第七話 仲直りさせたい後輩
その週の放課後、写真部の部室に紗季が現れた。
「え……」
私は椅子から立ち上がりかけて、動きを止めた。心臓が、一瞬だけ大きく跳ねる。紗季は困惑した表情で、入口に立ったまま部屋の中を見回している。志緒里先輩も驚いた様子で、日向のほうへ視線を向けた。
「日向、これ、あなたが呼んだの?」
「はい! 三年生の卒アルに残す写真候補の打ち合わせってことで」
日向は悪びれる様子もなく、むしろ得意げに言った。私は思わず声を荒げた。
「そんな話、聞いてない」
「だって、先輩たち全然話さないから。話し合ったほうが早いと思って」
日向の言葉に、私は言葉に詰まった。勝手なことをする後輩に対する怒りと、それを表に出すことへの恥ずかしさが、同時に胸の中でせめぎ合っていた。頬のあたりが、かっと熱くなるのが分かった。
「勝手なことしないで」
「でも……」
「日向」
紗季が、私と日向の間に割って入るように口を開いた。
「私が来たのは、私の意思だから。日向ちゃんを責めないで」
その言い方も、私をさらに苛立たせた。紗季は、いつもこうやって自分から責任を引き受け、それ以上のことを話そうとしない。まるで、自分が矢面に立つことで、この場をやり過ごそうとしているようだった。
「なんで来たの?」
私は紗季に向き直って聞いた。声が、思ったより硬くなる。
「打ち合わせなら、委員会でやればいい」
「日向ちゃんに、写真部で話したほうがいいって言われて」
「私は行くって言ってない」
「分かってる。でも……」
紗季は言葉を濁した。私はその歯切れの悪さに、余計に腹が立った。部室のLED照明が、いつもより白く、冷たく感じられる。
「過去に何があったのかは、私、詳しく知らないですけど」
日向が、私たちの間に割り込むように言った。
「話さなきゃ、何も変わらないと思うんです」
「簡単に言わないで」
私は日向を睨みつけた。日向は少したじろいだが、それでも視線を逸らさなかった。その目には、まっすぐな正義感がにじんでいた。それが、かえって私を追い詰めるように感じられた。
「簡単だとは思ってないです。でも、先輩たち、ずっとこのままでいいんですか?」
その質問に、私はすぐに答えられなかった。このままでいいとは、思っていない。けれど、このまま以外にどうすればいいのかも、分からなかった。喉の奥に、答えにならない言葉の塊が、重く詰まっているような感覚だった。
「私が悪かった」
沈黙を破ったのは、紗季だった。
「え?」
「私が悪かったの。だから……」
紗季の声は震えていた。だが、続く言葉がなかった。何について謝っているのか、具体的なことは何一つ語られない。その空白が、部室の空気をますます重くしていく。
「何について謝ってるの?」
私は問い詰めた。紗季は口を開きかけて、また閉じた。
「それは……」
「言えないなら、謝る意味ないでしょう」
私の声は、自分でも驚くほど冷たく響いた。紗季は俯いたまま、何も答えなかった。その曖昧さが、私の中に積もっていた苛立ちに火をつけた。
「謝れば終わると思ってるの?」
言ってしまってから、少し言い過ぎたかもしれないと思った。だが、止まらなかった。喉の奥から、言葉が次々と溢れ出てくる。
「一年間、ずっとこのままだったのに、今さら『悪かった』の一言で、何が変わるの」
「そんなつもりじゃ……」
「じゃあ、どんなつもりなの?」
紗季は答えられなかった。部室に、重い沈黙が流れた。窓の外の運動部の声だけが、やけに遠く、他人事のように響いている。日向は、自分が招いた事態の大きさに気づいたのか、顔を強張らせている。
「志緒里先輩」
見かねたように、志緒里先輩が私と紗季の間に入った。
「日向、こっち来て。少し外の空気吸おう」
「でも……」
「いいから」
志緒里先輩は日向の腕を引っ張るようにして、部室の外へ連れ出した。扉が閉まる音がして、部室には私と紗季だけが残された。
気まずい沈黙が続いた。私は椅子に座ったまま、視線を机に落としていた。木目の模様を、意味もなく目でなぞる。紗季も、入口のあたりに立ち尽くしたまま動かない。時計の秒針の音だけが、やけにはっきりと耳に届いた。
「……もう、帰る」
紗季が、ようやくそう言った。
「うん」
私はそれだけ答えた。紗季はしばらくその場に立っていたが、やがてゆっくりと部室を出ていった。扉が閉まる音が、いつもより大きく聞こえた気がした。その残響が、部室の中にしばらく漂っているようだった。
☆
部室の外では、志緒里先輩と日向が話をしていた。私は少し離れた廊下の窓から、二人の様子をぼんやりと眺めていた。窓ガラスに反射した自分の顔が、思ったより疲れて見えた。
「日向、ああいうことは、勝手にやっちゃ駄目だよ」
「分かってます……でも」
日向は、悔しそうな顔をしていた。両手を固く握りしめている。
「本当に仲直りしたくないなら、十倉先輩、あんなに怒らないと思うんです」
「それは、日向の解釈でしょう」
「でも……」
二人の会話が耳に入ってくる。私はそっとその場を離れ、昇降口のほうへ向かった。紗季と鉢合わせしないように、少し遠回りをする。夕方の廊下は、いつもより長く感じられた。
結局、その日は誰とも顔を合わせず、一人で下校した。夜道に沈んでいく西の空を見上げながら、今日一日の出来事が、まるで他人のことのように頭の中で反芻されていた。
帰り道、日向から短いメッセージが届いた。
『今日はすみませんでした。でも、話さなきゃ何も変わらないと思ったのは、本当です』
私はその文面をしばらく見つめてから、『分かった』とだけ返信した。仲直りできない関係もある、ということを、日向はまだ理解していないようだった。私自身、それをどう伝えればいいのか分からなかった。スマートフォンの画面を閉じたあとも、指先には、まだ小さな苛立ちの余韻が残っていた。
☆
その夜、日向のスマートフォンには、別の相手からメッセージが届いていた。
私がそれを知ったのは、翌日の放課後、部室で日向がスマートフォンを見つめたまま固まっているのに気づいたからだった。窓から差し込む夕方の光の中で、日向の表情だけが、妙に固まっている。
「日向、どうしたの?」
私が声をかけると、日向はびくりと肩を震わせた。
「あ……なんでもないです」
「なんでもなくは、なさそうだけど」
日向は少し迷った様子だったが、やがてスマートフォンの画面を見せてきた。指先が、わずかに震えている。
「中学の……友達からです」
画面には、短いメッセージが表示されていた。
『高校で楽しそうだね。私のことなんて、もう忘れた?』
私はその文面を見て、日向の表情を窺った。日向はいつもの明るさが嘘のように、暗い顔をしていた。その落差に、私は少なからず動揺した。
「別に、平気です」
日向はそう言って、無理に笑おうとした。だが、その笑みは明らかにぎこちなかった。口角だけが持ち上がって、目元はまるで笑っていない。
「平気そうに見えないけど」
「本当に、大丈夫なんで」
日向は強がるように言って、スマートフォンをポケットにしまった。それ以上、何も話そうとしない。私も、それ以上は踏み込まなかった。日向自身、まだ整理できていないことを、無理に聞き出すべきではないと思ったからだ。誰かに踏み込まれることの苦しさを、私自身がよく知っていた。
部室の隅、暗室へ続く扉のあたりに、白い影が一瞬だけ見えた気がした。私が目を向けたときには、もう何もいなかった。空気だけが、わずかに揺らいだ気配を残していた。
フィルが、日向の前にも姿を現しているのかもしれない。
私はそのことを口には出さず、パソコンの前へ戻った。卒業アルバム用の写真フォルダを開きながら、頭の中では、昨日の紗季とのやり取りが繰り返し蘇っていた。マウスを動かす手が、いつもより重く感じられる。
「私が悪かった」
具体的な何かを語らないまま、それだけを口にした紗季の顔。あの謝罪は、いったい何のためだったのだろう。紗季自身、何に対して謝ればいいのか、分かっていなかったのかもしれない。それとも、本当は分かっていて、それでも言えなかったのかもしれない。
私はマウスを動かす手を止め、しばらく画面を見つめたまま、動けずにいた。フォルダの中には、紗季が笑っている写真がまだいくつも残ったままだった。その笑顔と、昨日見せた紗季の震える声とが、うまく重ならないまま、私の中で並んでいた。




