第五話「空の亀裂」
アルヴェリア王国最北端――城塞都市。
黒い竜が北の空へ消えてから、数時間が経っていた。
薄暗い部屋。
机の上には、ケントが旅に持ち込んだ携帯用の魔導現像器具。
淡い青色の光を放つ現像槽の中で、撮影済みの感光媒体がゆっくりと像を結び始めている。
ケント「…………頼む。」
隣ではミサキが腕を組んで待っていた。
ミサキ「まだ?」
ケント「まだ。」
ミサキ「さっきもそう言った。」
ケント「現像は急かしたって早くならないんですよ。」
ミサキ「……便利そうで不便なのね、撮影機って。」
ケント「そこがいいんです。」
ミサキ「分からない。」
ケント「待ってる時間も含めて写真なんですよ。」
ミサキ「もっと分からない。」
ケント「そのうち分かります。」
ミサキ「覚える予定ないけど。」
ケント「そうですか。」
だが――。
二人とも、本当は笑っていなかった。
今日、ゲラーデン上空に現れた黒い竜。
その背には確かに人が乗っていた。
ケントは何度もシャッターを切った。
しかし――写っている保証はない。
竜は高速で飛んでいた。
距離もある。
露出が外れているかもしれない。
手ブレしているかもしれない。
そもそも騎手が判別できるほど鮮明に写っているのか。
それは――
現像が終わるまで、誰にも分からない。
ケント「…………。」
ミサキ「緊張してる?」
ケント「そりゃしますよ。」
ミサキ「竜を目の前にした時より?」
ケント「今の方が緊張してる。」
ミサキ「変な人。」
ケント「五回目。」
ミサキ「まだ数えてたの?」
そのとき。
現像槽の光が消えた。
ケント「……来た。」
一枚目。
黒い竜。
ケント「写ってる……!」
ミサキ「次。」
二枚目。
少しブレている。
三枚目。
露出不足。
ケント「くそ……。」
ミサキ「まだある。」
四枚目。
竜の翼。
そして――五枚目。
ケント「…………!」
ミサキ「これ。」
黒い竜の背。
そこに確かに――
人影が写っていた。
ミサキ「拡大できる?」
ケント「原版から焼き直せば。」
ケントは携帯用の魔導拡大器へ原版をセットする。
像の一部だけを切り出し、新しい印画紙へ焼き付ける。
再び待つ。
やがて浮かび上がったものは――。
外套。
防具。
そして胸元。
ケント「……紋章?」
ミサキの目が細くなる。
ミサキ「間違いない。」
ケント「どこの?」
ミサキ「ドラケベル山岳公国軍。」
ケント「…………。」
野生の竜ではない。
人間が乗っている。
しかも軍人。
ケント「竜騎士……。」
ミサキ「ええ。」
ケント「公国は竜を軍事利用してるのか?」
ミサキ「聞いたことがない。」
ケント「じゃあ何で……。」
ミサキ「それを調べるのが、私たちの仕事。」
ケント「……そうでした。」
ミサキ「撮影旅行じゃないからね?」
ケント「分かってますって。」
ケントは残りの原版も確認していく。
六枚目。
七枚目。
そして――。
ケント「……ん?」
ミサキ「どうしたの?」
ケント「これ。」
最後の一枚。
竜そのものは失敗していた。
構図から外れ、翼の一部しか写っていない。
ケント「ダメだな。外した。」
廃棄しようとした――その時。
ミサキ「待って。」
ケント「?」
ミサキ「右上。」
ケント「右上……?」
写真の端。
雲。
そのさらに奥。
一本の――
紫色の線。
ケント「…………。」
ミサキ「拡大して。」
ケント「やってみる。」
再び拡大焼き。
しかし元々、小さく写り込んだものだ。
粒子が荒れる。
輪郭も崩れる。
それでも――。
二人には分かった。
ケント「……同じだ。」
王城でサクラから見せられた記録映像。
空を引き裂くように現れた――
紫色の亀裂。
ミサキ「肉眼では見えなかった。」
ケント「俺も気づかなかった。」
ミサキ「撮影機だけが捉えた……?」
ケント「いや。」
ミサキ「?」
ケント「偶然だと思う。」
ミサキ「偶然?」
ケント「シャッターを切った瞬間だけ現れてたのかもしれない。雲で見えなかっただけかもしれない。」
写真を見つめる。
ケント「だから、この一枚だけで決めつけちゃダメだ。」
ミサキ「…………。」
ケント「写真だって、全部を説明してくれるわけじゃない。」
ミサキ「でも――」
写真を指差す。
ミサキ「そこに何かあったことは残った。」
ケント「……うん。」
初めてだった。
ミサキが、ケントの写真を「綺麗」ではなく――
記録として信頼した瞬間だった。
翌朝――ゲラーデン北門
騎士「本当に行かれるのですか!?」
ケント「そのために来ましたから。」
騎士「しかし、この先はドラケベルとの国境地帯です!」
ミサキ「国境は越えない。」
騎士「ですが……!」
ミサキ「異変を確認したら戻る。交戦もしない。」
ケント「撮影できるものだけ撮って帰ります。」
ミサキ「……あなたの場合、その言葉が一番信用できない。」
ケント「まだ昨日のこと言ってる!?」
騎士「…………。」
ミサキ「何?」
騎士「お二人……随分仲がよろしいですね。」
ケント・ミサキ「よくない。」
声が揃った。
ケント「…………。」
ミサキ「…………。」
騎士「…………。」
ミサキ「行くよ。」
ケント「はい。」
ゲラーデンを離れる。
ここから先は街道ですらない。
岩。
雪。
険しい山道。
そして――静寂。
ケント「……寒っ。」
ミサキ「北方だから。」
ケント「それ説明になってます?」
ミサキ「寒いものは寒い。」
ケント「身も蓋もない。」
馬を降り、徒歩で山道を進む。
やがて。
ミサキが突然止まった。
ミサキ「…………。」
ケント「どうした?」
ミサキ「静かすぎる。」
ケント「?」
確かに。
鳥がいない。
虫の音もない。
風の音だけ。
ミサキ「ケント。私から離れないで。」
ケント「分かった。」
今度は素直に従う。
さらに進む。
そして――。
ケント「…………。」
二人の前に巨大な岩壁が現れた。
その表面。
ケント「これ……。」
巨大な爪痕。
昨日、街道で見たものとは比較にならない。
ミサキ「新しい。」
ケント「分かるの?」
ミサキ「雪が積もってない。」
ケント「……昨日か。」
ミサキ「あるいは今朝。」
ケントは魔導撮影機を取り出す。
ミサキ「待って。」
先に周囲を確認する。
ミサキ「……いい。」
ケント「ありがとう。」
カシャ。
一枚。
角度を変える。
カシャ。
もう一枚。
ミサキ「慣れてきた。」
ケント「何が?」
ミサキ「あなたが撮り始めるタイミング。」
ケント「」
さらに山へ。
昼過ぎ。
空が急に暗くなった。
ケント「天気悪くなる?」
ミサキ「……違う。」
ミサキが空を見る。
ケントも顔を上げる。
雲が――
渦を巻いている。
ケント「…………。」
中心。
空間が歪む。
ミサキ「ケント……。」
ケント「見えてる。」
二人の目の前で――。
バキッ。
音がした。
まるで巨大なガラスに亀裂が入るような音。
空に――
一本の紫色の線。
ケント「……これだ。」
サクラから見せられた映像。
写真に写った光。
その実物。
空の亀裂。
ケントは反射的に魔導撮影機を構える。
ミサキ「ケント!」
ケント「一枚だけ!」
カシャ!
ミサキ「下がって!」
ケントの腕を掴み、強く引き寄せる。
次の瞬間。
バァン――!!
紫色の亀裂が大きく開いた。
ケント「……っ!」
そこに――。
別の空がある。
こちらは曇天。
だが亀裂の向こうは――赤い。
見たことのない巨大な月。
黒い雲。
そして遥か彼方。
ケント「…………城。」
巨大な建造物。
王都アルヴェリアの王城とはまるで違う。
空へ突き刺さるような黒い尖塔。
ミサキ「……何なの、あれ。」
ケント「分からない。」
そのとき。
亀裂の向こう。
何かが動いた。
ミサキ「下がって!」
剣を抜く。
ケントも後退する。
巨大な影。
翼。
ケント「竜……!」
だが――昨日の黒竜とは違う。
さらに巨大。
亀裂を通るには大きすぎる。
向こう側からこちらを覗くように――
巨大な眼が開いた。
ケント「…………。」
ミサキ「見るな!」
ミサキがケントを庇う。
その瞬間。
頭の中に――
声。
『――――』
ケント「……っ!?」
ミサキ「ケント!?」
声ではない。
言葉でもない。
なのに――意味だけが直接入ってくる。
――見つけた。
ケント「…………。」
ミサキ「どうしたの!?」
そして。
亀裂の向こうの巨大な瞳が――
ケントだけを見た。
『――鍵。』
ケント「……鍵?」
ミサキ「何言ってるの!?」
次の瞬間。
亀裂が閉じ始める。
ケント「待っ――」
カシャ!
無意識にもう一度シャッターを切った。
紫色の光。
巨大な眼。
黒い城。
すべてが――
一瞬で消えた。
静寂。
空は元通り。
ケント「…………。」
ミサキ「ケント!」
肩を掴まれる。
ケント「……大丈夫。」
ミサキ「大丈夫な顔じゃない。」
ケント「今……聞こえた。」
ミサキ「何が?」
ケント「声。」
ミサキ「私は何も聞こえなかった。」
ケント「…………。」
ミサキ「何て?」
ケントは迷った。
だが答える。
ケント「『見つけた』。」
ミサキ「…………。」
ケント「それと――」
自分の胸元を見る。
ケント「『鍵』。」
ミサキ「…………。」
剣を握る手に力が入った。
ミサキ「戻る。」
ケント「でも――」
ミサキ「戻る。」
今まで聞いたことのない強い声。
ケント「……分かった。」
ミサキ「これはもう偵察の範囲を超えてる。」
ケント「うん。」
ミサキ「サクラ陛下へ報告する。」
そして――。
ミサキはケントを見る。
ミサキ「それに。」
ケント「?」
ミサキ「今のアレがあなたを見てたなら――」
一歩近づく。
ミサキ「もう、あなた一人の問題じゃない。」
ケント「…………。」
ミサキ「私はあなたの護衛。」
剣を鞘へ戻す。
ミサキ「だから必ず守る。」
ケント「……ありがとう。」
ミサキ「礼は帰ってから。」
ケント「はい。」
二人は山を下り始めた。
だが――。
ケントは一度だけ振り返った。
何もない空。
それでも。
なぜか。
まだ見られている気がした。
その夜――ゲラーデン
再び薄暗い現像室。
ミサキ「…………。」
ケント「…………。」
現像槽。
一枚目。
紫色の亀裂。
成功。
二枚目。
ケント「……。」
ミサキ「……何これ。」
亀裂の向こう。
黒い城。
巨大な赤い月。
そして――。
画面いっぱいに迫る、竜の瞳。
ケント「……写ってた。」
ミサキ「これ、王都へ持ち帰る。」
ケント「うん。」
ところが。
ケントは写真を持ち上げる。
ケント「…………?」
ミサキ「どうした?」
ケント「ここ。」
写真の下端。
本来なら何もないはずの場所。
そこに――。
文字のようなものが写っている。
ケント「こんなの、見えてなかった。」
ミサキ「何て書いてあるの?」
ケント「分からない。」
古代文字。
二人とも読めない。
ただ。
その中央にある記号だけは――妙に形が分かった。
円。
その中に三つの星。
ケント「…………。」
ミサキ「何?」
ケント「いや。」
なぜだろう。
見たことがある気がする。
どこで?
いつ?
思い出せない。
その頃――アステリア伯爵領
フウカ「…………?」
夜。
自宅で本を読んでいたフウカが、突然窓の外を見る。
フウカ「……今の何?」
ほんの一瞬。
北の空が――
紫色に光った。
フウカは立ち上がる。
胸騒ぎ。
理由は分からない。
でも。
机の上に置いてあるケントからの手紙へ目が向く。
帰ったら、また一緒に撮りに行きましょう。
フウカ「…………ケントさん。」
手紙をそっと握る。
フウカ「ちゃんと……帰ってきてくださいね。」
王都アルヴェリア――女王サクラの私室
サクラ「…………!」
机の上に置かれていた水晶が突然光る。
王国北部に設置された監視用魔導具。
警告を示す――紫。
サクラ「……また開いた。」
側近「陛下!」
サクラ「ゲラーデンへ伝令を。」
側近「はっ!」
サクラ「ケント伯とミサキ・ヴァレンティアを――」
一瞬。
女王ではなく。
一人の女性としての不安が、その瞳に浮かぶ。
しかし、すぐに消す。
サクラ「必ず王都へ帰還させなさい。」
側近「御意!」
誰もいなくなった部屋。
サクラは北の方角を見る。
サクラ「……ケント。」
そして小さく。
サクラ「無茶だけは、しないでください。」
三つの場所。
フウカ。
ミサキ。
サクラ。
三人はまだ知らない。
それぞれが同じ男を案じ――
同じ夜、同じ北の空を見ていたことを。
そして、その中心には。
一人の伯爵と、一台の魔導撮影機。
現像された――
あり得ない世界の写真。
物語はここから。
ただの北方調査ではなくなる。
――第五話「空の亀裂」了。
次回――第六話
「帰還、そして一枚の写真」




