第十四話 消されたい人
「消してほしいって、どういうこと」
私は、紗季の言葉をすぐには受け止められなかった。頭の芯が、ひやりと冷たくなっていくのが分かった。
「そのままの意味」
紗季は、廊下の窓からの夕陽を背にしたまま、穏やかに言った。逆光になったその輪郭だけが、やけにくっきりと際立って見えた。
「未桜の記憶から、私を消してほしいの」
「なんで、そんな……」
「そのカメラのこと、知ってるから」
紗季の言葉に、私は驚いて言葉を失った。喉の奥が、一瞬だけ詰まる。
「知ってるって」
「写真部に出入りしてたとき、見えたの。小さな白い鳥」
私は紗季も既にフィルの姿を見ていたのだと知り、背筋が冷たくなった。これまで、フィルの存在を知るのは、写真部の関係者だけだと思い込んでいた。その前提が崩れていく。
「なんで、フィルが見えたの?」
紗季は少し俯いた。長い睫毛が、伏せた目元に影を落としている。
「本気で、消えたいって願ってたから」
そう答えた瞬間、鞄の中で小さな音がした。
金属同士が触れたような、ごくかすかな音だった。
私は鞄を開き、カメラを確認した。見たところ、何も変わっていない。
ただ、触れた金属が、いつもよりわずかに温かかった。
フィルが姿を見せるのは、本気で「消したい」と願う者にだけだと聞いていた。
だが、紗季が願っていたのは、誰かを「消したい」ではなく、自分が「消えたい」だった。その事実の重さが、じわじわと胸に染み込んでくる。
「未桜の記憶から、私が消えれば、未桜は、傷ついた出来事も、忘れられるでしょう」
「私のために決めないで」
私は思わず声を荒げた。
「勝手に、私のためだとか言わないで。それは、紗季が楽になりたいだけなんじゃないの」
紗季は一瞬だけ傷ついたような表情を見せたが、それでも頷いた。その頷き方には、反論する気力すら残っていないような、諦めが滲んでいた。
「そうかもしれない。でも、未桜が私を見るたびに苦しむくらいなら、いなくなったほうがいいと思う」
「そんなの……」
私は言葉に詰まった。紗季の顔には、悲壮なほどの決意が浮かんでいた。夕陽の光が、その表情の輪郭を、いっそう際立たせていた。
「未桜を傷つけたのは、事実だから。許してもらおうなんて、思ってない」
その言葉に、私は苛立ちと同時に、何かが引っかかるのを感じた。喉の奥に、ずっと抑え込んできた問いが、せり上がってくる。
「秘密のこと、本当に紗季が話したの」
私は改めてそれを尋ねた。ずっと聞けずにいた問いだった。心臓が、痛いくらいに脈打っている。
紗季は口を開きかけて、そのまま黙り込んだ。唇が、わずかに震えている。
数秒の沈黙が、廊下に重く落ちた。時計の針が動く音さえ、聞こえてきそうなほどの静けさだった。
その沈黙を見て、私は、やはり紗季が話したのだと思った。もし話していないなら、すぐに否定するはずだ。何も言えないということは、それだけで答えのようなものだった。
胸の奥から、これまで抑えていた怒りが噴き出してくるのを感じた。指先が、無意識に鞄の持ち手を強く握りしめていた。私は、鞄からカメラを取り出した。
「未桜……」
「もういい」
私はカメラを紗季へ向けた。手の中の金属が、いつもより冷たく感じられた。ファインダーをのぞくと、紗季の姿だけが黒く塗りつぶされて見えた。廊下の他の部分は、いつも通りの景色のままなのに、紗季のところだけが、墨のような闇に沈んでいる。
紗季は、逃げなかった。その場に立ったまま、まっすぐに私を見ていた。その眼差しには、恐れよりもむしろ確かな覚悟が宿っているように見えた。
私はシャッターへ指をかけた。指先が、わずかに震えていた。
押せば、終わる。紗季との記憶が、少しずつ薄れていく。傷ついた出来事も、いつか思い出せなくなる。それでいい、と思おうとした。頭の中で、そう繰り返し言い聞かせる自分がいた。
だが、ファインダーの向こう、黒く塗りつぶされたはずの紗季の輪郭が、かすかに揺れているのに気づいた。
紗季が、泣いていた。
声を出さず、ただ涙を流しながら、それでも私から目を逸らさない。夕陽の光を受けて、その涙の粒が、橙色に光っているのが見えた。
私は、指を止めた。
「消されたいなら、どうして泣くの?」
私はファインダーから顔を離し、そう尋ねた。声が、自分でも驚くほど掠れていた。
紗季は涙を拭おうともせず、震える声で答えた。
「分からない」
「分からないって」
「自分でも、分からないの。本当に消えてほしいと思ってるのに、涙が止まらない」
その矛盾した言葉が、かえって真実味を帯びて聞こえた。理屈では消えてほしいと思っていても、感情はそれについていけていない。それは私自身が抱えている矛盾と、よく似ていた。頭では紗季を憎みたいと思っているのに、心のどこかで、それを拒む何かがある。今、目の前で泣いている紗季の姿が、その拒みの正体を映し出しているようだった。
私は、カメラをゆっくりと下ろした。手のひらに、重みだけが残る。
シャッターは、押せなかった。
押さなかったのではない。指先に、押すための力が入らなかった。まるで、体そのものが、その選択を拒んでいるようだった。
「未桜……」
紗季が、涙を流しながら小さく私の名前を呼んだ。
「消さないの」
「まだ、決めてない」
私は、正直にそう答えるしかなかった。頭の中では、まだ何も整理できていなかった。紗季を消したいのか、消したくないのか、その両方が、同時に胸の中で渦巻いていた。まるで、二つの潮流が、体の内側でぶつかり合っているような感覚だった。
紗季は少しの間、私を見つめていた。それから、そっと目元を拭い、覚悟を決めたような表情で口を開いた。
「一週間以内に、答えを出してほしい」
「……なんで、期限なんて」
「このままじゃ、未桜もつらいでしょう。私も、つらい」
紗季は、それだけ言うと、背を向けて歩き出した。その足音が、静かな廊下に、ぽつりぽつりと響いていく。私は、その背中を呼び止めることも、追いかけることもできなかった。
廊下に、私一人が残された。窓の外の夕陽は、いつの間にかさらに沈み、あたりは薄暗い橙色に染まっていた。冷たい空気が、じわりと肌に触れる。
私は、手の中のカメラを見つめた。ファインダーの中で見た、紗季の黒く塗りつぶされた姿と、涙を流していた本当の紗季の顔が、重なって思い出された。
消したいと望みながら、涙を流す。それは、紗季の中にある、複雑な感情の表れなのだろう。私自身の中にも、同じような矛盾が渦巻いている。紗季を憎みたい気持ちと、紗季を失いたくない気持ちが、いつまでも同居している。どちらか一方だけを選び取ることが、こんなにも難しいことだとは、これまで思ってもみなかった。
私は、カメラをそっと鞄にしまい、廊下を歩き出した。足取りは重く、いつもより時間がかかるように感じられた。答えを出すまでの時間は、思ったより短いのかもしれない。




