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消したい人が、写真の中で笑っている  作者: 明石竜


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第一話 嫌いな人が写っている

 嫌いな人が写っている写真を残しておく意味はあるのだろうか。

 県立朝陽ヶ丘高校。九月の文化祭を終えて数日が経ち、写真部では撮影した写真の整理に追われていた。

 私はパソコンの画面に並んだ写真を見ながら、マウスを動かす手を止めた。文化祭。体育祭。修学旅行。校外学習……。部員たちがこれまでに撮った写真が日付ごとのフォルダに分けられている。

 写真部の部室には私と志緒里先輩、それに一年生の日向ひなたの三人しかいない。

窓の外では、運動部の掛け声が遠くから響いていた。声はガラス越しに丸くなり、まるで別の世界から聞こえてくるようだった。

 部室のLED照明は一つだけ調子が悪く、時折わずかに明滅する。その光の下で、パソコンの画面だけが不自然なくらい白く浮かび上がっていた。フォルダを開くたびに、指先が少しずつ重くなる。理由は分かっていた。

 その中の一枚で、大宮紗季が笑っていた。

肩より少し長い髪をゆるく結び、教室の窓際で紙の花を両手に持っている。文化祭の準備中に撮った写真だった。隣にいるクラスメイトへ何かを言いながら、少しだけ顔を傾けている。誰かに褒められて照れているときの癖だ。頬の上がり方も、目の細め方も、私は知りすぎるくらい知っていた。昔なら私だけが知っている笑い方だと思っていた。今は知らない誰かの表情のように見える。同じ顔のはずなのに、遠く感じられることが不思議だった。

 今は見たくない。

 私は写真の右上にカーソルを合わせた。

 削除。 

 クリックすればそれだけで画面から消える。たった一回、指を動かすだけの動作だ。それがひどく単純に思えて、同時に、その単純さが自分を試しているようにも感じられた。指がマウスの上でわずかに動いた、そのときだった。

十倉とくら。それ、今の二年生が卒業するときにアルバムに使う候補だから消さないでよ」 

 背後から声がして、私は慌ててマウスから手を離した。心臓が一瞬だけ跳ねる。

 振り返ると写真部部長の小鳥遊志緒里先輩が、現像した写真の束を抱えて立っていた。肩のあたりで切り揃えた黒髪を耳にかけ、黒縁眼鏡の奥から私の画面をのぞき込んでいる。眼鏡のレンズにLED照明の光が反射して、一瞬だけ表情が読めなくなった。

「消しません」

「今かなり消しそうな顔をしてたけど」

「顔ではクリックできません」

「それはそうね」

 志緒里先輩は写真の束を机に置き、私の隣の椅子へ腰を下ろした。

放課後の写真部室には古い紙と薬品の匂いが残っている。暗室の扉の隙間から、わずかに現像液の匂いも漂ってきていた。その匂いを嗅ぐと、いつも少しだけ気持ちが落ち着く。理由は自分でもよく分からない。

普段の撮影はデジタルが中心だが、月に何度かはフィルム撮影や現像の練習もする。そのため、古い暗室も今なお現役だった。

「使いたくない写真があるなら印だけつけておいて。最後に私が確認するから」

「分かりました」

 私はもう一度画面へ向き直った。紗季の笑顔はまだそこにあった。消してしまいたいと思う。それなのに、指先はもう動かなかった。考えることを、自分でも意図的に避けていた。

 私は結局その写真に印をつけないまま、次のフォルダを開いた。

「十倉先輩、これ見てください」

 隣の机で寺沢日向が声を上げた。顎のあたりで切った茶色がかった短い髪と、大きな目が印象的な後輩だ。スマートフォンの画面を私たちへ向けている。体育祭のリレーで誰かが転んだ瞬間の写真だった。転んだ生徒の驚いた顔と、周りで思わず笑ってしまっているクラスメイトたちの表情が、生々しく切り取られている。

「これ構図はいいけど個人が特定されすぎ」

 志緒里先輩が言う。

「ですよねー。もったいない」

 日向は残念そうにしながらも、次の写真へ画面を切り替えている。写真部に入ってまだ半年も経っていないのに、日向の撮る写真にはいつも人の感情がまっすぐ写っていた。喜びも驚きも、隠すことなくそのまま画面に飛び出してくる。私とは正反対だと思う。私は人の表情の裏側を探そうとして、日向は表側をそのまま切り取る。どちらが正しいというわけではないのだろうけれど、時々、日向の写真を見るたびに、自分の撮り方がひどく回りくどいもののように思えることがあった。

 紗季とは中学時代から親友だった。

 中学一年生の春、クラスに馴染めずにいた私に、最初に声をかけてきたのが紗季だった。あのころの自分は、今よりもっと言葉が少なく、教室の隅で誰とも目を合わせずにいた。それでも紗季は、まるで最初から友達だったかのような気安さで話しかけてきて、それから高校一年生の二学期までは、ほとんど毎日一緒にいた。

 だが二学期のある日、私が紗季にだけ打ち明けた秘密がクラス中に広まり、二人は絶交した。 

 あの日の空気の重さは、今でもはっきりと思い出せる。誰もが自分を見ているようで、誰も自分を見ていないような、奇妙な孤立感だった。あのとき紗季がどこにいたのか、何をしていたのか、私はよく覚えていない。覚えているのは誰かと笑っている紗季の姿だけだった。その笑い声だけが、耳の奥に張りついたまま離れなかった。

 それ以来、同じクラスにいながら、紗季とはほとんど言葉を交わしていない。

「十倉、大丈夫?」

 志緒里先輩の声に、私は我に返った。

「大丈夫です。ちょっと考え事してました」

「無理しなくていいから。今日はもう遅いし続きは明日にしましょう」

 志緒里先輩が伸びをしながら立ち上がる。日向もスマートフォンをポケットにしまい、椅子を机の下へ戻した。窓の外は、いつの間にかすっかり夕暮れの色に変わっていた。オレンジ色の光が机の端に細く伸びて、写真の束の影を長く落としている。

「私、先に帰りますね。志緒里先輩、鍵お願いしていいですか」

「はいはい」

「十倉先輩もお疲れさまでした!」

 日向が元気よく手を振って、部室を出ていく。志緒里先輩も現像した写真の束を戸棚へしまいながら、片付けを始めた。

「十倉はもう少し残る?」

「はい。もう少しだけフォルダを整理してから帰ります」

「じゃあ鍵はあとで職員室に返しておいて。私は今日、進路相談があるから先に出るね」

 志緒里先輩はそう言うと、鞄を持って部室を出ていった。扉が閉まる音のあと、部室には私だけが残された。

 静かになった部屋の中で、パソコンのファンの音だけが小さく響いていた。パソコンの画面には、まだ紗季の写真が開いたままだった。

 私は椅子の背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。写真部の部室は、もともと理科準備室として使われていた部屋を改装したもので、天井の隅には古いシミが残っている。入部したばかりの一年生のころ、そのシミの形を紗季と二人で「あれは犬に見える」「いや猫だ」と言い合ったことを、ふいに思い出した。あのときの紗季は、私の意見をなかなか認めようとせず、最後には二人とも笑い出してしまった。他愛もない時間だった。だからこそ、今になっても忘れられずに残っている。

 あのころは、こんな風になるとは思ってもいなかった。

 私は画面をもう一度確認してから、パソコンをスリープにした。帰る前に部室の奥にある戸棚を片付けておこうと思い立った。志緒里先輩が備品を探すたびに、あの戸棚の中がぐちゃぐちゃで見つからないと文句を言っていたのを思い出したからだ。

 戸棚の扉を開けると、古いフィルムや、使われなくなった三脚、埃をかぶった写真集などが詰め込まれていた。指先に埃がまとわりつき、鼻の奥がむずがゆくなる。私は一つずつ手に取りながら、使えそうなものと処分するものを分けていった。

 その途中で、戸棚のいちばん奥、布に包まれた小さな箱に指先が触れた。布はすっかり色あせていて、触れた瞬間にかすかな埃が舞い上がった。

 引っ張り出してみると、革のケースに入ったカメラだった。見た目は古いフィルムカメラで、表面の革はところどころ剥がれかけている。写真部の備品にしては見覚えがなかった。長年、誰にも触れられずにいたのだろう。ケースの角は擦り切れ、その上に薄い埃の層が積もっていた。

 私はケースからカメラを取り出し、電灯にかざしてみた。メーカー名も、型番を示すような刻印もない。ただの黒い金属とレンズだけの、装飾のない道具のように見えた。手に持つとずっしりとした重みがあり、指先にひんやりとした金属の感触が伝わってくる。

 ケースの内側を何気なくめくったとき、裏地に沿ってかすれた文字が書かれているのに気づいた。インクは薄れかけていて、指でなぞらなければ読み取れないほどだった。

「残したくないものを、写してください」

 それだけが記されていた。

 誰が、いつ書いたものなのか分からない。備品台帳にも載っていないのなら、部の誰かの私物だったのかもしれないし、もっと昔、卒業していった先輩の忘れ物かもしれない。文字の書き方は丁寧で、迷いなく一息に書かれたように見えた。それが、かえって不気味さを増していた。 

 私はしばらくカメラを見つめたあと、なんとなく、パソコンの前へ戻った。

 スリープを解除すると、さっきの画面がそのまま表示された。紙の花を持って笑う紗季の写真。LED照明の明滅のせいか、画面の白さがいつもより刺すように感じられた。

 半信半疑のまま、私は古いカメラを構え、画面へレンズを向けた。ファインダーをのぞくためというより、ただ手にしたものがどんな道具なのか確かめたかっただけだった。

 あくまで好奇心のようなものだった、はずだった。

 ファインダーの向こうに、紗季の姿が見えた。

 けれど色がおかしい。

 紗季の顔も体も、背景から浮き上がるように黒く塗りつぶされて見えた。周りの教室や隣にいるクラスメイトの姿は普通に画面のままなのに、紗季の部分だけが墨を流し込んだように暗く沈んでいる。まるで、そこだけ切り取って夜を貼りつけたようだった。

 私は思わずファインダーから目を離した。パソコンの画面を直接見ると、写真はさっきと変わらず、紗季が笑っている普通の一枚だった。

 もう一度ファインダーをのぞく。

 やはり同じだった。紗季のところだけが黒く塗りつぶされている。

 心臓が、いつもより少し速く動いているのが分かった。手のひらにじわりと汗が滲む。私はカメラを机に置き、部室の中を見回した。誰もいない。当然だ、志緒里先輩も日向も、もう帰ってしまっている。窓の外の空はすっかり暗く沈み、部室の中にはLED照明の白い光だけが残っていた。

 気のせいだ、と思おうとした。古いカメラのレンズが曇っていて、光の加減でそう見えただけだ。そう自分に言い聞かせる声は、自分でも驚くほど弱々しく響いた。

 もう一度カメラを手に取ったとき。

「その人だけを、消せると思っているのか」

 背後から、聞き覚えのない声がした。

 低くも高くもない、性別も年齢も判断がつかない声だった。感情のようなものがまるで感じられない、平坦な響き方をしている。それでいて、耳の奥に直接触れてくるような、妙な近さがあった。

 私は勢いよく振り返った。

 部室の机の上に、小さな白い鳥のようなものが立っていた。手のひらに乗るくらいの大きさで、羽根の色は白というより、古い写真のような灰白色をしている。尾羽の先だけが黒く、まるで現像液に浸した紙が少しずつ色を変えていくように、じわりと濃さを増していた。目を凝らしても、それがどこから現れたのか、まったく分からなかった。

 私は動けなかった。

 声も出せないまま、ただその小さな鳥を見つめていた。窓の外では、まだ運動部の掛け声が続いている。部室の中の時間だけが止まっているように感じられた。

 鳥は――いや、それを鳥と呼んでいいのかも分からなかったが――くちばしを動かすでもなく、また同じ言葉を響かせた。

「その人だけを、消せると思っているのか」

 私は机の上のカメラと、画面の中で黒く塗りつぶされた紗季の姿と、目の前の白い生き物を、順番に見比べた。頭の中では、いくつもの説明が浮かんでは消えていく。疲れているだけ。夢を見ている。何かの見間違い。だが、どれもしっくりとはこなかった。

 頭のどこかで、これは夢だ、疲れているだけだ、と自分に言い聞かせようとする声がした。けれど指先に残るカメラの重みも、目の前の羽根の色が変わっていく様子も、あまりにはっきりしすぎていた。現実であることを、体のほうが先に理解してしまっている。

 私はようやく声を絞り出した。

「あなたは……何?」

 白い鳥は答える代わりに、じっと私を見つめ返していた。部室の白い光の下で、その灰白色の羽根だけが、そこに在り続けていた。

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