動きだけで全身の筋肉に最大負荷をかけるメソッドの開発である。 


・滝本巌(古流柔術・当身道師範)

 呼吸法およびアイソメトリックス(等尺性収縮)導入の専門家。古武術の奥義である「目に見えない力の使い方(呼吸によって内圧を高め、筋肉を石のように硬直させる技法)」を、近代的な身体工学へと翻訳し、パイロットたちの肉体に暴力的に叩き込む役割を担った。


・服部正信(逓信省嘱託作曲家・前衛音楽家)

 変拍子生体同期音響の設計担当。ピアノの音色を用いて人間の自律神経と運動野を直接操作しようとする、音響心理学の異端児であった。彼の真の任務は、高取が緻密に計算し、滝本が暴力的に組み上げた複雑な身体の動きを、彼の作り出す楽曲によって飛行士の肉体に自動的に再現させることである。絶望的なGやパニックによって搭乗員が意識を失いかけた状態であっても、刷り込まれた音のトリガーを耳にした瞬間に、大脳皮質を飛び越えて脊髄反射が強制的に引き起こされる。つまり、肉体を音響によってハッキングし、規定の動作を寸分の狂いもなく実行させるための「物理的なコマンドとしての楽曲」を創り出すことであった。



 この四人に課された目的は、第一や第二のような「爽快な健康増進」では断じてなかった。彼らが創造すべきものは、体操の皮を被った「生体装甲」であった。


 彼らが掲げた開発の真の目的は以下の三点に集約される。


 第一に、「過酷環境下における肉体の内破防止」

 打ち上げ時の4ヘルツの共振と9Gの圧力から内臓と骨格を守るため、古武術の呼吸法とアイソメトリックスを応用し、自らの筋肉で内臓を強力に締め付け、腹腔内圧を極限まで高めて人工的な「肉体のギプス」を形成すること。


 第二に、「極小空間における筋神経ネットワークの強制駆動」

 天翔一号の拘束シートに縛り付けられた状態で、器具を一切使わずに、拮抗筋同士を意図的に衝突させる等尺性収縮を利用して筋肉に最大負荷をかけ続けること。これにより、脳と筋肉の接続が切断されるのを防ぎ、データコア回収に必要な瞬発的な筋力を温存する。


 第三に、「放射線被曝耐性を高めるための血流局所遮断制御」

 至近距離での核爆発による強烈な宇宙線から、造血を担う骨髄や重要な臓器を守るため、特定の筋肉を意図的に痙攣・硬直させることで血管を圧迫し、一時的に血流をコントロール(重要臓器への血流集中と末梢血管の遮断)すること。


 これこそが、歴史の闇に封印された「マル四」の真の目的であった。


 それは、国民の健康を願って作られた希望の旋律と体捌きを、核弾頭を背負って虚無の宇宙へ飛び立つ男たちの肉体と精神を守るための、ご詠歌と不動の神楽舞へと書き換える作業の始まりであった。


 骨を砕き内臓を潰す加速度と振動、過酷な宇宙環境に閉ざされた震える棺桶の中で、彼らはパブロフの犬のごとく、変拍子の呪いにより、自らの肉体を人を超えるものへと作り変えていくことになるのである。



 次話につづく


最後までお付き合いいただき感謝します。

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