第十六話 紗季が言えなかったこと
翌日の放課後、私は紗季を呼び出した。委員会の仕事が終わるのを待って、校舎裏の渡り廊下――遥人と話したのと同じ場所だった。夕方の光が、コンクリートの壁に長い影を落としている。
紗季は、私の様子から何かを察したのか、緊張した面持ちでやってきた。足取りは、いつもよりずっと重く見えた。
「話って、何」
「八代くんから聞いた」
私は前置きなく切り出した。声が、思ったより硬くなる。
「秘密のこと、最初に噂を広めたのは、紗季じゃなかったって」
紗季の表情が、わずかに強張った。頬の色が、一瞬だけ変わったように見えた。
「……そうなの」
私は、その反応をじっと見つめた。答え方一つで、これまでの一年間が、まったく違う意味を持ち始める。そのことに、体の芯が緊張していた。
「本当のこと、話して」
紗季は、しばらく黙っていた。渡り廊下を吹き抜ける風だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。それから、穏やかに口を開いた。
「私、遥人くんに秘密を話してはいない」
「じゃあ、なんで」
「でも」
紗季は、言葉を選びながら続けた。
「遥人くんに、『本当なのか』って問い詰められたとき、否定できなかった」
その言葉に、私は息を止めた。胸の奥が、鈍く重くなる。
「なんで、否定しなかったの?」
「否定すれば、嘘になるから」
紗季の声は、震えていた。
「じゃあ」
私は、紗季から目を逸らさずに聞いた。
「私を守るためなら、嘘をついてもよかったと思う?」
紗季は、すぐには答えなかった。
渡り廊下を風が吹き抜けていく。窓の隙間から入り込んだ冷たい空気が、制服の袖をわずかに揺らした。
「……分からない」
やがて紗季は、小さく答えた。
「今でも、嘘をつくのが正しいとは思えない。でも」
一度、唇を噛む。
「あのときの私は、嘘をつかないことばかり考えてた。未桜が私に、誰にも言わないでって頼んだことを守るほうが大事だったのかもしれないって、今は思う」
「だったら、嘘をつけばよかったじゃない」
自分でも、意地の悪い言い方だと思った。
けれど紗季は、目を逸らさなかった。
「うん。そうだったのかもしれない」
その答えは、私が期待していたものとは少し違った。
言い訳をされれば怒れた。自分は間違っていなかったと言われれば、もっと責めることもできた。
でも紗季は、そうしなかった。
「ただ」
紗季は続けた。
「誰かを守るためなら、どんな嘘でも許されるとも思わない。『未桜のためだった』って言えば、何をしてもいいことになるのは違うと思うから」
「じゃあ、何が正しかったの?」
「分からない」
また同じ答えだった。
紗季は少しだけ俯いた。
「たぶん、あのとき私がやるべきだったのは、正しい答えを選ぶことじゃなくて……遥人くんに、これは私が話していいことじゃないって言うことだったんだと思う」
私は何も言えなかった。
嘘をつくか、本当のことを言うか。
私はずっと、その二つしかないと思っていた。
けれど、誰かの秘密について聞かれたとき、答えないという選択もあったのだ。
「それでも」
紗季が言った。
「できなかったことの責任がなくなるわけじゃない。怖かったから黙ったのは、私だから」
その言葉を聞いても、胸の奥の痛みは消えなかった。
けれど私は初めて、あの日の紗季もまた、簡単な二択の前で立ち尽くしていたのかもしれないと思った。
「未桜の秘密は……」
紗季は、一度言葉を切った。私はその先を促すように、黙って待った。心臓が、いつもより速く脈打っている。
「未桜のお父さんが家を出てること、お母さんとの関係がうまくいってない時期があったこと。未桜が私にだけ、話してくれたこと」
私はその言葉に胸を締めつけられた。
あの夜のことが、ほんの一瞬だけ、鮮明に蘇った。
部屋の電気を消して、布団の中でスマートフォンを耳に当てていた。隣の部屋にいる母に聞かれないよう、声を潜めながら、途切れ途切れに家のことを話した。
「誰にも言わないで」
最後にそう言った私へ、紗季は間を置かずに答えた。
「うん。言わない」
その声を聞いて、ようやく息ができたような気がしたことまで覚えている。
あのとき私は、紗季なら大丈夫だと思った。
だから、話したのだ。
「噂が広がったあとも、私、周りに『全部嘘だ』って言えなかった」
「なんで」
「言えば、私が嘘つきだと思われるから」
紗季の声は、ますます小さくなった。
「みんなから責められるのが、怖かった」
その言葉に、胸の奥で何かが冷えていく。
「結局、私より自分を守ったってこと?」
紗季は、しばらく黙ってから頷いた。
「うん。そうだよ」
その率直さが、かえって胸に深く突き刺さった。
「直接漏らしてなくても、結果は同じでしょう」
「……うん」
「私が受けた傷は、変わらない」
「分かってる」
紗季は言い訳をしなかった。
それが余計に腹立たしかった。
二人の間に、重い沈黙が流れた。渡り廊下の向こうから、部活動の声が、遠く微かに聞こえてくる。
私は、これまで自分の中にあった構図が、少しずつ崩れていくのを感じていた。
だが、それでも、心の奥底にある怒りは消えなかった。
「未桜」
紗季が突然、小さな声で私を呼んだ。
「何」
「未桜が、何も聞かずに私を切り捨てたことも、苦しかった」
その言葉に、私は反射的に反発しかけた。だが、紗季は続けた。
「秘密が広まったとき、未桜は私に、何があったのか聞こうともしなかった。ただ、私が裏切ったって決めつけて、それきりだった」
「それは……」
私は、言葉に詰まった。あの日の自分の行動を、初めて紗季の側から見つめ直されているような気がした。
「私にも、言い分があったのかもしれないのに」
紗季の声には、これまで隠していた感情が、ようやくにじみ出ているようだった。
「未桜は、自分だけが傷ついたって思ってたかもしれないけど、私も、未桜に何も聞いてもらえなかったことが、辛かった」
私はその言葉に、思わず反論したくなった。喉元まで、言葉がせり上がってくる。だが、同時にそれが的外れではないことも自分の中で分かっていた。反論の言葉が行き場を失ったまま、胸の奥で立ち往生していた。
私は、紗季が全ての原因を作ったのだと、ずっと思い込んでいた。だが、実際には、私自身も紗季の話を聞こうとせず、一方的に関係を断ち切った。加害者と被害者という単純な構図では、この関係を説明しきれないのかもしれない。
「私だって……」
私は口を開きかけたが、うまく言葉が続かなかった。頭の中では、様々な感情が渦巻いていた。怒り、戸惑い、そして、これまで気づかなかった自分自身の非への、かすかな自覚。それらが絡み合い、一本の言葉にまとめることができなかった。
紗季はそれ以上何も言わず、ただ私の返答を待っていた。渡り廊下には、夕方の冷たい風が吹き抜けていた。制服の裾が、わずかに揺れる。
私は、自分がずっと「被害者」だという立場に、無意識にしがみついていたことに、気づき始めていた。紗季だけが悪く、自分は何一つ間違っていない――そう思い込むことで、自分の心を守っていたのかもしれない。
だが、その構図が崩れ始めた今、私はどうすればいいのか、分からなくなっていた。
「今日は、これで」
紗季はそう言って、背を向けた。その後ろ姿は、来たときよりも、少しだけ軽く見えた。言うべきことを、ようやく口にできたからなのかもしれない。
私はその背中を呼び止めることができなかった。渡り廊下に一人残され、私はしばらくの間、動くことができなかった。夕暮れの風だけが、頬を撫でるように吹き抜けていく。
頭の中では、遥人の告白と、紗季の告白が、何度も繰り返し再生されていた。誰か一人だけが悪かったわけではない。そのことを認めるのは、思ったより苦しいことだった。誰かを一方的に責め続けることのほうが、実は、ずっと楽なことだったのかもしれない。そう思い知らされながら、私はしばらく、渡り廊下の薄暗がりの中に立ち尽くしていた。




