第五話 卒業アルバムの空白
十月に入ると、学校全体の空気が少しずつ変わり始めた。文化祭の賑やかさが薄れ、三年生の進路も少しずつ現実味を帯びてくる。写真部でも、来春の卒業アルバムに使う写真を意識して整理する機会が増えていた。正式に依頼も回ってきた。掲載写真の選定と、行事ごとに入る業者の撮影だけでは足りない、部活動や日常風景の写真を写真部で補うことになったのだ。
「私、卒業する側なのに、こんなに忙しくなるとはね」
志緒里先輩は、机の上に積まれた資料を見ながら苦笑した。三年生は志緒里先輩だけで、卒業する立場でありながら、後輩たちの写真部を存続させる算段もつけなければならない。書類の山を前にした志緒里先輩の横顔には、いつもの余裕とはまた違う緊張が滲んでいた。
「先輩が卒業したら、部員、私と十倉先輩だけになっちゃいますね」
日向が心配そうに言う。
「でも大丈夫。新入部員、集めるから」
「日向、張り切りすぎ」
私がそう言うと、日向は「先輩たちのためですよ!」と胸を張った。その明るさに、少しだけ場の空気が和んだ。窓の外では、三年生の教室のほうから、生徒たちの少し湿った笑い声が漏れ聞こえてくる。
翌日の放課後から、私と日向は、卒業アルバムに足りない写真を撮って回ることになった。
「まずは運動部から行きましょう!」
日向はデジカメを首から下げ、廊下を歩きながら張り切った声を上げた。
「そんなに急がなくても、部活は逃げないよ」
「でも、夕方の光ってすぐ変わるじゃないですか。せっかくなら、いい写真を残したいです」
そう言って、日向は窓の外を指差した。空はもう薄い橙色に染まり始めている。秋の日暮れは早い。確かに、のんびりしていたら撮影できる時間はすぐに終わってしまいそうだった。
最初に向かったのはグラウンドだった。
ラグビー部の練習を邪魔しないよう、少し離れた場所から何枚か撮影する。掛け声と、ボールを受け渡す音が、夕暮れのグラウンドに響いていた。
「十倉先輩、あそこ」
日向が小声で言った。
視線の先では、三年生らしい部員が、後輩にパスの仕方を教えていた。
秋の大会を控えているらしく、三年生もまだ練習に参加している。
私はデジカメを構えた。
ファインダーの中で、三年生が後輩の腕を持ち、角度を直している。
シャッターを切ろうとした、そのときだった。
「ちょっと待ってください」
日向が私の腕を軽く押さえた。
「何?」
「もう少しだけ」
後輩がボールを受け取り、教わった通りにパスを放った。
ボールはきれいな軌道を描き、少し離れた部員の胸元へ収まった。
「よしっ!」
後輩が嬉しそうに声を上げる。
三年生も笑って頷いた。
その瞬間、日向のデジカメからシャッター音が聞こえた。
「こっちのほうがいいでしょう?」
日向は得意そうに画面を見せてくる。
確かに、写っている二人の表情は自然だった。さっきまで真剣な顔で教えていた三年生も、パスを決めた後輩も、心から嬉しそうに笑っている。
「構図はちょっと傾いてるけど」
「そこですか?」
「写真部だから」
「十倉先輩、細かいです」
日向は口を尖らせながらも、写真を削除しようとはしなかった。
次に向かったのは図書室だった。
本を棚へ戻していたり、窓際で参考書を広げたりしている三年生の生徒たちを撮る。
撮影していると、机で友人同士並んで勉強していた三年生の女子二人が、こちらに気づいた。
「卒アルの写真?」
「はい。普段の学校生活の写真が足りないみたいで」
私が答えると、一人が急に姿勢を正した。
「じゃあ、ちゃんとした顔したほうがいい?」
「普通でいいですよ」
「普通って、一番難しくない?」
もう一人が笑った。
その笑いにつられて、最初の生徒も吹き出した。
私は反射的にシャッターを切った。
「あ、今撮ったでしょう」
「はい」
「待って、絶対変な顔してた」
二人が慌ててデジカメを覗き込んでくる。
画面には、顔を見合わせて笑っている二人が写っていた。
「これ、私めっちゃ笑ってる」
「私も」
一人がそう言ったあと、しばらく写真を眺めていた。
「でも、これがいいかも」
「いいの?」
「うん。卒業アルバムなら、こういうのが残ってたほうが、高校のこと思い出せそう」
私はその言葉に、少しだけ意外な気持ちになった。
もっときちんと並んで、デジカメを見て、笑顔を作った写真のほうがいいのではないかと思っていた。
けれど二人が選んだのは、こちらを見てもいない写真だった。
構図だって完璧ではない。
それでも、確かにその一枚には、二人が普段どんな風に過ごしていたのかが写っている気がした。
そのあと、美術室や音楽室も回った。
美術部では、卒業制作を仕上げている三年生を撮った。
絵の具のついた手で筆を持ち、真剣な顔でキャンバスに向かっていた生徒は、撮影が終わったあと、少し不安そうにこちらへ声をかけてきた。
「あの写真、顔ちゃんと写ってた?」
「写ってますけど」
「変じゃなかった?」
私はデジカメの画面を見せた。
髪は少し乱れ、頬には青い絵の具がついている。
「うわ、絵の具ついてる」
「撮り直しますか?」
私が尋ねると、その生徒は画面を見つめたまま、少し考えた。
「……いや、そのままでいいや」
「いいんですか?」
「だって、三年間ずっとこんな感じだったし」
そう言って笑った。
「綺麗に写ってる写真より、こっちのほうが美術部っぽい」
私は、その写真をもう一度見た。
確かに、いわゆる記念写真としては、もっと綺麗な一枚を撮れるだろう。
けれど卒業して何年も経ったあと、この写真を見れば、絵の具の匂いや、締め切り前に作品を仕上げていた時間まで思い出せるのかもしれない。
「十倉先輩」
廊下へ出たところで、日向が声をかけてきた。
「何?」
「さっきから、撮った写真ずっと見てません?」
「確認してるだけ」
「なんか考えてる顔してます」
私はデジカメの画面を消した。
「卒業アルバムって、もっと綺麗な写真を選ぶものだと思ってた」
「綺麗な写真?」
「ちゃんとこっちを向いてて、笑ってて、誰が見ても失敗じゃない写真」
「それもいいですけど」
日向は少し考えてから言った。
「あとで見たときに、その日のこと思い出せる写真のほうが、私は好きです」
「日向らしいね」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味」
少し前にも、似たようなことを誰かに言った気がした。
何となく胸の奥に引っかかるものがあったが、私は考えないことにした。
窓の外を見ると、日はすっかり傾いていた。
撮影した写真を確認すると、笑っている人だけではなかった。
真剣な顔でボールを追う人。
本を読んでいる人。
絵の具だらけの手で作品を作っている人。
誰かに教えている人。
友達と顔を見合わせて笑っている人。
どれも、その人たちにとっては、学校生活の一部なのだろう。
全部が特別な瞬間というわけではない。
むしろ、ほとんどは、卒業してしまえば忘れていくような、ごく普通の日だった。
だからこそ、写真に残す意味があるのかもしれない。
そんなことを、少しだけ思った。
部室へ戻ると、志緒里先輩がパソコンの前で写真の整理をしていた。
「どうだった?」
「結構撮れました」
日向が嬉しそうにデジカメを差し出す。
志緒里先輩は一枚ずつ確認しながら、何度か頷いた。
「いいじゃない。日向、だいぶ人を撮るの上手くなったね」
「本当ですか!」
「ただし傾いてるのが多い」
「十倉先輩にも言われました……」
日向が肩を落とす。
私は自分のデジカメからデータを取り込みながら、今日撮った写真をもう一度眺めた。
卒業アルバムには、この中からほんの一部しか載らない。
選ばれなかった写真は、ほとんど誰にも見られないまま保存されるのだろう。
それでも、撮ったこと自体に意味がないとは思わなかった。
残すということは、たぶん、何もかもを綺麗に整えることではない。
その人がそこにいた時間を、できるだけそのまま置いておくことなのかもしれない。
そう考えたとき、ふいに紗季の顔が頭に浮かんだ。
私はすぐに画面へ視線を戻した。
今は、考えたくなかった。




