第八話 消したいと思われている
翌日の放課後、部室に日向の姿が見えなかった。志緒里先輩に聞くと、購買へ行っているとのことだったが、いつもより帰りが遅い。窓の外はもう夕方の色に変わりかけていて、部室の中には私と志緒里先輩だけの穏やかな時間が流れていた。
しばらくして、日向が浮かない顔で戻ってきた。パンの入った袋を机に置くと、椅子に座り込んだまま、しばらく動かなかった。その姿は、いつもの元気な日向とはまるで別人のようだった。
「日向、まだ何かあるの?」
私が声をかけると、日向は小さくため息をついた。
「昨日のメッセージのこと、ちゃんと話してなかったので」
「うん」
「聞いてもらっていいですか?」
志緒里先輩も気にかけていたのか、椅子を寄せてきた。私たちは、日向の話に耳を傾けることにした。部室のLED照明が、いつもより白く光っているように感じられた。
「中学時代、真帆っていう友達がいたんです」
日向は、鞄からスマートフォンを取り出し、画面を見つめながら話し始めた。指先が、画面の縁をなぞるように動いている。
「すごく仲がよくて、同じ高校に行こうねって、約束してたんです」
「約束、守れなかったの?」
「はい」
日向は少し俯いた。前髪の隙間から見える表情には、これまで見たことのない翳りがあった。
「私、写真部がある今の高校に、どうしても行きたくて。真帆には悪いと思ったんですけど、進路希望を変えました」
「それで、真帆さんは」
「怒りました。裏切り者だって、言われました」
日向の声に、いつもの明るさはなかった。
「でも、私も真帆のこと、責めてたんです」
「日向も?」
日向は、小さく頷いた。
「高校に入ってから、真帆のSNS、時々見てました。新しい友達と出かけてる写真とか、文化祭で楽しそうにしてる写真とか」
「それを見て、どう思ったの?」
「最初は、安心しました。真帆も新しい学校で楽しくやってるんだなって」
日向はそこで言葉を切った。
「でも、そのうち……だったら、なんで私だけ責められなきゃいけないんだろうって思うようになって」
私は黙って続きを待った。
「真帆だって新しい友達を作ってる。私がいなくても楽しそうにしてる。それなのに、私がこっちで楽しくしてたら『私のことなんて忘れた?』って言われるの、ずるいって」
「真帆さんと、自分を比べてたんだ」
「……はい」
日向はスマートフォンを握ったまま俯いた。
「比べちゃ駄目だって分かってるんですけど」
「どうして、駄目なの?」
私が聞くと、日向は顔を上げた。
「だって、人と比べるのって、よくないことじゃないですか」
その言葉に、志緒里先輩が少し考えるように腕を組んだ。
「比べること自体が悪いとは、私は思わないけど」
「そうなんですか?」
「他の人を見て、自分も頑張ろうって思うことだってあるでしょう。写真だって、誰かの作品を見て、自分との違いに気づくことはあるし」
「あ……」
「ただ」
志緒里先輩は続けた。
「比べて苦しくなったからって、その苦しさを全部相手のせいにしたら、たぶん違うんじゃないかな」
日向は、しばらく何も言わなかった。
志緒里先輩が尋ねた。
「真帆が楽しそうにしてるのを見て、腹が立った?」
「少しだけ」
「それも、本当の気持ちなんでしょう」
「……はい」
「だったら、まずはそう思った自分まで悪者にしなくてもいいんじゃない?」
日向は、意外そうに志緒里先輩を見た。
「人と比べて羨ましくなったり、悔しくなったりすることはあるよ。ただ、その気持ちを理由に、相手の選んだ道まで否定し始めたら、話は別だけど」
日向は、スマートフォンの画面をもう一度見つめた。
「じゃあ、真帆が私を見て苦しくなったことも、それだけなら悪いことじゃないんですね」
「たぶんね」
志緒里先輩が答える。
「でも、日向が自分の行きたい高校を選んだことまで、間違いだったことにはならない」
日向は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「私、ずっと、どっちかが悪いんだと思ってました」
「どっちか?」
「約束を破った私が悪いか、それをずっと責めてる真帆が悪いか」
日向は、自分の言葉を確かめるように続けた。
「でも、二人とも、相手と自分を比べて、苦しくなってただけなのかもしれないですね」
私はその言葉を聞きながら、紗季のことを思い浮かべた。
誰かと自分を比べること。
羨ましいと思うこと。
傷つくこと。
それだけで、その人が悪い人間になるわけではない。
大切なのは、その気持ちをどう扱うかなのかもしれなかった。
日向は、昨夜届いたメッセージを見せた。
『高校で楽しそうだね。私のことなんて、もう忘れた?』
「これ見て、気づいたんです。私、ずっと『嫌いな人を消したい側』の話ばっかり聞いてきたけど」
日向は、私と志緒里先輩を交互に見た。その目には、これまでにない不安の色が宿っていた。
「もしかしたら、私自身が、誰かにとって『消したい相手』なのかもしれないって」
その言葉に、部室がしんとなった。窓の外の風の音だけが、やけにはっきりと聞こえる。
「日向は、それが怖い?」
私が尋ねると、日向は素直に頷いた。
「怖いです。今まで、話し合えば分かり合えるって、ずっと思ってたんです。でも、真帆がもし私を消したいって思ってるなら、話し合うことすら、望まれてないかもしれない」
日向は、スマートフォンの画面をじっと見つめたまま、電話をかけようとする仕草を見せた。指が発信ボタンの上で止まる。
「かけないの?」
「怖くて」
日向はそう言って、スマートフォンをポケットへ戻した。その動作には、これまでの日向らしい思い切りのよさが、微塵も感じられなかった。
私はその様子を見ながら、複雑な気持ちになっていた。数日前、日向は私と紗季を無理やり仲直りさせようとした。あのときの日向に対して、今度は自分が「話せばいい」と言い返してやりたい気持ちが、一瞬だけ胸をよぎった。あのときの苛立ちが、まだ完全には消えていなかったのかもしれない。
だが、それはあのとき日向にされたことと同じだと気づいた。私は、その言葉を飲み込んだ。同じ立場に立ってみて初めて分かることが、確かにあるのだと思い知らされた。
志緒里先輩が、冷静に口を開いた。
「日向は、本当に話したいと思うまで、待ったほうがいいと思う」
「でも、待ってる間に、もっと嫌われたら……」
「待つことと、逃げることは違うから」
志緒里先輩の言葉に、日向は少し考え込むような顔をした。その言葉の意味を、一つ一つ噛みしめているようだった。
「日向のペースで、いいと思う」
私もそう付け加えた。日向は私の顔をじっと見つめてから、小さく頷いた。その瞳には、少しだけ落ち着きが戻っているように見えた。
☆
それから数日、日向は普段通りに写真部の活動をこなしていたが、時折スマートフォンを取り出しては、また画面を見て、しまう、という動作を繰り返していた。その繰り返しのたびに、日向の表情が微妙に揺れているのが分かった。
私はその様子を見ながら、何も言わずに見守ることにした。急かすことも、放っておくことも、どちらも違う気がしたからだ。誰かの決断を待つということが、これほど落ち着かないものだとは、これまで考えたこともなかった。
ある日の放課後、日向が思い詰めた顔で部室に入ってきた。頬が、いつもより少し赤らんでいる。
「送りました」
「え?」
「真帆に、メッセージ」
日向は、スマートフォンの画面を見せた。そこには、短い文章が表示されていた。
『忘れてない。でも、約束を破ったことをちゃんと謝ってなかった』
私はその文面を読んで、日向の顔を見た。日向は、緊張した面持ちで唇を噛んでいた。
「すごく、シンプルな言葉だね」
「余計なこと書いたら、また誤解されそうで。これだけにしました」
志緒里先輩も画面を覗き込み、ゆっくりと頷いた。
「いい言葉だと思う」
だが、その日のうちに返事は来なかった。翌日も、翌々日も、返信はなかった。日を追うごとに、日向の表情から生気が抜けていくのが分かった。
「やっぱり、送らないほうがよかったのかな」
日向は、次第に落ち込んだ様子を見せるようになった。
「返事が来ないの、私のこと、まだ許せないってことですよね」
「返事をするかどうかは、真帆さんが決めることだから」
私はそう言ったが、自分自身の胸にも、同じ言葉が刺さっているのを感じていた。返事をするかどうかは相手が決める――それは、紗季との関係についても、同じことが言えるはずだった。まるで、日向を通して自分自身に語りかけているような気分だった。
日向は、私の言葉に少し驚いたような顔をした。
「先輩、なんか、実感こもってますね」
「そんなことない」
私は慌てて否定したが、日向はそれ以上追及してこなかった。ただ、その視線には、何かを察しているような色があった。
「日向は、話せば必ず仲直りできると思ってた?」
私が尋ねると、日向は頷いた。
「はい。今までは、そう信じてました。話し合えば、絶対分かり合えるって」
「今は?」
「今は……分からないです。話しても、伝わらないこともあるのかもしれない」
日向の声には、以前のような無邪気さはなかった。少しだけ、大人びたような響きがあった。数日前とは、まるで別人のような落ち着きが、その声の端々に感じられた。
「でも、それでも、送ってよかったと思ってます。何も言わずに、勝手にあの子の気持ちを想像して終わるより、ずっといいので」
その言葉を聞いて、私は何も言えなかった。日向のその強さが、少し眩しく思えた。自分がまだ持てずにいる何かを、日向はすでに手にしているような気がした。
☆
その日の放課後遅く、日向のスマートフォンが震えた。日向は、びくりと肩を震わせてから、震える手で画面を確認した。
「……来ました」
日向は小さく呟いた。声が少し掠れている。
「真帆から」
私と志緒里先輩は、日向の様子を見守った。息を詰めて、その先を待つ。日向はしばらく画面を見つめたまま、動かなかった。
「日向?」
私が声をかけると、日向は顔を上げた。目には涙が浮かんでいた。
「まだ許せない。でも、忘れてほしいわけじゃない」
日向は、その文面をそのまま読み上げた。声が震えていた。
私は、その言葉の重みを感じた。許せないと言いながら、忘れてほしくないとも言う。相反するようで、それが本当の気持ちなのだろうと思えた。単純に「仲直りできた」わけではない。それでも、真帆の中に、日向との関係を完全には切り捨てていない部分が、確かに残っている。その事実が、暗い部室の中にほんの小さな灯りのように感じられた。
日向は涙を拭いながらスマートフォンの画面を私に見せた。
「これで、いいんでしょうか?」
「分からない。でも」
私は、慎重に言葉を選んだ。
「話せば必ず仲直りできるわけじゃないって、日向自身が今、知ったんだと思う」
日向は、涙を流しながら小さく頷いた。
「はい。分かりました。すぐには、駄目なんですね」
「駄目、っていうより」
志緒里先輩が横から言葉を添えた。
「時間がかかるものは、かかるってことなんだと思う」
日向は、その言葉を噛みしめるように、しばらく黙っていた。涙の跡が、頬の上でゆっくりと乾いていく。
私はその様子を見ながら、紗季のことを思い浮かべていた。もし紗季も、同じように思っているとしたら――未桜を許せない、でも忘れてほしいわけじゃない、と。その仮定が、胸の奥にちくりと刺さった。
私はすぐにその考えを打ち消した。紗季と日向の状況は違う。日向と真帆の間には、はっきりとした「裏切り」の自覚があった。私と紗季の間には、まだ何が本当に起きたのかさえ、はっきりしていない。
それでも、日向が受け取ったその短い言葉が、私の中に小さく引っかかったまま、消えずに残っていた。まるで、水面に落ちた一滴の墨のように、じわりとゆっくり広がっていくようだった。
「先輩、ありがとうございました」
日向は涙を拭いながら、私と志緒里先輩に頭を下げた。
「私、もう少し、待ってみます。すぐに仲直りできなくても」
その言葉には、以前の日向にはなかった落ち着きがあった。話せば分かり合える、というまっすぐな信念が、少しだけ形を変えて、日向の中に残っているように見えた。それは、以前より脆く見えて、実はずっと強くなった信念のようにも思えた。
部室の窓の外には、もう夕暮れの色が広がっていた。オレンジ色の光が、机の上に長い影を落としている。私は日向の背中を見ながら、自分自身がまだ踏み出せずにいる一歩の重さを、あらためて感じていた。日向が今日、勇気を出して踏み出した距離を思うと、自分の足がどれほど重く、その場に根を張ったままでいるのかを、思い知らされるようだった。




