第十話 写真部部長の過去
十一月に入ってから、私は志緒里先輩のことが少し気になっていた。
きっかけは、卒業アルバムに載せる写真部のページだった。
「先輩、今度は撮られる側ですよ」
日向がカメラを構えながら言った。
「私?」
「部長なのに、先輩がまともに写ってる写真、一枚もないじゃないですか」
「部活写真で写ってるから」
「部室前とかグラウンドとかで三年生だけで写るやつですね。それだけだと勿体ないですよ。先輩が写真部で活動してる写真、一枚くらいはないと」
「別にいいでしょう」
「よくないです。部長がいない写真部って何ですか」
志緒里先輩は苦笑した。
「じゃあ、暗室とか機材とか撮っておけば?」
「そういう問題じゃないです」
日向がレンズを向ける。
その瞬間、志緒里先輩の表情がわずかに強張った。
「ちょっと待って」
志緒里先輩は、さりげなくカメラの前から外れた。
「今日はいいよ。ほかの写真を先に撮ろう」
「またですか?」
「またって何よ」
「この前も、自分が写ってる写真、外したじゃないですか」
日向は何気なく言った。
けれど志緒里先輩は、一瞬だけ黙った。
日向はその沈黙を深く気にした様子もなく、今度は別の話題を口にした。
「そういえば先輩、卒業したらどうするんですか?」
「さあ、どうしましょうね。写真の道に進むかもしれないし、全然違うことをするかもしれないし」
「はぐらかしてません?」
「はぐらかしてないよ、本当に決めてないだけ」
その受け答えも、いつもより少し早口だった。言葉と言葉の間の呼吸が、心なしか浅い。私はその違和感を覚えながらも、深くは聞けずにいた。触れてはいけない何かが、その早口の奥に潜んでいるような気がしていたからだ。
☆
十一月のある日、写真部に、近隣校との合同写真展についての案内が届いた。
志緒里先輩が参加者名簿へ目を通した瞬間、その手が止まった。
「……野々村」
小さく、そう呟いた。
「知り合いですか?」
日向が尋ねると、志緒里先輩は一覧表をそっと机へ置いた。その手つきはとても慎重で、まるで壊れ物を扱うようだった。
「中学の同級生」
それだけ言って、志緒里先輩は窓の外へ視線を逸らした。その横顔には、これまで見たことのない硬さがあった。私はその横顔から、何かを聞いてはいけない気配を感じ取った。
☆
数日後、私は志緒里先輩から少しだけ、その理由を聞くことになった。放課後、部室に二人きりになったときのことだった。窓の外は薄暗く沈み始め、部室の中には現像液の匂いだけが、いつもより濃く漂っていた。
「野々村葵って子が、私の中学時代を知ってる」
「中学時代って?」
「私、中学のとき、しばらく学校に行けなかった時期があって」
志緒里先輩は、机の上のカメラをぼんやりと見つめながら続けた。その視線は、どこか遠くを見ているようでもあった。
「教室に入れなくて、ずっと保健室にいた。今の私を知ってる人には、想像もつかないかもしれないけど」
私は、驚きを顔に出さないよう努めた。今の志緒里先輩からは、そんな過去があったとは、まったく想像がつかない。理性的で、頼りになる先輩。写真部の中心にいる存在。その像と、保健室で一人でいたという過去とが、うまく結びつかなかった。頭の中で、これまでの志緒里先輩の姿と、今語られている過去とが、なかなか一つに重ならなかった。
「葵は、その頃の私を知ってる」
志緒里先輩は、穏やかに続けた。
「今の後輩たちには、『何でもできる写真部部長』として見られたいの。過去のことなんて、知られたくない」
「知られたら、何か困ることがあるんですか」
私が尋ねると、志緒里先輩は少し考えてから、首を横に振った。
「困る、というより……嫌なの。今の私を、あの頃の私と結びつけて見られるのが」
「でも、葵さんが何かするとは限らないですよね」
志緒里先輩は、私の言葉に少し苦い笑みを浮かべた。その笑みには、これまでにない脆さが滲んでいた。
「十倉、それは違う」
「え?」
「何かされるかどうかじゃないの。知られていること自体が、嫌なんだよ」
その言葉は、思ったより強い響きを持っていた。声のトーンが、一段深く沈んでいる。私は、それ以上何も言えなくなった。
☆
その日の夜、私は帰宅後もずっと、志緒里先輩の言葉が頭から離れなかった。「知られていること自体が嫌」というその感覚は、私にも少し覚えがあった。
私の秘密が広まったときも、周囲に知られたこと自体が、何よりも耐えがたかった。誰かが何かをしたわけではなくても、知られているという事実だけで、教室にいることが苦しくなった。あの息苦しさを、今、志緒里先輩も抱えているのかもしれない。そう思うと、胸の奥がじわりと重くなった。
翌日、部室に着くと、机の上に、あの古いカメラが置かれていた。私が鞄にしまっておいたはずのものだった。心臓が、一瞬だけ冷たく縮こまる。
「志緒里先輩……?」
私は嫌な予感がして、部室の中を見回した。志緒里先輩は机の脇に立って、カメラを見つめていた。その視線は、いつもより深く沈んでいた。
「勝手に持ち出して、ごめん」
「これ、どうするつもりですか」
志緒里先輩は答えなかった。代わりに、鞄から一枚の写真を取り出した。中学時代の集合写真だった。その中に、葵と思われる生徒の姿が写っている。
「まさか……」
「葵を消せば、私の過去も消せるんじゃないかって、考えてしまって」
志緒里先輩は、いつもの落ち着いた口調を保とうとしていたが、声にわずかな震えが混じっていた。その震えが、これまで見せてきた志緒里先輩の姿とは、まるで違う人のように感じられた。
そのとき、机の端にフィルの姿が現れた。志緒里先輩は、それを見ても驚いた様子はなかった。すでに何度か、姿を見ていたのかもしれない。灰白色の羽根が、部室の薄暗い光の中で存在感を放っていた。
「フィル、あなたにも見えてたの?」
私が尋ねると、フィルは私のほうを一瞥してから、志緒里先輩へ視線を戻した。
「本気で願う者にしか、私は現れない」
その言葉が、志緒里先輩の願いの本気さを示していた。その静けさが、かえって恐ろしく感じられた。
「先輩、駄目です」
私はカメラへ手を伸ばした。指先が、震えているのが自分でも分かった。
「安全に管理するだけって、言ってたじゃないですか」
「そのつもりだった」
志緒里先輩は、カメラを引き寄せながら答えた。
「でも、実際に持ってみたら……分かった。これは、使いたい人が使うものなんだって。管理する側でいられるほど、私は冷静じゃなかった」
その正直さが、かえって私を不安にさせた。理性的な志緒里先輩が、自分の弱さをここまではっきりと認めていることが、これまでの信頼をどこかで揺さぶるような感覚だった。
「渡してください」
私は強い口調で言った。志緒里先輩は、しばらく黙ってカメラを見つめていたが、やがて小さく苦笑を浮かべた。その笑みには、諦めとも開き直りともつかない色があった。
「美冬には、使わせたのに」
その言葉に、私は言葉を詰まらせた。
「私には、駄目なの?」
「それは……」
私は答えられなかった。美冬のときは、本人の決意を尊重した。だが、志緒里先輩の場合、なぜためらうのか、自分でもうまく説明できなかった。頭の中で、二つの出来事を並べてみても、境界線がうまく引けなかった。
「先輩を、信用できないわけじゃ……」
「じゃあ、何」
志緒里先輩の声には、いつもの余裕がなかった。刃のように鋭く、それでいてどこか痛みを孕んだ声だった。
「私たちは、誰の願いなら正しくて、誰の願いなら間違ってるって、決められるの?」
その問いに、私は何も答えられなかった。美冬のときは、深く考えずに受け入れてしまった。だが志緒里先輩の願いには、なぜか強い抵抗を覚えている。その違いを、自分でも整理できていなかった。胸の奥に、答えの出ない問いが重く沈んでいくのが分かった。
「答えられないなら、口出ししないで」
志緒里先輩がカメラを下ろした瞬間、フィルの尾羽の黒が、わずかに広がったように見えた。
シャッターは押されていない。それなのに。
「今、何か……」
私が尋ねると、フィルは答えなかった。
志緒里先輩はカメラを持ったまま、部室の奥へ入っていった。その足取りは、いつもの颯爽とした歩き方とは違い、どこか引きずるような重さがあった。
私はその背中を見ながら、動けずにいた。フィルは何も言わずに、私と志緒里先輩の間で、ただ静かにその様子を見ていた。
☆
翌日、日向にそのことを話すと、日向も表情を曇らせた。
「志緒里先輩が、そんなこと……」
「まだ使ってはいない、と思う。でも」
私は、昨日のやり取りを思い出しながら言った。
「先輩は、渡そうとしなかった」
日向は、しばらく考え込んだあと、ぽつりと言った。
「私たち、志緒里先輩のこと、何でもできる先輩だって思いすぎてたのかもしれないですね」
その言葉に、私は返す言葉を持たなかった。
写真部の中に、これまでになかった緊張が生まれていた。誰の願いを認め、誰の願いを止めるべきなのか。私自身、その基準をまだ何一つ持てていなかった。
部室の隅、暗室へ続く扉は、いつもより固く閉ざされているように見えた。扉の隙間から漏れる光もなく、ただ沈黙だけが、そこに満ちていた。中で、志緒里先輩が何をしているのか、私には分からなかった。




