第三話 最初の依頼人
私は美冬の言葉に、すぐには答えられなかった。
「久住さん……どうして、それを」
「見えたので」
美冬は穏やかにそう言った。表情はほとんど動かず、感情の起伏を意図的に抑え込んでいるようにも見えた。
「見えた?」
「さっき、廊下からケースが開いてるのが見えて。それだけです。でも」
美冬は一度言葉を切り、鞄を抱え直した。指先が鞄の持ち手を強く握りしめているのが分かった。
「本当に、そういう力があるカメラなら、話したいことがあります」
私は椅子を勧めた。美冬は少し迷ってから腰を下ろし、鞄から一枚の写真を取り出した。中学時代のものらしく、色合いが今の写真より少し古びて見える。角が丸くなり、表面には細かい擦れの跡が残っていた。何度も取り出しては見返していたのだろう、そんな痕跡が写真自体に刻まれている。写っているのは、制服姿の美冬と、隣に立つもう一人の少女だった。二人とも笑っている。
「この子……」
「元親友です」
美冬は写真から目を離さずに言った。声は落ち着いていたが、その視線には、懐かしさと同時に、何か鋭い痛みのようなものが滲んでいた。
「今はもう遠くの学校に転校していて、会うこともないんですけど」
「それなのに、消したいの?」
「写真を見ると、息が苦しくなるんです」
美冬は穏やかな声で続けた。窓の外では、夕方の光が校庭を薄いオレンジ色に染め始めていた。
「仲がよかったころは、本当に楽しかった。でも、だんだん、私が誰と話しても怒るようになって。『私を裏切るの』って、よく言われました」
私は写真の中の少女をもう一度見た。屈託のない笑顔だけを見れば、そんなことをする人には見えない。けれど、笑顔の裏側にあるものは、写真では分からない。誰かの真意は、いつだって表面には現れてこないのだと、私は改めて思い知らされた気がした。
「最初から、そうだったの?」
私が尋ねると、美冬は少し意外そうに顔を上げた。
「そう、って?」
「誰と話しても怒ったり、裏切ったって言ったり」
「ああ……」
美冬は、写真の端を指先でなぞった。
「最初は、違いました」
声が、少しだけ柔らかくなる。
「『美冬が一番の友達だから』って言われるの、嬉しかったんです。毎日一緒に帰ろうって言われるのも、休みの日に遊ぼうって誘われるのも。私のことを、それだけ大事にしてくれてるんだと思ってました」
「じゃあ、いつから嫌になったの?」
「それが、自分でもよく分からないんです」
美冬は困ったように笑った。
「一緒に帰ろうって言われるのが、いつの間にか『今日は誰とも帰らないで』になって。『一番の友達』って言葉も、『私より大事な友達を作らないで』に変わっていって」
私は黙って、美冬の話を聞いていた。
「でも、急に変わったわけじゃなかったから」
美冬は続ける。
「昨日まで嬉しかったことを、今日から嫌だって思っていいのか、分からなかったんです」
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
「嫌だって思ったなら、嫌だって言ってもよかったんじゃない?」
「今なら、そう思います」
美冬は小さく頷いた。
「でも、そのときは……あの子が私を必要としてくれてるんだって思ってました。『美冬だけは私を置いていかないよね』って言われると、断ったら見捨てることになる気がして」
「それって、友達だから大事にしてたのか、それとも――」
そこまで言って、私は言葉を止めた。
美冬が冷静に続きを引き取った。
「縛られてたのか、ですよね」
私は頷いた。
美冬は、写真の中で笑っている二人をしばらく見つめていた。
「今でも、よく分からないんです」
「分からない?」
「大事にされて嬉しかった気持ちは、本物だったから」
美冬の指先が、写真の上で止まる。
「あの子が全部悪かったって思えたら、もっと簡単なのかもしれません。でも、楽しかったことも、本当にあった。私も、ずっと一緒にいたいって思ってた時期があったんです」
だからこそ、苦しいのだろう。
嫌だった記憶だけなら、捨ててしまえるのかもしれない。
けれど美冬が消したい相手は、かつて自分を笑わせてくれた相手でもある。
「好きだから一緒にいたいって思うのと、相手を自分だけのものにしたいって思うのは、どこから違うんでしょうね」
美冬がぽつりと言った。
私は、すぐには答えられなかった。
誰かを大切に思う気持ちは、目に見えない。
だから、その気持ちがいつ愛情ではなく相手を縛るものに変わったのか、外から簡単に線を引くこともできないのかもしれない。
「少なくとも」
美冬は、写真を見つめたまま言った。
「私が嫌だって思ったときに、それを言えなくなってたのは、たぶん、仲がいいだけじゃなかったんだと思います」
「捨てればいいんじゃないですか?」
いつの間にか、部室の入口に日向が立っていた。志緒里先輩の姿もその後ろに見える。話し声が聞こえて戻ってきたらしい。二人とも、少し驚いた表情でこちらを見ていた。
「嫌な相手の写真なら、捨てちゃえばすっきりすると思います」
「捨てても、思い出は消えないので」
美冬は日向のほうを見て、冷静に答えた。
「写真がなくなっても、頭の中にはずっと残ってる。だから、意味がないんです」
その言葉には、経験に裏打ちされた確かな重みがあった。日向は少したじろいだように見えた。
志緒里先輩が眉を寄せた。
「久住さん、その話、詳しく聞かせてもらってもいい? ただ、危険性がある話なら、簡単には頷けないけど」
「危険性、ですか」
「このカメラのこと、私たちもよく分かっていないの。写真から人を消すなんて、普通に考えたら――」
「分かってます」
美冬が志緒里先輩の言葉を遮った。
「それでも、お願いしたいんです」
その声には、これまでの穏やかな口調からは想像できないほどの強さがあった。私は美冬の必死な様子に、思わず紗季のことを重ねてしまっていた。写真を見るたびに苦しくなる、という言葉が、自分のことのように響く。胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚があった。
「久住さんは、何もかも忘れたいの?」
私が尋ねると、美冬は少し考えてから首を横に振った。
「全部を忘れたいわけじゃないです。ただ、写真を見るたびに、自分を責めるのをやめたい」
「自分を?」
「あの子と喧嘩別れしたとき、私、ちゃんと話さずに逃げたので。それが、ずっと引っかかってて」
美冬の声は落ち着いていたが、指先はずっと写真の端を握りしめていた。爪の先が、わずかに白くなっているのが見えた。
志緒里先輩は、しばらく黙って美冬を見ていた。部室の空気が、いつもより張り詰めているように感じられた。それから、小さくため息をついた。
「分かった。でも、決めるのは久住さん自身。私たちが無理に勧めることじゃない」
美冬は頷いた。
私は鞄から古いカメラを取り出した。ケースを開けると、あの独特な、装飾のない黒い金属が姿を現す。美冬はそれをじっと見つめていた。まるで、そこに自分の未来がかかっているかのような、真剣な眼差しだった。
「本当に、消えるんですか」
「たぶん」
私は正直に答えた。
「私も、まだ試したことがないの。昨日、写真の中の人が黒く見えただけで」
「それでも構いません」
美冬は写真を机の上に置き、カメラを両手で受け取った。手が少し震えている。その震えは、恐れからなのか、それとも長く抱えてきたものへの決着をつけようとする緊張からなのか、私には判断がつかなかった。
その瞬間、机の端に、白い小さな影が現れた。フィルだった。羽根の先の黒が、いつもよりわずかに濃く見えた。
「――」
日向が小さく声を上げかけたが、志緒里先輩がそれを手で制した。フィルの姿は、美冬にも見えているらしい。美冬は驚いた様子もなく、むしろどこか納得したような表情でフィルを見つめていた。まるで、この存在の出現を、最初から予期していたかのようだった。
「見えるのね」
私が呟くと、フィルはこちらを一瞥した。
「本気で消したいと願う者にしか、私は見えない」
フィルは美冬のほうへ向き直った。
「一度消したものが、元に戻る保証はない」
美冬は、その言葉に一瞬だけ手を止めた。指先が、ほんの少しだけ強張った。けれど、すぐにまたカメラを構え直した。
「それでも、いいです」
「決意は変わらないか」
「はい」
フィルは、それ以上何も言わなかった。ただ、じっと美冬の様子を見届けているだけだった。その視線には、心配も同情も見当たらない。ただ、選択が下されるのを、冷静に待っているだけの視線だった。
私は美冬にカメラを渡したまま、シャッターには触れなかった。押すべきなのは、私ではないと思った。この決断は、美冬自身のものだ。もし私が代わりに手を貸してしまえば、それは美冬の選択を、私が奪うことになる。そんな気がした。
美冬はファインダーへ目を近づけた。写真の中の少女が、黒く塗りつぶされて見えているはずだった。震える指が、シャッターへ触れる。
部室の中が、一瞬だけ静かになった。窓の外の運動部の声さえ、遠く感じられた。LED照明の明滅する音だけが、やけにはっきりと耳に届く。
シャッター音が鳴った。
乾いた、小さな音だった。だが、その音の後に流れた沈黙は、あまりにも重かった。
写真から、少女の姿が消えていた。
元親友が立っていた場所には、何もない空白が残っている。まるで最初から一人だけがそこにいたかのように、写真の構図がわずかに変わって見えた。空白の部分だけが、周囲の色合いとわずかに異なり、そこに何かが欠けていることを、静かに物語っていた。美冬は、その写真をじっと見つめていた。
「消えました」
誰にともなく、そう呟く。声には安堵とも困惑ともつかない響きがあった。
志緒里先輩と日向は、言葉を失ったまま写真を覗き込んでいた。私も実際に人が消える瞬間を目にして、背筋が冷たくなるのを感じていた。これまでどこか半信半疑だった力が今、目の前で確かな現実として証明された。その事実の重さに、体の内側が小さく震えているのが分かった。
美冬は写真を大切そうに鞄へしまい、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「久住さん、体調とか、変わったところない?」
志緒里先輩が心配そうに尋ねる。
「大丈夫です。むしろ、すっきりしました」
美冬はそう言って、部室を出ていった。その足取りは、来たときよりもいくらか軽く見えた。
私は机の上のカメラを手に取った。
気のせいか、さっきまでより少しだけ重くなったように感じた。
「フィル、このカメラ……」
尋ねようとしたときには、フィルの姿はもう消えていた。
☆
翌朝、教室へ入ると、美冬はいつもより穏やかな顔をしていた。休み時間、一人で本を読んでいる姿もいつも通りで、特に変わったところはないように見えた。窓から差し込む朝の光が、美冬の横顔を柔らかく照らしている。
私はほっとしながら、自分の席へ向かった。少なくとも、昨日の出来事が何か悪い影響を及ぼしたようには見えない。そう思うと、胸のつかえが少しだけ軽くなった気がした。
だが、視界の端に何かが引っかかった。美冬の机の上――いつもなら、必ず置いてある文庫本がない。
美冬は、あの本が好きだと以前クラスメイトが話していたのを聞いたことがある。分厚い文庫本で、表紙が擦り切れるほど何度も読み返しているようだった。休み時間になると必ずページを開き、時折、頬を緩めながら文字を追っている姿を、何度か見かけたことがあった。
今は、机の上に何もない。
気のせいかもしれない。今日は忘れただけかもしれない。
私はそう思おうとしたが、胸の奥に小さな棘が残った。
美冬は、いつもと変わらない様子で授業の準備をしている。その横顔には、昨日感じられたような苦しさはもう見えなかった。表情は穏やかで、肩の力も抜けているように見える。それが、良いことなのかどうか、私には判断がつかなかった。
チャイムが鳴り、担任が教室に入ってくる。私は席に着きながら、ちらりと美冬の机をもう一度確認した。やはり、そこには何もなかった。ただの空白が、机の上にぽつんと残されているだけだった。その空白が、まるで写真の中に生まれたあの空白と、同じもののように思えて、私はしばらく、その違和感から目を逸らすことができなかった。




