第十五話 本当のことと、話していいこと
その週、写真部に思いがけない来客があった。新聞委員の八代遥人だった。
「話、聞きたいことがあって」
遥人は無造作に短く切った髪と、人懐っこい目元が印象的な男子だ。いつもの笑顔を浮かべながら部室に入ってきたが、私はすぐに身構えた。肩のあたりに無意識に力が入る。
「何の話」
「古いカメラのこと。校内で噂になってるだろ」
その言葉に、部室の空気が張り詰めた。志緒里先輩と日向が、思わず顔を見合わせる。窓の外の音が、一瞬だけ遠くなったように感じられた。
「美冬の写真から、誰かが消えたって話、聞いてさ」
遥人はいつもの軽い調子で続けた。
「新聞委員として、ちょっと気になって。面白い話なら、記事にできるかなって」
「八代くん」
私は、思わず声を低くした。
「本当のことなら、何を書いてもいいと思ってる?」
遥人の笑顔が、わずかに固まった。
「何、その言い方」
「前もそうだったでしょう」
自分でも、声が少し強くなっているのが分かった。
「私のことだって、嘘を作ったわけじゃない。本当のことを聞いて、それを人に話しただけ。そう思ってたんじゃないの?」
遥人は、すぐには答えなかった。
「……事実だったから」
やがて、小さく言った。
「少なくとも、嘘を広めたつもりはなかった」
「じゃあ、本当のことなら話していいの?」
「そういう意味じゃ――」
「私の家のことは、私のことなのに」
私は遥人の言葉を遮った。
「八代くんが知った瞬間に、八代くんが誰かに話していいことになるの?」
遥人が黙る。
部室の空気が、それまでとはまるで違うものに変わっていた。
「本当かどうかだけじゃないでしょう」
私は続けた。
「誰のことなのかとか、その人が人に知られたいことなのかとか。そういうのは、考えなかったの?」
「……考えてなかった」
遥人は、視線を逸らした。
「そのときは、本当のことなら問題ないって、どこかで思ってた」
その答えに、胸の奥が鈍く痛んだ。
本当のこと。
嘘ではないこと。
それだけで、人の秘密を自分のものみたいに扱っていい理由になるはずがない。
「だから、今回も同じ」
私は机の上のカメラを見た。
「久住さんのことを、面白い記事の材料みたいに扱わないで」
遥人は何も言わなかった。
「取材なら、他を当たって」
私は突き放すように言った。噂がどこから広まったのか分からないが、こうして興味本位で嗅ぎつけられるのは、あまりに危険だった。声が、自分でも意外なほど硬くなる。
「そんな冷たくしなくても」
「帰って」
私は、はっきりとそう言った。遥人は、少し困った顔をしながらも、その場では素直に部室を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、私は胸のざわつきが、すぐには収まらないのを感じていた。
☆
だが、その日の放課後、遥人は再び私を呼び止めた。校舎裏の人気のない渡り廊下だった。夕方の光が、コンクリートの壁を淡く照らしている。
「十倉、個人的に話があるんだけど」
「取材ならお断りって言った」
「取材じゃない」
遥人の声は、いつもの軽さがなかった。私は、その様子に何かを察し、足を止めた。空気の湿度が、いつもより重く感じられる。
「一年の二学期のこと、覚えてるだろ」
その一言で、私の中の何かが冷たく凍りついた。全身の血が、一瞬だけ引いていくような感覚だった。
「秘密が広まったときの話」
遥人がぽつりと言った。
「十倉が、あの噂の出所を、紗季だと思ってるのは知ってる」
遥人は少し目を伏せながら続けた。指先が、無意識にポケットの中で動いている。
「でも、それ、違うんだ」
私は、思わず言葉を失った。
「何言ってるの」
「噂を広めたのは、紗季じゃない。俺なんだ」
遥人は、はっきりと告げた。その口調には、これまでの軽薄さとはまるで違う、重みのようなものがあった。
「別の生徒から、断片的な話を聞いて。それで、紗季に『本当なのか』って聞いた」
「紗季に……?」
「紗季は、否定しなかった。ただ、黙ってた」
遥人は、そのときの記憶を辿るように、視線を宙に泳がせた。
「俺は、その反応を、肯定なんだと思った。それで、他の生徒に話した」
その告白は、あまりにも唐突だった。私は、遥人の言葉をすぐには受け入れられなかった。頭の中で、これまで信じていた構図が、音を立てて崩れていくようだった。
「最初は、何人かに話しただけだった」
「うん」
「でも、そのあとグループチャットに書かれて、スクショされて、別のグループにも回ってた」
私は何も言わずに聞いていた。
「誰かが『これ本当らしいよ』って書いて。別のやつが『聞いたことある』って返して。それがまた転送されて」
遥人はスマートフォンの画面を伏せた。
「気づいたときには、誰が最初に言ったのかなんて、もう誰も気にしてなかった」
あの頃を思い出す。
廊下ですれ違うたびに向けられた視線。
教室の隅で交わされていた小声。
自分の知らない場所で、自分の家族のことだけが勝手に歩き回っていた。
「私の知らないところで、そんなことになってたんだ」
私が言うと、遥人は少し顔を曇らせた。
「でも、グループチャットのせいだけじゃない」
「え?」
「俺が最初に話さなければ、少なくともあの形では広がらなかった」
意外な言葉だった。
遥人は、苦いものを飲み込むような表情をした。
「俺、ずっと『本当のことを言っただけ』って思ってたんだ」
「……うん」
「そう思ってれば、自分は嘘つきじゃないし、悪いことをしたわけでもないって思えたから」
その言葉に、私は少しだけ息を止めた。
「でも、本当のことを話すのと、話していいことを話すのは、同じじゃなかったんだと思う」
遥人は、自分に言い聞かせるように続けた。
「知ったからって、それを広める権利まで手に入るわけじゃなかった」
私は、すぐには何も返せなかった。
本当のこと。
嘘ではないこと。
それだけでは、誰かに話していい理由にはならない。
私はずっと、遥人がどうしてあんなことをしたのか理解できなかった。
今も、許せたわけではない。
けれど遥人が初めて、自分のしたことを「本当のことを話しただけ」では済ませなくなっているのだけは、分かった。
「なんで、今さらそんな話をするの」
「ずっと、黙ってた」
遥人は、俯きながら答えた。
「自分が噂を広めたなんて、認めたくなかった。悪意はなかったから、自分は悪くないって、そう思ってた」
「悪意がなかったら、いいの」
私の声は、自分でも驚くほど冷たかった。喉の奥から、鋭い刃のような言葉が出てくる。
「珍しい話題として、面白がってただけでしょう」
「……そうだよ」
遥人は、否定しなかった。
「本当に、そうだった。面白がってた。誰かの秘密を、話のネタにしてた」
その正直さが、かえって私の怒りを煽った。渡り廊下を吹き抜ける風が、二人の間に流れる緊張を、いっそう際立たせていた。
「悪気がなかった、なんて」
私は、喉の奥から絞り出すように言った。
「傷つけられた側には、何の救いにもならない」
「分かってる」
遥人は、俯いたまま頷いた。
「分かってるけど、言わなきゃいけないと思って」
「なんで今なの。一年も経って」
「カメラの噂が広まってから、ずっと考えてた」
遥人は、顔を上げて私を見た。その目には、これまで見たことのない、真剣な色が宿っていた。
「自分が話したことで、十倉と紗季の関係が壊れたんだって、あらためて突きつけられた気がして」
「じゃあ、紗季は?」
「紗季にも、責任はあると思う」
その言葉に、私は思わず反発した。胸の奥で、何かが急激に沸き立つのを感じた。
「自分は逃げて、紗季に責任を押しつけようとしてるの?」
「そういうわけじゃ……」
「そう聞こえる」
遥人は、それ以上何も言い返せなかった。しばらくの沈黙のあと、彼は穏やかに口を開いた。その沈黙の間、渡り廊下には、遠くの部活動の声だけが、途切れ途切れに響いていた。
「正直、自分一人だけが悪者になるのが、怖かった」
その告白は、これまでの軽い態度からは想像できないほど、率直だった。
「紗季が黙ってたから、俺だけが悪いわけじゃないって、どこかで思いたかった」
私は、その正直さに、少しだけ毒気を抜かれる思いがした。だが、それで許せるわけではなかった。人の弱さを正直に語ることと、それを許すこととは、まったく別の話だった。
「ごめん」
遥人は、頭を下げた。
「本当に、悪かった」
私は、その謝罪を、すぐには受け入れられなかった。
「今は許せない」
私は、はっきりとそう告げた。
「一年も黙ってたのに、今になって謝られても、簡単には受け取れない」
遥人は、それでも頭を下げたまま、しばらく動かなかった。その姿勢の中に、これまでの逃げ腰な態度とは違う、確かな覚悟のようなものが見えた。
「それでも」
私は少し間を置いてから続けた。
「真実を話したことだけは、認める」
その言葉が精一杯だった。許すことはできない。それでも、これまで隠されていた真実を、遥人自らが打ち明けたという事実は、無視できないものだった。
遥人は顔を上げた。目には、後悔の色が浮かんでいた。
「これから、どうすればいいのか分からないけど」
「それは、遥人が考えることでしょう」
私は、そう言い残して、その場を離れた。渡り廊下を歩く自分の足音だけが、やけにはっきりと耳に残っていた。
☆
部室へ戻る道すがら、私は遥人から聞いた話を、何度も頭の中で反芻していた。紗季が直接、秘密を漏らしたわけではなかった。だが、否定できずに黙っていたことが、結果として噂を広げるきっかけになった。
それは、私が思い込んでいた構図とは少し違うものだった。「紗季が裏切った」という単純な話ではない。もっと複雑な、いくつもの人間の弱さが絡み合った結果だったのかもしれない。廊下を歩きながら、これまで固く信じていた前提が、少しずつ形を変えていくのを感じていた。
それでも、怒りは簡単には消えなかった。紗季が、あのとき何も言わずに黙っていたという事実は変わらない。私は、その怒りをどう扱えばいいのか、まだ分からなかった。頭の中では、遥人への怒りと、紗季への怒りとが、複雑に絡み合ったまま、どちらも溶け去ろうとはしなかった。
部室に戻ると、志緒里先輩と日向が心配そうな顔で待っていた。窓から差し込む夕暮れの光が、二人の顔をオレンジ色に染めている。
「大丈夫だった?」
志緒里先輩の問いに、私は小さく頷いた。
「うん。ちょっと、いろいろ聞いただけ」
それ以上は、詳しく話す気になれなかった。まだ自分の中で、整理がついていなかったからだ。言葉にしてしまえば、まだ形を成していない感情が、無理に固定されてしまうような気がした。
窓の外は、いつの間にか夕暮れの色に染まっていた。校庭の向こうに沈んでいく太陽が、部室の窓ガラスを橙色に照らしている。私は、鞄の中のカメラの重みを、あらためて感じていた。答えを出す期限は、確実に近づいている。だが、真実を知れば知るほど、答えは単純な形からは、遠ざかっていくようだった。誰か一人を悪者にすれば楽になれるはずだったのに、知れば知るほど、その輪郭は曖昧に滲んでいくばかりだった。




