第二話 古いカメラと白い鳥
白い鳥は、しばらく私を見つめたあと、ようやく答えた。
「フィル」
「え?」
「私の名前。そう呼ばれたことがある」
声には抑揚がほとんどなく、まるで台本を読み上げているようだった。
私はカメラを持ったまま机から一歩離れた。床板がわずかに軋む。フィルと名乗るその小さな生き物は逃げる素振りも見せず、机の上に立ったままこちらを見ている。灰白色の羽根が、LED照明の光を反射して、写真の印画紙のような艶を帯びていた。
「そのカメラには、写真に写った人物を消す力がある」
フィルは前置きもなく、そう告げた。
「消す……?」
「今、お前が見た通りだ。ファインダー越しに黒く見えた人物は、シャッターを押せば、写真から消える」
私は手の中のカメラへ目を落とした。革の剥がれかけたケース、装飾のない黒い金属。手のひらに伝わる重みは、さっきから何も変わっていない。とても、そんな力を持っているようには見えなかった。
「冗談……ですよね」
「冗談を言うために、わざわざ現れはしない」
フィルの口調は変わらなかった。感情の起伏がまるで感じられない。それが逆に、この状況の異様さを強めていた。人間なら、こんな話をするとき、少しは声を弾ませたり、あるいは緊張させたりするはずだ。フィルにはその両方がなかった。
「ただし」
フィルは続けた。
「消えるのは、写真の中の姿だけではない」
「どういうこと?」
「その人物と結びついた記憶や、出来事も、少しずつ形を変える」
私はすぐには意味を飲み込めなかった。写真から人が消える、というだけでもじゅうぶんに信じがたいのに、記憶まで変わるという。頭の芯のあたりが、冷たい水に浸されたようにしんと痺れた。
「信じられない」
私は思わずそう口にした。声に出してみると、自分でも都合よく逃げているような気がした。口にすることで、まだ何も決めなくていい猶予を、自分に与えようとしているだけなのかもしれなかった。
「信じる必要はない。試すかどうかは、お前が決めることだ」
そのとき、廊下から足音が聞こえた。志緒里先輩と日向が戻ってきたのかもしれない。私は反射的にフィルのほうを振り返ったが、机の上には、もう何もいなかった。白い羽根の一枚も残っていない。まるで最初から誰もいなかったかのように。
部室の扉が開いた。
「あれ、十倉、まだいたの?」
志緒里先輩が怪訝な顔で入ってくる。進路相談は思ったより早く終わったらしい。後ろから、忘れ物を取りに戻ってきたらしい日向も顔をのぞかせた。
「先輩、忘れ物ですか?」
「あ……いえ、戸棚の整理をしてて」
私はとっさに、手の中のカメラを背中に隠すように持ち替えた。心臓がまだ少し速い。今、この場でフィルのことを話しても、二人が信じてくれるとは思えなかった。それに、自分自身、何が起きたのか整理できていない。言葉にした瞬間、余計に現実味を失ってしまいそうな気さえした。
「もう暗いし、今日は帰りましょう」
志緒里先輩の言葉に、私は頷いた。カメラは鞄の中にそっとしまい、三人で部室を出た。廊下の窓から見える空は、もうすっかり群青色に沈んでいた。三人分の足音が、静かな廊下に響いていく。
その夜、私は自分の部屋でカメラを机の上に置いたまま、長い間眺めていた。デスクライトの光の下で、革のケースの傷がいつもより深く見える。ファインダーをのぞく勇気はなかった。もし本当に、あの黒く塗りつぶされた紗季の姿が見えたら、そのときの自分がどうするか分からなかったからだ。眠りにつくまで、天井の木目を見つめながら、何度も同じ問いが頭の中を巡っていた。あれは、本当に現実だったのか。
翌日の放課後、私はカメラを部室へ持っていき、志緒里先輩と日向に見せた。
「戸棚の奥から、これが出てきて」
「なにこれ、ずいぶん古いフィルムカメラね」
志緒里先輩はカメラを手に取り、あちこちを確認しながら興味深そうに眺めた。指先で革の継ぎ目をなぞり、レンズの奥を覗き込む。
「メーカー名も型番もない。備品台帳、確認してみようか」
志緒里先輩は部室の隅にある古い棚から、分厚いファイルを取り出した。写真部の備品を記録した台帳らしく、何十年も前の記録から順に綴じられている。紙はすっかり黄ばみ、めくるたびに乾いた音を立てた。志緒里先輩は慣れた手つきでページをめくっていったが、しばらくして首をかしげた。
「載ってない。少なくとも、私が確認できる範囲では」
「じゃあ、誰かの私物ってことですか?」
日向が横から覗き込む。
「かもしれないし、記録される前から、ずっとここにあったのかもしれない」
志緒里先輩はケースの裏地を指でなぞった。
「この文字……『残したくないものを、写してください』か。なんだか意味深ね」
「呪いのカメラみたい」
日向が興奮気味に言う。目を輝かせて、まるで面白い謎解きでも見つけたような顔をしていた。
「試してみましょうよ。何か写せば、何か起きるかもしれないし」
「面白がってる場合じゃ……」
私はそう言いかけたが、二人はすでに部室を出て、校庭のほうへ向かおうとしていた。仕方なく、私も後を追った。冷たい廊下の空気が、頬にひやりと触れる。
校庭の隅には、創立記念のときに建てられたという古い銅像がある。誰も気にも留めないような、色あせた像だった。夕方の光を受けて、その表面がぼんやりと鈍く光っている。日向がカメラを構え、シャッターを切る。
何も起こらなかった。
銅像にも周囲にも、目に見える変化はない。フィルの姿も現れない。
「なんだ、普通のカメラじゃないですか」
日向は少しがっかりした様子で言った。志緒里先輩も肩をすくめる。
「気のせいだったのかもね、十倉」
二人にそう言われると、私も自分が見たものに自信が持てなくなってきた。もしかしたら、疲れていて幻を見ただけかもしれない。頭の中で、昨夜の出来事が急に色褪せていくような感覚があった。
それでも、二人が帰ったあと、私は一人で部室に残った。窓の外はすでに暗く、校庭の照明だけがぽつぽつと灯り始めている。
スマホで、中学時代の写真のデータを開いた。
紗季と二人で、修学旅行先の神社で撮った写真だった。肩まで伸ばした黒髪の私は、紗季の隣で少しぎこちなく笑っている。紗季はその横で変な顔をしようとして、見事に失敗していた。写真の端には、当時使っていた消しゴムまで写り込んでいて、それがやけに懐かしく感じられた。
私はカメラを構え、全画面表示にしたその写真へレンズを向けた。
ファインダーの中で、写真全体がわずかに揺らいだように見えた。次の瞬間、紗季の姿だけが黒く塗りつぶされていく。私の姿は、そのままだった。
やはり、昨日見たものは幻ではなかった。
「本気で願ったときにしか、動かない」
机の上に、いつの間にかフィルが立っていた。昨日と同じ、灰白色の羽根に、黒く色を変えていく尾羽。まるで最初からそこにいたかのような、唐突さだった。
「お前は今、迷っている」
「迷ってなんか……」
私はそう言いかけて、言葉に詰まった。指はシャッターにかかったまま、押せずにいた。指先が、まるで自分のものではないみたいに、言うことをきかない。
「シャッターを押せば、紗季は写真から消える。同時に、お前の記憶の中からも、少しずつ薄れていくだろう」
「それなら……」
「それなら、お前は今すぐ押せるはずだ。だが、押していない」
フィルの言葉に、私は反論できなかった。
「お前は紗季を憎んでいるのではない」
フィルは淡々と続けた。
「まだ大切に思っているから、迷っている」
「そんなこと……」
言い返そうとした声が、自分でも情けないくらい弱かった。私はカメラをゆっくりと下ろした。フィルの言う通りだった。憎いのなら、こんなに手が震えるはずがない。手の甲に、うっすらと汗が滲んでいるのに気づいた。
腹立たしさが込み上げてきた。フィルに対してなのか、自分自身に対してなのか、よく分からなかった。図星を突かれたことへの苛立ちなのか、あるいは、自分でも気づかないふりをしていたことを、あっさり見抜かれたことへの動揺なのか。
「もういい」
私はカメラを乱暴にケースへ戻した。写真のデータを閉じ、スマホを鞄にしまう。フィルはそれ以上何も言わず、私が動くのをただ見ていた。その視線には、責めるような色も、慰めるような色もなかった。
立ち上がって帰り支度をしていたそのとき、部室の扉が音を立てて開いた。
私は反射的に振り返った。フィルの姿は、すでに消えていた。
扉のところに立っていたのは、クラスメイトの久住美冬だった。長い黒髪が、俯いた頬の横に静かにかかっている。普段、休み時間は一人で本を読んでいることが多く、写真部にはほとんど関わりのない人だった。声をかけられた記憶も、ほとんどない相手だった。
美冬は、机の上に置かれたカメラのケースを、じっと見つめていた。その視線には、好奇心というより、何か切実なものが滲んでいるように見えた。それから私へ尋ねた。
「そのカメラ、本当に人を消せるんですか?」
部室のLED照明が、その瞬間だけ、わずかに明滅した気がした。私は、その言葉の重さに、一瞬言葉を失った。




