第十七話 消せない怒り
真相を知っても、私の怒りは消えなかった。
紗季が直接、秘密を漏らしたわけではなかったこと。それを知って、少しだけ安堵する自分がいた。だが、いざというときに、紗季が私を守ってくれなかったという事実は、何一つ変わらなかった。頭では整理がつき始めていても、胸の奥の熱は、いっこうに冷めようとしなかった。
教室で顔を合わせても、私は以前と同じように、紗季から目を逸らし続けていた。事実が変わっても、感情はそう簡単には追いついてこなかった。すれ違う瞬間、視線が交わりそうになるたび、私はわずかに顔を背けていた。
一週間以内に答えを出すはずだった。けれど、遥人から真相を聞き、紗季自身の話まで聞いた今、その期限はいつの間にか曖昧なものになっていた。
部室で日向がその話を聞き、少し戸惑った様子を見せた。
「誤解が解けたなら、仲直りできますよね」
日向はそう言いかけて、途中で言葉を止めた。以前、真帆との一件を経験してから、日向は簡単に「話せば分かり合える」とは言わなくなっていた。
「……いや、そういうことじゃない、ですよね」
日向が、自分で言い直すように言った。その言い直しの中に、以前とは違う慎重さのようなものが見えた。
「うん」
私はそれだけ答えた。誤解が解けたからといって、それで全てが元通りになるわけではない。むしろ、真相を知ったことで、怒りの形が変わっただけのようにも思えた。かつては輪郭のはっきりした怒りだったものが、今はもっと複雑に絡み合った、扱いにくい塊になっている気がした。
志緒里先輩が、そっと言葉を添えた。
「真実を知ることと、許すことは、別のことだから」
その言葉は、私の中にすとんと落ちてきた。長い間、頭の中で霧のように漂っていた何かに、初めて輪郭が与えられたような感覚だった。
「先輩は、葵さんのこと、許したんですか」
「許した、っていうのとは、少し違う気がする」
志緒里先輩は、少し考えながら答えた。視線が、一瞬だけ窓の外へ向く。
「葵は、私を裏切ったわけじゃないから、許すも許さないもない。でも、十倉の場合は、違う」
私は頷いた。紗季には、確かに私を守れなかったという事実がある。それを許すかどうかは、別の問題として、私の中に残り続けていた。
☆
その日の帰り道、私は母の働く写真館へ立ち寄った。特に用事があったわけではないが、なんとなく、母の顔が見たくなった。夕暮れの街を歩く足取りが、いつもより少しだけ軽かった。
「あら、未桜。珍しいね」
母は、店の奥から出てきて、驚いた様子で私を迎えた。エプロンの裾に、わずかに現像液のような匂いが染みついている。
「ちょっと、寄りたくなって」
私は、店内の椅子に座らせてもらい、母が仕事の合間に淹れてくれたお茶を飲んだ。写真館の壁には、様々な家族写真や、証明写真の見本が飾られている。誰かの晴れの日の笑顔が、あちこちからこちらを見つめていた。
「お母さんって、昔、親友がいたんだよね」
私は、ふと思い出したように尋ねた。母は、少し驚いた顔をしてから、頷いた。
「いたよ。高校のとき」
「今も、仲がいいの?」
「ううん」
母は、あっさりと首を横に振った。
「絶交したまま」
その答えに、私は思わず母の顔を見つめた。想像していたよりも、ずっとあっさりとした口調だった。
「絶交したのに、今もその人のこと、話せるんだ」
「もう随分昔のことだから」
母は、そう言いながら、レジの奥から一枚の写真を取り出した。色褪せた、若い頃の母と、もう一人の女性が写っている写真だった。二人とも、笑顔でカメラに向かっている。写真の端が、少し丸まっているのが見えた。
「これ……」
「その友達と撮った写真。捨てずに、ずっと持ってる」
私は、その写真をじっと見つめた。若い頃の母の笑顔は、今の落ち着いた表情とは、また違う無邪気さを湛えていた。
「なんで、捨てないの」
私が尋ねると、母は少し考えるような表情を浮かべた。
「今でも、許してないことがあるの。その子とのこと」
母は、穏やかに続けた。
「でも、その人と過ごした時間まで、なかったことにはしたくないから」
「仲直りは……」
「してない。たぶん、これからもしないと思う」
母は、あっさりとそう言った。だが、その口調には、諦めというより、確かな覚悟のようなものが感じられた。
「それでも、過去を残しておくことはできる」
その言葉が、私の中に静かに染み込んでいった。仲直りをすることと、過去を残すことは、別の話なのかもしれない。私はこれまでその二つを、一つのものとして考えていた気がした。胸のどこかで、固く結ばれていた結び目が、少しだけ緩んでいくような感覚があった。
「未桜も、何かあったの」
母が、優しく尋ねてきた。
私は、少し迷ってから、小さく頷いた。
「うん。友達と、うまくいってなくて」
「そう」
母は、それ以上詳しく聞かなかった。
私は少しだけ拍子抜けして、母の顔を見た。
「……聞かないの?」
「何を?」
「誰と何があったとか」
母は急須を置いて、少し考えるように私を見た。
「未桜は、話したい?」
そう聞かれて、私はすぐには答えられなかった。
「今は……あんまり」
「じゃあ、今はそれでいいんじゃない?」
「でも、お母さんなのに?」
自分で口にしてから、変なことを聞いた気がした。
母は少し笑った。
「お母さんだからって、未桜のことを何でも知っていないといけないわけじゃないでしょう」
「そうなの?」
「そうだと思うよ」
母は湯呑みにお茶を注いだ。
「親だから話してほしい、って思うことはある。でも、親だから何でも聞いていい、とは思わない」
私は黙って湯呑みを見つめた。湯気が細く立ち上り、すぐに形を失っていく。
「じゃあ、何も話さなくてもいいの?」
「それも少し違うかな」
母は困ったように笑った。
「未桜が一人では抱えきれないくらい苦しいなら、誰かには話してほしい。私じゃなくてもいいから」
「お母さんじゃなくても?」
「うん。友達でも、先生でも、未桜が話せると思う人でいい」
その答えは、少し意外だった。
「親なのに、そう言うんだ」
「親だから、そう言うの」
母は穏やかに答えた。
「未桜が何でも私に話してくれることより、未桜が自分で『この人になら話せる』って思える相手を持ってるほうが、大事だと思うから」
私は、紗季のことを思い出した。
あの頃の私は、紗季になら話せると思った。
だから、家族のことを打ち明けた。
その選択そのものまで、間違いだったとは思いたくなかった。
「……話したくなったら、話す」
「うん」
「今は、まだ全部は話せないけど」
「それでいいよ」
母は、それ以上何も聞かなかった。
そのことが、思っていた以上にありがたかった。
「写真を残すことは、許すことと同じじゃないよ」
帰り際、母がそう言葉をかけてくれた。
「未桜が、今どんな気持ちでいるのか、私には全部は分からないけど。ただ、写真を捨てるかどうかと、心の中で許せるかどうかは、別のことだと思う」
私はその言葉を胸に、写真館をあとにした。外はすっかり暗くなっていて、街灯の明かりが帰り道をぽつぽつと照らしていた。
☆
その夜、自分の部屋で、私は中学時代のフォトアルバムを取り出した。
これまでにも、紗季を消すか迷うたびに何度か見返してきた。けれど、遥人からあの日の真相を聞いた今、同じ写真が以前と同じように見えるのか、自分でも分からなかった。
紗季と一緒に写っている写真を、一枚ずつ机に並べていく。デスクライトの下で、写真の一枚一枚が、静かに光を受けて浮かび上がった。
楽しかった写真もあれば、見るだけで胸の奥が少し痛む写真もある。修学旅行での失敗写真、誕生日に作ってもらった紙飾りが写った写真。
どれも、確かに自分の過去だった。
私は、その一枚一枚を見つめながら、これまで感じたことのない静けさを覚えていた。紗季を憎む気持ちと、紗季との楽しかった時間を懐かしむ気持ち。その両方が、同じ胸の中に、確かに存在している。以前なら、その矛盾から目を逸らしていた。今は、その両方をただじっと見つめることが、少しだけできるようになっていた。
机の隅に置いてある、あの古いカメラに目をやった。革のケースの傷が、デスクライトの光に照らされて、いつもより深く見える。
これを使えば、この矛盾を簡単に片づけることができるのかもしれない。紗季の姿を写真から消し、記憶からも薄れさせれば、この苦しい感情ごと、なくすことができる。
だが、志緒里先輩と美冬のことを思い出すと、そう簡単には手が伸びなかった。二人の姿が、頭の中で重なり合う。消すことの先に何が待っているのか、私はもう、それを知りすぎていた。
部屋の隅、暗がりの中に、かすかに白いものが見えた気がした。
「消さないことも、一つの選択だ」
フィルの声だった。姿は、はっきりとは見えなかったが、確かにその声は聞こえた。その平坦な響きが、静かな部屋の中に、妙にはっきりと届いた。
「消さないことが、正しいって言いたいの?」
私は、暗がりへ向かって尋ねた。
「正しいかどうかは、私には分からない。ただ、選択肢の一つだと、告げているだけだ」
その声は、いつものように淡々としていた。私は、それ以上何も答えられなかった。答えを与えるのではなく、選択肢だけを差し出すそのやり方が、かえって重く感じられた。
机の上に並べた写真を、一枚ずつアルバムへ戻していく。楽しかった写真も、傷ついた写真も、どちらも同じ場所へしまい込む。指先が、それぞれの写真の表面を、そっとなぞっていった。
消すべきか、残すべきか。私は、まだ、その答えを出せずにいた。
窓の外には、静かな夜が広がっていた。星の見えない曇り空の下、街の灯りだけが、ぼんやりと滲んでいる。だが、私の心の中の答えは、まだどこにも見つかっていなかった。アルバムを閉じたあとも、しばらくの間、私はその表紙を見つめたまま、動くことができなかった。




