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おまけ「深海の案山子たち」その1

 人間が空を見上げるのをやめた時、その視線は必然的に足元の暗闇へと向かう。


 いま現在――令和一二年(二〇三〇年)の東京から振り返れば、すべての転換点はやはり一九七四年(昭和四十九年)のあの春にあったと言えるだろう。


 当時のアメリカ合衆国国務長官ヘンリー・キッシンジャーが突きつけた冷酷なデマルシェによって、純国産有人宇宙船『案山子』と純国産核弾頭『火鉢』、そして極限の生体適応プログラム『虫籠』が凍結されたあの日である。


 当時の計画立案者たちが、アメリカの圧倒的な情報網と恫喝の前に膝を屈しながら得た最大の教訓は、「空の上には隠れる場所がない」という極めて単純な物理的事実であった。


 大気圏外を目指して打ち上げられる固体燃料ロケットの強烈な赤外線も、発射基地の建設も、アメリカが張り巡らせた偵察衛星のレンズからは決して逃れることができない。空とはガラス張りの密室であり、そこでは超大国の許可なくして鳥一羽すら自由に飛ぶことは許されないのだ。


 だが、海の底はどうだろうか。


 かつて『案山子』計画でカプセルの設計に携わっていた宇宙開発事業団(NASDA)の技術者が、計画頓挫後に深海探査艇の耐圧殻設計へと配置転換されたことは、単なる人事上の気まぐれではなかった。宇宙空間の「絶対真空(ゼロ気圧)」に耐える球体を作ることと、深海の「超高水圧(数百気圧)」に耐える球体を作ることは、圧力のベクトルが内から外へ向かうか、外から内へ向かうかの違いでしかない。構造力学と、外部から完全に遮断された閉鎖空間における生命維持という点において、宇宙船と潜水艦は同じコインの裏表だったのである。


 電波も光も届かない数百メートルの深海は、どれほど高性能なアメリカの偵察衛星をもってしても絶対に覗き見ることのできない、地球上に残された最後の「聖域」であった。


「空の畑に案山子を立てられないのなら、海の底に沈めておけばいい」


 こうして、半世紀にわたる壮大な「潜行」が始まった。


 この途方もない長期計画を可能にしたのは、一九七四年の屈辱を『臥薪嘗胆』の燃料へと変えた日本政府中枢の冷徹なリアリズムと、それによって維持された強靭な経済力であった。


 一九九〇年代初頭のバブル崩壊という未曾有の危機に際し、この国の政策担当者と官僚機構は、短期的な自己責任論に委ねる新自由主義の誘惑を峻拒した。不動産や建設業といった国内消費型の不良債権には容赦のない外科手術を下して凄まじい淘汰の痛みを社会に強いる一方で、国家の血液たる製造業のコア技術と金融基盤だけは、なりふり構わぬ国家資本主義的介入によって死守した。いかに赤字が嵩もうとも、次世代半導体、新素材、二次電池技術への巨額の国家投資だけは決して手放さなかったのである。


 さらに決定的だったのは、二〇〇〇年代初頭における対中政策の転換であった。安価な労働力と巨大市場を求めて中国大陸へ雪崩を打とうとした財界に対し、内閣調査室と通産省(現・経済産業省)は『安全保障上の重大な技術漏洩リスク』を盾に、事実上の資本移動規制という強硬手段に出た。短期的な利益機会を奪われ、国際競争への遅れを危惧する経済界からは怨嗟の声が巻き起こったが、政府は莫大な補助金とODAをテコに、彼らの目を東南アジアからインドへと向かせた。


 激しい官民の暗闘とインフラ構築の苦難の末、日本企業はアメリカや欧州が中国依存の泥沼に足を踏み入れるより遥か以前に、強靭な『チャイナ・オルタナティブ(代替中国)』のサプライチェーンを確立するに至った。


 目先の利益を捨てて技術と資本の流出を防ぎ、さらに成長著しいASEAN経済圏を自国のエコシステムに組み込んだ成果は、二〇三〇年の現在において証明されている。日本は中国に一度たりともGDPで抜かれることなく、アメリカに次ぐ『世界第二位の経済超大国』の座を盤石なものとして維持し続けている。


 徹底した国内製造拠点の保護は、大都市圏への極端な富の一極集中を防ぎ、地方都市に良質な雇用を残した。終身雇用制度の緩やかな近代化と相まって分厚い中間層が守られた結果、先進各国を蝕む人口減少の波も、この国においては極めて穏やかなものにとどまっている。家族を形成し養うに足る『経済的安心感』が底支えとなり、二〇二六年時点における日本の合計特殊出生率は、一・九六という驚異的な水準を記録している。


 街には若者が溢れ、その中からは大学の理工学部や高専に進む者も多く、毎年のように優秀なエンジニアが輩出され続けている。


 要するに、この国は「極めて裕福」であり、なおかつ「若くいられた」のである。


 潤沢な国家予算と頂点を極めた工業技術は、防衛予算という名のブラックボックスへと惜しみなく注ぎ込まれた。とりわけ、海洋国家の生命線である潜水艦技術、なかんずく「潜水艦用リチウムイオン二次電池」と「超静音推進機関」への投資額は、他国の軍事関係者が聞けば卒倒するほどの規模に達していたのである。



 いくら経済力と技術力があろうとも、非核三原則を建前とし、平和憲法を掲げる日本が、いきなり「明日から戦略原子力潜水艦を造ります」と宣言すればどうなるか。国内のメディアが騒ぎ立てる前に、再びワシントンから安保破棄や経済制裁の首輪を引かれることは火を見るより明らかであった。


 そこで防衛省技術研究本部(現・防衛装備庁)と重工メーカーの設計陣が採った手法は、日本の官僚機構が最も得意とする「段階的既成事実化」と「書類上の徹底的な偽装」であった。


 二〇一〇年代中盤、海上自衛隊は従来の「そうりゅう」型とは全く異なる設計思想を持つ、三隻の巨大な通常動力型潜水艦を相次いで竣工させた。


 公式分類上は「長期行動型・大型試験潜水艦」とされた「みずち」型潜水艦、


一番艦「みずち」(SSG-601・二〇一六年就役)

二番艦「ちひろ」(SSG-602・二〇一八年就役)

三番艦「うなばら」(SSG-603・二〇一九年就役)


の三隻である。


 この「みずち」型が呉と横須賀に姿を現した時、世界中の軍事アナリストたちは首を大いに捻った。通常動力型(ディーゼル・電池推進)でありながら、その基準排水量は五千二百トン、水中排水量は六千八百トンに達し、船体幅は一二・五メートルという異様なまでの巨躯を誇っていたからである。


 搭載されていたのは、潤沢な国家予算を投じて完成させた「第四世代・全固体リチウムイオン二次電池」であった。従来の鉛蓄電池はおろか、初期型リチウムイオン電池と比較してもエネルギー密度は三倍以上に達し、ディーゼルエンジンによるシュノーケル充電を一切行うことなく、完全潜航状態で三週間以上の高速機動を可能としていた。


 しかし、真の異常性はバッテリーの性能ではなかった。船体中央部、セイル(艦橋構造物)の直後方に、全長約十五メートルにわたる不自然なほど巨大な「多目的区画」が存在していたのである。


 野党議員や海外メディアからの追及に対し、防衛省の背広組は国会答弁でこうシラを切り通した。


「当該区画は、将来的な新型燃料電池システムの増設スペース、および南西諸島防衛のための大型無人潜航艇(UUV)の格納・運用区画であります」


 また、その多目的区画に隣接する船体背部に穿たれた、直径二・四メートルを超える四基の巨大な垂直発射筒(サイロ)については、「島嶼部への侵攻を企図する敵艦隊をアウトレンジから排除するための、国産長距離ステルス巡航ミサイルの複数同時運用試験用である」と説明された。


 実際、「みずち」「ちひろ」「うなばら」の三隻には、一セルあたり四発の国産長距離ステルス巡航ミサイル(一四式対艦誘導弾・固定目標への発射可能・射程二千五百キロ・通常弾頭)を束ねた「クワッドパック」が四基、計十六発装填された。


 二〇一八年から二〇二〇年にかけて、この三隻は東シナ海および台湾海峡周辺において、膨張を図る中国海軍の空母打撃群を海底から完全にロックオンし続けるという冷徹なデモンストレーションを敢行し、その圧倒的な静粛性と通常打撃力を見せつけた。


 ペンタゴンはこれを見て大いに満足した。「裕福な同盟国・日本は、潤沢な資金を使って高性能な通常動力潜水艦を造り、日米同盟の枠内で中国の海洋進出を抑え込む『盾』の役割を忠実に果たしている」と。


 だが、それこそが半世紀単位で臥薪嘗胆を計画するこの国が仕掛けた、精緻なトロイの木馬であった。


 先行して建造された「みずち」型三隻の本当の目的は、原子炉以外のすべての要素――深海での水流剥離を極限まで抑えた葉巻型の流体力学的船体、キャビテーション(気泡)を一切発生させない先進ポンプジェット推進器、超高張力鋼「NS130」とチタン合金ハニカム材を組み合わせた複合耐圧殻、そして大口径垂直発射筒の発射衝撃制御システム――を、実海域で完全に熟成させるための「原潜先行実証艦」だったのである。


 そして何より着目すべきは、あの船体中央の「多目的区画」と「機関室区画」の設計であった。


 「みずち」「ちひろ」「うなばら」のディーゼル発電機および燃料タンクが収められた区画は、船体構造材をガスバーナーで切断することなく、上部ハッチとモジュール隔壁の特殊ボルトを外すだけで、クレーンによって機関ごと丸ごと抜き取ることができる構造になっていた。


 そして、そのぽっかりと空いた空間には、「別の熱源機関モジュール」が、まるで最初からそう設計されていたかのように一ミリの狂いもなくそのまま挿げ替えられる寸法になっていたのである。


 その「別の熱源機関」こそ、かつて東海村でアメリカの査察団によってMOX燃料へと希釈されたはずの『火鉢』のもう一つの遺産であった。民生の次世代小型モジュール炉(SMR)の研究開発という名目の裏で、豊富な研究資金を背景に極秘裏に完成されていた「一体型自然循環冷却方式・加圧水型軽水炉(熱出力一二〇メガワット)」である。


 従来の原子力潜水艦は、原子炉の熱を冷やすために「一次冷却水循環ポンプ」を常に回し続けなければならず、そのポンプの微かな稼働音がソナーに探知されるという致命的な宿命を背負っていた。


 しかし、日本の技術陣が開発したこの原子炉は、炉心と蒸気発生器を一体化した縦長構造を採用し、水の温度差による「自然対流」のみで冷却水を循環させることに成功していた。高出力発揮時を除き、通常のパトロール航行中は冷却ポンプを完全に停止できるため、原理的に機械音が一切発生しない。


 これに「みずち」型で実証された全固体リチウムイオン二次電池と超電導モーターを組み合わせた結果、海洋の背景雑音(バックグラウンド・ノイズ)に完全に溶け込む、文字通りの「音響的ブラックホール」が完成したのである。



 二〇二一年三月十一日。


 世界中が新型コロナウイルスのパンデミックによる混乱とサプライチェーンの麻痺に陥り、アメリカのインテリジェンスの目が自国の内政と大統領交代劇に釘付けになっていたその間隙を突いて、神戸の造船所の巨大な覆道ドックから、黒塗りの巨体が音もなく瀬戸内海へと滑り出た。


 国産原子力潜水艦一番艦「わだつみ」(SSGN→SSNN-701)の就役である。


「みずち」型の四番艦として起工されながら、最初から機関区画にディーゼルではなく「自然循環型原子炉モジュール」を搭載して完成した、真の第一号艦であった。


 「わだつみ」型のスペックは、既存の軍事常識を嘲笑うかのような数値で構成されていた。


* 基準排水量:六千八百トン(水中排水量:八千九百トン)

* 全長:一一八・〇メートル / 全幅:一三・二メートル

* 主機関:国産一体型自然循環加圧水型原子炉一基+全固体リチウムイオン二次電池ハイブリッド・ターボ・エレクトリック推進(一軸・先進ポンプジェット)

* 水中最高速力:三二ノット以上(自然循環モードによる無音巡航速力:二〇ノット)

* 安全潜航深度:八〇〇メートル(圧壊限界深度:一、二〇〇メートル推定)

* 乗員数:七十五名(高度な自動化による省人化を実現)

* 兵装:艦首五三三ミリ魚雷発射管六門(一八式重魚雷・超キャビテーション高速魚雷・対艦ミサイル運用可能)、背部大口径垂直発射筒(サイロ)四基


 「わだつみ」型の最大の特徴は、米露の海軍常識では別個の艦種とされる「攻撃型原潜(SSN)」と「戦略ミサイル原潜(SSBN)」の完全なるハイブリッド艦として設計されている点にあった。


 通常、戦略ミサイル原潜とは二万トン近い巨体に十六発から二十四発のミサイルを積み、敵の攻撃型原潜に見つからないよう味方の海域でじっと息を潜める「鈍重な要塞」である。しかし、日本の設計陣は考えた。「なぜ、核ミサイルを積んだ艦が、自ら敵のハンターキラー(攻撃型原潜)を狩り殺してはいけないのか?」と。


 水深八〇〇メートルという、アメリカや中国の魚雷すら容易に到達できない超深海を二〇ノットの無音で疾走し、近づく敵の攻撃型原潜を世界最高峰のパッシブ・ソナーと一八式魚雷で一方的に屠り去る最強のハンターでありながら、その背中には国家を滅ぼす四本の「槍」を背負っている。これが「わだつみ」型の恐るべきコンセプトであった。


 とはいえ、二〇二一年の就役当初、「わだつみ」の背中にある四基のサイロには、「みずち」型と同様にクワッドパック化された通常弾頭の長距離巡航ミサイルが十六発搭載されていた。日本政府はアメリカに対し、「増大する極東の脅威に対処するため、航続距離の制限がない原子力推進を導入した『巡航ミサイル原潜(SSGN)』である。


 非核三原則は堅持されており、核兵器は一切搭載していない」と強弁した。経済力で圧倒的優位に立ち、半導体とバッテリーの供給網を握る日本に対し、当時のバイデン政権は苦虫を噛み潰したような顔をしながらも、この既成事実を呑み込まざるを得なかったのである。



おまけ その2につづきます。


最後までお付き合いいただき感謝します。

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「南山共和国建国史シリーズ」

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ご興味がある方はご一読くださいませ。


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