第十一話 弱かった自分を消したい
合同写真展の作品搬入の日、野々村葵が学校へやってきた。
他校の制服を着た葵は、作品の入った大きなケースを抱えていた。肩のあたりで跳ねる短めの髪と、よく動く大きな目が印象的な子だった。
「小鳥遊さん、久しぶり!」
その声を聞いた瞬間、志緒里先輩は一瞬だけ体を強張らせたが、すぐにいつもの調子を取り繕った。その切り替えの速さに、私はかえって不安を覚えた。
「久しぶり。元気そうだね」
「うん! そっちも変わってないね。写真部部長なんだって? すごいじゃん」
葵の口調には、含みのようなものは感じられなかった。中学時代のことをほのめかす様子もなく、ただ純粋に再会を喜んでいるように見える。その屈託のなさが、かえって痛々しく感じられた。
それでも、志緒里先輩はそそくさとその場を離れた。私は廊下の角で志緒里先輩とすれ違った。
「先輩」
「……何でもない」
志緒里先輩はそう言って、足早に去っていった。その背中には、いつもの余裕がまるで感じられなかった。肩の線が、いつもより固く強張っている。私はその後ろ姿をしばらく見送ることしかできなかった。
☆
その日の昼休み、私は偶然、葵と話す機会があった。図書室で本を探していたとき、隣の棚から声をかけられたのだ。窓から差し込む午後の光が、書棚の間に細く伸びていた。
「あ、十倉さん、だっけ? 写真部の」
「はい」
「小鳥遊さんと同じ部活なんだね」
葵は嬉しそうに言った。私は、少し迷いながらも、志緒里先輩のことを聞いてみることにした。指先が、本の背表紙をなぞるように動く。
「野々村さんは、志緒里先輩の中学時代を知ってるんですか?」
「うん、よく知ってるよ」
葵は懐かしそうな表情を浮かべた。その目には、悪意や皮肉のようなものは一切見当たらなかった。
「小鳥遊さん、中学のとき、教室に来れない時期があってね」
「知ってます。先輩から少し聞きました」
「そっか」
葵は、少し驚いた様子だったが、続けて話してくれた。
「あの頃、小鳥遊さん、保健室の窓から、いつも校庭を撮ってたんだよ。古いコンパクトカメラで」
「校庭を?」
「うん。運動部の練習とか、雲の形とか、木の影とか。教室には入れないのに、写真だけは、すごく生き生きしてて」
葵は懐かしむように、目を細めた。その表情には、当時の情景を今も鮮明に覚えているような、確かな温度があった。
「私、その写真見て、本当にすごいと思って。だから、写真部に入ってみたらって、勧めたの」
私は、その話に驚いた。志緒里先輩が写真を始めたきっかけが、まさか葵にあったとは、思ってもいなかった。頭の中で、これまで知っていた志緒里先輩の姿と、今聞いた話とが、ゆっくりと重なり合っていくのを感じた。
「小鳥遊さんにとって、私、あんまり会いたくない相手なのかもね」
葵は少し寂しそうに笑った。その笑みの端に、諦めにも似た寂しさが滲んでいた。
「弱かった頃の自分を知ってる人、って、そういうものなのかもしれない」
その言葉に、私は何も言い返せなかった。図書室の静けさの中で、その一言だけが、やけに重く響いていた。
☆
放課後、私は部室で志緒里先輩に、葵から聞いた話を伝えることにした。部室の窓の外は、すでに夕暮れの色に染まり始めていた。
「先輩が写真を始めたきっかけって、野々村さんだったんですね」
志緒里先輩は、机の上の資料に目を落としたまま、しばらく答えなかった。指先が、資料の端を無意識になぞっている。
「……葵が、そう言ったの」
「はい。先輩が撮った写真を褒めて、写真部に入るよう勧めたって」
志緒里先輩は、小さく息を吐いた。
「私も、覚えてる」
その声には、これまで聞いたことのない、脆さのようなものが滲んでいた。
「あの頃、教室に行けなくて、毎日、保健室の窓から外を見てた。何もすることがなくて、暇つぶしにカメラを構えてただけだったの」
志緒里先輩は、少しずつ言葉を紡いだ。まるで、長い間、鍵をかけていた引き出しを、恐る恐る開けていくような話し方だった。
「葵が、その写真を見て、『すごくいい』って言ってくれた。あんな暗い時期に、誰かにそう言われたのが、本当に嬉しかった」
「じゃあ……」
「感謝してる。今の私があるのは、あの言葉があったからだって、分かってる」
志緒里先輩は、そこで一度言葉を切った。窓の外の風の音が、しばらくの沈黙を埋めていた。
「でも、葵に会うと、あの頃の自分に戻った気がして、怖いの」
その矛盾した気持ちを、志緒里先輩は吐露した。感謝しているからこそ、会うのが怖い。過去を知る人が、同時に自分を今の場所へ導いてくれた人でもある。
私は、その複雑さに、何と言葉をかければいいのか分からなかった。感謝と恐れが、こんなにも近い場所で同居しうるのだということを、私はこのとき初めて、実感を伴って理解した気がした。
☆
その日、私は部室の鍵を職員室に返そうとして、いつもの時間より遅く学校へ戻った。夜の廊下は、昼間とはまるで違う静けさに包まれていた。部室の扉は、施錠されているはずだった。
だが、扉のわずかな隙間から、灯りが漏れているのに気づいた。
私は嫌な予感を覚えながら、そっと扉を開けた。中には誰もいなかった。ただ、カメラケースが空になっているのが目に入った。心臓が、一気に速度を上げるのが分かった。
慌てて部室を飛び出し、校内を探した。廊下の奥、掲示板の前に、志緒里先輩の姿があった。
その先には、葵がいた。合同写真展の片付けか確認作業で残っていたのだろう、掲示板の前で展示資料を見ていた。志緒里先輩には気づいていない様子だった。廊下の照明が、その光景を淡く照らしている。
志緒里先輩は、カメラを葵へ向けていた。
「先輩!」
私は思わず声を上げた。志緒里先輩の肩がびくりと震えたが、カメラを下ろそうとはしなかった。
「来ないで」
志緒里先輩の声は震えていた。
「知られたくないの。弱かった頃の私を、誰にも知られたくない」
「先輩、それは……」
「分かってる! こんなことしても、何にもならないって、分かってるよ!」
志緒里先輩は、声を荒げた。ファインダーの中では、葵の姿が黒く塗りつぶされて見えているはずだった。その声には、これまで積み重ねてきた冷静さが、音を立てて崩れていくような響きがあった。
「でも、葵がいる限り、私はずっと、あの弱かった自分から逃げられない気がするの」
その叫びは、悲鳴に近かった。私は志緒里先輩の指がシャッターにかかっているのを見て、とっさに駆け寄った。廊下の床を踏む足音が、やけに大きく響いた。
「知っている人を消しても、先輩が苦しかったことはなくならない」
私は、初めて志緒里先輩に強く言い返していた。声が震えていたが、止まらなかった。喉の奥から、これまで溜め込んでいた思いが、堰を切ったように溢れ出てくる。
「葵さんを消したって、先輩が保健室で過ごした時間は、消えないんです。写真を撮り始めた理由も、なくならない」
「うるさい……」
「消したいのは、葵さんじゃなくて、先輩自身の過去なんですよね」
志緒里先輩の手が、震え始めた。カメラを支える指先が、白く強張っている。
「でも、過去を消すことなんて、誰にもできないんです」
私は志緒里先輩の肩に手を置いた。その肩は、思ったよりずっと小さく、震えていた。志緒里先輩は、その手を振り払わなかった。
カメラを持つ手が、ゆっくりと下がっていく。シャッターは、押されなかった。
志緒里先輩は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。廊下の床に膝をつき、うずくまるようにして肩を丸める。
「……ごめん」
小さな声で、そう呟いた。
「弱いところ、見せたくなかったのに」
志緒里先輩は両手で顔を覆い、泣き始めた。今まで見たことのない、部長らしくない、ひどく無防備な姿だった。私は何も言わずに、その隣に座った。冷たい廊下の床の感触が、じわりと伝わってくる。
葵は遠くの掲示板の前で、まだこちらに気づいていない様子だった。私はそれでよかったのだと思った。少なくとも今は、志緒里先輩の弱さを誰にも知られる必要はない。
廊下の窓の外には、夜の校庭が広がっていた。街灯の淡い光が校庭を照らしている。志緒里先輩の泣く声だけが、静かな廊下に響いていた。その声が少しずつ小さくなっていくのを、私はただ黙って隣で聞いていた。




