第十二話 残したくない自分
あの夜から数日、志緒里先輩はいつもより口数が少なくなっていた。それでも、部室での仕事はきちんとこなし、表面上はいつもの部長らしく振る舞っていた。ただ、時折見せる笑顔に、以前ほどの軽さがないことに、私は気づいていた。まるで、笑顔の裏側に、まだ乾ききっていない何かを抱えているような、そんな危うさだった。
ある日の放課後、志緒里先輩が珍しく自分から言い出した。窓の外の光が、机の上に長い影を落としている時間だった。
「葵と、ちゃんと話してくる」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫かどうかは、話してみないと分からない」
志緒里先輩は、少し硬い表情のまま、部室を出ていった。その背中には、これまでにない緊張と、それでも前へ進もうとする覚悟のようなものが同居していた。私と日向は、心配しながらもその後ろ姿を見送ることしかできなかった。扉が閉まる音のあと、部室にはしばらくの間、落ち着かない沈黙が続いた。
☆
志緒里先輩と葵が話したのは、学校から少し歩いたところにある喫茶店だったらしい。
翌日の放課後、志緒里先輩は部室の椅子に腰を下ろすと、しばらく何も言わず、机の上の自分のカメラを見つめていた。
「……ちゃんと、話してきた」
その声には疲れが滲んでいた。それでも、昨日まであった張り詰めた硬さは、少しだけ薄れているように見えた。
「葵、覚えてないと思ってた」
「何をですか?」
「私が保健室にいたこと。教室に行けなかったこと。朝、学校まで来ても、校門の前で動けなくなったこと」
志緒里先輩は、そこで小さく息を吐いた。
「だから最初に言ったの。『あの頃のこと、今の後輩には話さないで』って」
「野々村さんは?」
「分かった、って。でもそのあと、『どうしてそんなに嫌なの』って聞かれた」
志緒里先輩は、少し困ったように笑った。
「私、言ったんだ。『弱かった自分を知られたくないから』って」
その言葉を口にするだけでも、まだ痛むのだろう。机の上に置かれた指先が、わずかに縮こまった。
「そしたら葵、すごく変な顔したの」
「変な顔?」
「本当に意味が分からない、って顔」
志緒里先輩は、そのときのやり取りを思い出すように、ゆっくりと言葉を続けた。
「『私、志緒里のこと、弱かったなんて思ったことないよ』って言われた」
私は黙って続きを待った。
「最初は、慰められてるんだと思った。だから、『そういう綺麗なこと言わなくていい』って返した」
志緒里先輩の口元に、苦い笑みが浮かぶ。
「そしたら葵が、『綺麗な話にするつもりないよ』って」
その言葉だけ、志緒里先輩は葵の口調をなぞるように言った。
「『学校に来られなくて苦しかったのも知ってるし、保健室で泣いてたのも知ってる。でも、だからって弱かったことにはならないでしょう』って」
志緒里先輩は目を伏せた。
「私、腹が立った」
「どうしてですか?」
「だって、私はずっと、あの頃の自分を嫌いだったから」
いつもの先輩なら、そんな言葉を口にしたあと、冗談の一つでも挟んだかもしれない。
けれど今は、何も取り繕わなかった。
「朝になると制服には着替えるの。でも、玄関から出られない。母親に『今日はどうするの』って聞かれるだけで泣きそうになる。学校まで行けた日も、教室の前まで行くと足が動かなくなる。それで結局、保健室に逃げてた」
志緒里先輩は、自分の手を見つめながら言った。
「そんな自分の、どこが弱くないのって思った」
部室の中が静かになった。
窓の外では、運動部の掛け声が聞こえている。いつもの放課後と何も変わらない音なのに、今はひどく遠く感じられた。
「それを、葵にも言ったんですか」
「うん」
志緒里先輩は頷いた。
「『私は行きたくて行かなかったんじゃない。行きたかったのに、行けなかったの。自分を守ったみたいに言わないで』って」
私は息を呑んだ。
志緒里先輩が誰かにそこまで感情をぶつける姿は、想像しづらかった。
「そしたら、葵は?」
「しばらく黙ってた」
志緒里先輩は、あの日の沈黙まで思い出しているようだった。
「それから、『ごめん』って言った」
「謝ったんですか」
「うん。『志緒里が自分で選んだみたいな言い方になったなら、ごめん』って」
そこで志緒里先輩は、一度言葉を切った。
「でも、そのあとでね」
声が、少しだけ柔らかくなった。
「『行きたくても行けなかったなら、なおさら、無理に教室へ行くことだけが正しかったとは思わない』って言われた」
私は、その言葉の意味を考えた。
「教室に行けない日は保健室にいた。それも無理な日は、学校を休んだ。私はずっと、それを逃げたんだと思ってた」
「違うんですか?」
日向が尋ねる。
志緒里先輩は、すぐには答えなかった。
「まだ、分からない」
その答えは、とても先輩らしいと思った。
無理に綺麗な結論を出そうとしない。分からないものを、分からないまま口にする。
「学校へ行けていたら、それに越したことはなかったのかもしれない。休んでる間も苦しかったし、遅れた勉強を取り戻すのも大変だった。だから、あの時間が必要だったとか、あれでよかったとか、今でも簡単には思えない」
志緒里先輩は、そこで小さく息をついた。
「でも葵に、『あの頃の志緒里が休んだから、今の志緒里がいるのかもしれないでしょう』って言われた」
「それで、先輩は?」
私は続きを促した。
「『そんな綺麗な話じゃない』って言った」
志緒里先輩は小さく笑った。
「そしたら葵も、『うん。綺麗な話じゃなくていいんじゃない』って」
私は思わず志緒里先輩を見た。
「『つらかったなら、つらかったままでいい。でも、つらかった頃の志緒里まで、いなかったことにしなくていいでしょう』って」
志緒里先輩は黙った。
夕暮れの光が窓から差し込み、その横顔を淡い橙色に染めている。
「それを聞いたとき、やっと分かった気がした」
「何がですか」
「私が葵を消したかった理由」
志緒里先輩は、机の上の古いカメラへ目を向けた。
「葵が嫌いだったわけじゃなかった。むしろ、感謝してた」
その声には、もう以前のような怯えはなかった。
「私が消したかったのは、葵の中に残ってる、あの頃の私だったんだと思う」
学校へ行けなかった自分。
教室に入れなかった自分。
保健室から外を眺めていた自分。
志緒里先輩は、ずっとその姿を「弱かった自分」と呼んできた。
「でも、葵を消したって、その私は消えない」
志緒里先輩は穏やかに言った。
「だったら、いつか、あれも私だったって思えるようになりたい」
そう言ってから、先輩は少し照れくさそうに笑った。
「まあ、今すぐは無理だけどね」
その笑顔は、これまでの何でもできる部長の笑顔とは少し違っていた。
もっと不器用で、もっと頼りなくて。
でも私は、その笑顔を弱いとは思わなかった。
志緒里先輩は言葉を選びながら続けた。
「あの頃、私が撮った写真、今も大事に持ってるって言ってた」
「持ってるって……」
「スマホに、ずっと残してあるんだって。運動部の練習を撮った写真とか、雲の写真とか」
志緒里先輩の声には、これまでにない柔らかさがあった。まるで、長い間張り詰めていた糸が、少しだけ緩んだような響きだった。
「これから少しずつでいいから、葵とは、無理に過去の話をしないっていう距離で、やり直してみようと思う」
すべてを一度に解決するのではなく、今の自分にできる距離から、もう一度関係を作っていく。志緒里先輩は、そう決めたのだ。
日向は、真剣な表情でそれを聞いていた。
「先輩が写真を始めた理由、いいですね」
それだけだった。同情も、大げさな驚きもない。ただ、素直な感想だけがそこにあった。その簡潔さが、かえって温かかった。
その反応に、志緒里先輩は少し肩の力を抜いたように見えた。
「そんな反応で、いいの?」
「駄目ですか?」
「ううん、いい。すごく、いい」
志緒里先輩は、小さく笑った。久しぶりに見る、自然な笑顔だった。その笑顔には、これまでのどこか作り物めいた明るさとは違う、ふっと肩の力の抜けたような柔らかさがあった。
私は、その様子を見ながら、志緒里先輩の弱さを知っても、自分の中の尊敬が少しも消えていないことに気づいた。完璧に見えていた先輩の輪郭が、少しだけ人間らしく、柔らかくなったような気がした。
一方で、私は自分自身の秘密が知られたときのことを思い出していた。あのとき、周囲は志緒里先輩のときの葵のようには、受け止めてくれなかった。噂は広がり、教室の空気は変わり、私は孤立した。あの日の、誰とも目が合わない教室の空気を、今もはっきりと思い出せる。
紗季が守ってくれなかったという怒りは、まだ消えていない。志緒里先輩と葵の間にあった優しさと、自分と紗季の間に起きたこととの違いが、私の中でより鮮明になっていくようだった。同じように過去と向き合う機会を得ながら、片方には救いがあり、片方にはまだない。その差が、じくじくと胸の奥を刺していた。
☆
その日の終わり、志緒里先輩はカメラを私へ差し出した。夕暮れの光が、机の上のカメラを橙色に染めていた。
「もう、これは使わない」
「先輩……」
「使わないって決めた。だから、十倉が持ってて」
私は、カメラを受け取りながら、少し戸惑った。手のひらに伝わる重みが、いつもより増しているような気がした。
「でも、これで、いいんですか」
「いいの。葵のことは、消さずに向き合うって決めたから」
志緒里先輩は、そう言ってから、少し表情を曇らせた。
「ただし」
「はい」
「十倉が紗季さんを消すことを、止める権利は、私にはないと思う」
その言葉は、思ったより重く響いた。胸の奥に、鈍い痛みが広がる。
「先輩は、止めてほしいって思ってるんですか」
「分からない。ただ、私が葵を消さなかったからって、十倉も同じ選択をするべきだとは、言えない気がして」
志緒里先輩は、穏やかに続けた。
「十倉の気持ちは、十倉にしか分からないから」
私は、そのカメラの重みを、手のひらで確かめるように握りしめた。志緒里先輩の選択は、志緒里先輩自身のものだ。誰かの答えをなぞるだけでは、自分の答えにはならない。




