第四話 なくしたものに気づけない
その日の昼休み、私は購買でパンを買ってから、なんとなく足が教室へ向かなかった。廊下を歩く生徒たちの笑い声が、やけに遠く聞こえる。写真部の部室へ寄り、誰もいない部屋で美冬のことを考えていた。パンの包装をほどく手が止まったまま、しばらく動かなかった。
机の上から本が消えていた。それだけなら、忘れただけかもしれない。そう思おうとしても、昨日の出来事が頭から離れなかった。窓の外では、昼休みの校庭で誰かがボールを追いかける声が響いている。その明るさと、自分の胸の内側にある薄暗さとの落差に、私は妙な居心地の悪さを覚えていた。
放課後、部室に志緒里先輩と日向が集まったところで、私はそのことを話した。
「久住さんの机から、いつも置いてあった本がなくなってて」
「本?」
日向が首をかしげる。
「うん。分厚い文庫本。何度も読み返してるみたいだったから、気になって」
志緒里先輩は少し考える顔をした。眉間に、うっすらとした皺が寄る。
「単に、今日は持ってきてないだけじゃないの?」
「そうかもしれないけど」
私は、それだけでは片づけられない気がしていた。何かが引っかかっている。喉の奥に小さな小骨が刺さったような、そんな感覚だった。
翌日、私は思い切って美冬に声をかけてみることにした。休み時間、いつものように一人で窓際に座っている美冬の元へ向かう。窓から差し込む光が、美冬の頬をやわらかく照らしていた。
「久住さん」
「十倉さん。どうしたんですか」
美冬は穏やかな表情で顔を上げた。昨日よりもさらに落ち着いた雰囲気になっている気がした。まるで、心の中の波が完全に凪いでしまったような、そんな静けさだった。
「その、写真のこと。あれから、何か変わったこととか、ない?」
「ないです。むしろ、すごく楽になりました」
美冬は微笑んだ。作り笑いではなく、本当に安心しているように見える。その笑顔に嘘はないのだろう。だからこそ、私はかえって落ち着かない気持ちになった。
「あの子の顔、思い出そうとしても、もううまく思い出せないんです。名前も、なんだったか、少し曖昧で」
忘れたい相手を忘れられて喜んでいる、というより、まるで最初からそこに強い感情がなかったかのような、あまりに軽い口調だった。まるで他人の思い出話をなぞっているみたいに、感情の重みが抜け落ちていた。
「よかった、と思う?」
「はい。ずっと苦しかったので」
美冬はそう言って、窓の外へ視線を向けた。その横顔には、これといった曇りは見当たらない。
私は、それ以上何を聞けばいいのか分からず、自分の席へ戻った。だが、その日の帰り際、教室の隅で美冬が友人らしき生徒に話しかけられている場面を見かけた。
「久住さん、この前貸してた本、そろそろ返してもらってもいい?」
「本? ああ……ごめん、まだ読み終わってなくて」
「珍しいね。久住さん、本好きなのに」
「うん……最近、あんまり読む気になれなくて」
その会話が、耳の奥に残った。カバンを持つ手に、無意識に力がこもる。美冬が本を読まなくなっている。
私はそのことを、放課後の部室で志緒里先輩たちに話した。
「その作家、教えたのが元親友だったとしたら」
志緒里先輩は、椅子に座ったまま腕を組んだ。窓の外はすでに薄暗く、部室のLED照明の白い光だけが、机の上を照らしていた。
「相手との記憶が消えたことで、本を好きになったきっかけまで、一緒に失われたのかもしれない」
「そんなこと、あるんですか」
日向が眉をひそめる。声には、これまでになかった不安の色が滲んでいた。
「分からない。でも、記憶って、一つずつ独立してるわけじゃないと思う。糸みたいに、いくつもつながってる」
志緒里先輩は、机の上に置かれたままの古いカメラへ目をやった。その視線には、これまでにない緊張が宿っていた。
「一人分の糸を切ったら、その先につながってた別の糸まで、一緒にほどけてしまうのかもしれない」
私は、その言葉に息が詰まる思いがした。胃のあたりが、急に重たくなる。もし本当にそうなら、紗季を消したとき、私は紗季との記憶だけでなく、紗季をきっかけに得た何かまで、失うことになるかもしれない。
中学時代、写真を本格的に始めたきっかけは何だっただろうか。記憶の糸を手繰り寄せるように、私は過去を辿った。紗季が「未桜の撮る写真、なんか好き」と言ってくれたことが、最初のきっかけだったような気がする。あの一言がなければ、今、私はこの部室にすら座っていなかったかもしれない。もしそうだとしたら、紗季を消せば、私は写真を撮る理由の一部も失うのかもしれない。
「もし本当に糸みたいにつながってるなら」
日向が神妙な顔で言う。いつもの明るさが、少しだけ影を潜めていた。
「久住さんは、これからもっといろんなこと、忘れていっちゃうかもしれないってことですか」
「可能性は、否定できない」
志緒里先輩の答えに、部室がしんとなった。
☆
その日の帰り、私は廊下の先に美冬の姿を見つけた。
美冬は文芸部の部室の前に立っていた。
扉には、少し色褪せた「文芸部」の札が掛かっている。中からは、何人かの話し声と、時折笑う声が漏れていた。
私は少し離れたところで足を止めた。
美冬はドアノブへ手を伸ばしかけていた。
けれど、その手は途中で止まった。
しばらく扉を見つめたあと、美冬は不思議そうに首をかしげた。
「久住さん?」
私が声をかけると、美冬は振り返った。
「あ……十倉さん」
「文芸部、行かないの?」
「文芸部……」
美冬は、扉の札へ視線を戻した。
「そうでした。私、文芸部でしたね」
その言い方に、胸の奥がざわついた。
「忘れてたの?」
「忘れてた、というより……」
美冬は困ったように眉を寄せた。
「ここまで来たんですけど、急に、なんでここに来たのか分からなくなって」
「でも、部活でしょう」
「そうなんですけど」
美冬はもう一度、扉を見た。
中から、「久住さん、今日も来ないのかな?」という声が聞こえてきた。
自分の名前が呼ばれたのに、美冬の表情はほとんど動かなかった。
「前は、ここに来るの、好きだったんじゃない?」
私はそう尋ねた。
「たぶん」
「たぶんって」
「本を読んだり、感想を話したりするのは覚えてます。でも」
美冬はそこで言葉を切った。
「どうして自分が、それを好きだったのかが、よく分からないんです」
廊下を風が通り抜けた。
扉に掛かった札が、かた、と小さな音を立てる。
「今日は、帰ります」
美冬はそれだけ言うと、文芸部の扉を開けることなく歩き出した。
私はその後ろ姿を見送った。
ついさっきまで、志緒里先輩が言っていたことが頭に蘇る。
一人分の記憶につながっていた糸が、少しずつほどけていく。
その言葉が、急に現実のものとして目の前に現れたような気がした。
☆
私は美冬のことが気になって、その翌日も声をかけた。
「入部したきっかけとか、覚えてる?」
「うーん……誰かに誘われた気はするんですけど、はっきりとは」
私はそれ以上聞くのが怖くなった。背中に、じわりとした寒気が這い上がってくる。美冬は、元親友に誘われて文芸部に入ったのだと、以前は自分でそう話していたはずだった。それが今は、誰に誘われたのかすら、あやふやになっている。
放課後、美冬は写真部へやってきた。カメラを返しに来たわけではなく、ただ、話がしたいと言った。窓の外は薄い夕闇に包まれ始めていて、部室の中には、いつもより静かな空気が満ちていた。
「元親友を消したこと、後悔はしてないです」
美冬は椅子に座り、冷静に切り出した。声には、迷いがなかった。
「あの子との時間を思い出しても、もう苦しくならない。それは、本当によかったと思ってます」
「でも?」
私が続きを促すと、美冬は少し間をおいてから答えた。
「自分が、何を失ったのか、分からないのが怖いんです」
美冬は膝の上で手を組み合わせた。指先が、少しだけ震えているように見えた。
「本を読まなくなったのも、文芸部に行かなくなったのも、自分では理由がよく分からなくて。ただ、なんとなく興味がなくなった、としか言えない。でも、それが本当に『なんとなく』なのか、誰かとの記憶が消えたせいなのか、自分では判断できないんです」
日向が「それって……」と言いかけたが、すぐに口をつぐんだ。「嫌なことが消えたなら、それでいいじゃないか」と言おうとして、今の美冬の様子を見て、言葉を飲み込んだのだろう。日向のその変化に、私は少しだけ驚いた。以前の日向なら、きっと最後まで言い切っていたはずだった。
私は美冬自身が満足しているなら、これ以上口を出すべきではないのかもしれないと思った。だが、胸の奥に残る違和感は消えなかった。まるで、透明な棘が、じわじわと胸の内側を刺し続けているような感覚だった。
美冬は鞄から一枚のメモを取り出した。紙の端が、少し折れ曲がっている。
「消す前に、これを書いておいたんです。なんとなく、そうしたほうがいい気がして」
メモには、丁寧な字でいくつかの言葉が並んでいた。震えるような、それでいて一文字ずつ丁寧に書かれた文字だった。
「――好きだった本のタイトル。文芸部に入った日のこと。あの子に、初めて話しかけられたときのこと。喧嘩する前は、本当に楽しかったこと」
美冬はそのメモを私へ差し出した。
「私が忘れたものを、十倉さんだけは覚えていてください」
私はメモを受け取ることに、一瞬ためらいを感じた。紙一枚の軽さに反して、その内容の重さが、手のひらにじわりと伝わってくるようだった。
「私が、覚えていて、何になるの?」
「分からないです。でも、誰も覚えていなかったら、それは最初からなかったことになる気がして」
美冬の声は穏やかだったが、どこか切実だった。窓の外の暗闇が、その声をいっそう際立たせているように感じられた。
私はメモを受け取り、大切に鞄へしまった。美冬は少しほっとした表情を見せ、「ありがとうございます」と言って部室を出ていった。その後ろ姿は、来たときよりも、心なしか軽やかに見えた。
志緒里先輩と日向も、それぞれ黙り込んでいた。誰も、すぐには言葉を発さなかった。LED照明の明滅する音だけが、静かな部室に響いていた。
「十倉」
しばらくして、志緒里先輩が口を開いた。その声には、いつもの軽さがなかった。
「もし、紗季さんを消したら、あなたは何を失うと思う?」
私は、すぐには答えられなかった。心臓が、一瞬だけ強く脈打った。
紗季との記憶を一つずつ思い浮かべてみる。中学一年生の春、教室の隅で一人でいた私に、紗季が声をかけてきたこと。あのときの声の明るさ、少し首を傾げる仕草。放課後、一緒に帰る道すがら、他愛もない話で笑い合ったこと。誕生日に、紗季が手作りの紙の飾りをくれたこと。不格好で、でも一生懸命作られたそれを、しばらく机の引き出しに大事にしまっていたこと。雨の日、傘を持っていなかった私に、紗季が自分の傘を半分差し出してくれたこと。肩が触れ合うくらいの距離で、二人並んで歩いた帰り道。
それから、写真を撮り始めたきっかけ。私が撮った写真を見て、紗季が最初に「いいね」と言ってくれたこと。あのときの、少し照れくさそうな、それでいて嬉しそうな紗季の顔。
もし紗季との記憶が消えたら、写真部に入った理由さえ、あやふやになってしまうかもしれない。今、こうして写真部の部室に座っていること自体が、根底から揺らいでしまうかもしれない。そう考えると、足元が急に不確かなものに変わっていくような、そんな不安を覚えた。
「分からない」
私は正直にそう答えた。
「分からないけど……たぶん、写真を撮ることの、一部を失う気がする」
志緒里先輩は、それ以上何も言わなかった。ただ、ゆっくりと頷いただけだった。その沈黙には、これ以上言葉を重ねることを控える配慮のようなものが感じられた。
その夜、私は自分の部屋で、美冬から預かったメモをもう一度読み返した。丁寧な字で書かれた、誰かとの記憶のかけら。デスクライトの下で、その文字の一つ一つを、噛みしめるように読んでいく。それを読みながら、私は机の脇の本棚から、中学時代のフォトアルバムを取り出した。写真のデータを印刷してまとめたものだ。
紗季と撮った写真が、何枚も挟まっている。
もし本当に紗季を消したら、私はこの中の何を失うのだろうか。楽しかった記憶だけでなく、今の自分につながっている何かまで、一緒に消えてしまうのかもしれない。
私はアルバムを開くことができないまま、しばらくその表紙を見つめていた。部屋の時計の秒針の音だけが、静かに時を刻み続けていた。




