祖母の夢
自治会の名簿作りは、思ったよりもすぐに終わった。
元のデータに名前を足し、電話番号を直し、印刷する。
会社で毎日やっていた作業に比べれば、難しいことは何もない。
けれど、印刷された紙を手にしたお婆さんは、何度も頭を下げた。
「ありがとうねぇ。
トキさんがおらんと、ほんと困っちょったんよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなった。
会社では、誰でもできる作業だった。
けれどここでは、誰かを助ける作業になった。
「はい。他にも困ったことがあったら遠慮なく言ってください。
しばらくはいますので、助けになれると思います」
「ありがとうねぇ。頼りにしちょるけぇ」
頼られて悪い気はしなかった。
お婆さんは何度も頭を下げ、印刷された名簿を大事そうに抱えて帰っていった。
玄関の引き戸が閉まる。
その音を聞いてから、私はもう一度、祖母の寝室へ戻った。
「柚葉ちゃん。何か気になることでもありました?」
凪沙さんが、後ろから覗き込むように言った。
「……うん。少しね」
電源をつけたままのパソコン。
そのデスクトップの右端に置かれた画像ファイル。
『ラベル案』
そう書かれたアイコンが、さっきからずっと気になっていた。
私はマウスに手を伸ばし、そのファイルをダブルクリックした。
画面に表示されたのは、ジャム瓶に貼るためのラベルだった。
中央には、子供のころの私が描いた柑橘の絵。
少し歪んだ丸い実と、濃い緑の葉。
その横に、不器用だけれど丁寧な文字で、
『島のみかんジャム』
と入っている。
余白の取り方はぎこちない。
色も少し古い。
文字の位置も、どこか不安定だった。
けれど、その画面からは、誰かに届けたいという気持ちだけが、まっすぐ伝わってきた。
「やっぱり……私の絵だ」
声が、小さく震えた。
「柚葉ちゃんの?」
「うん。小学生のころに描いた絵」
輪郭もおぼつかず、色も単色。
とても他人に見せられるような絵ではなかった。
けれど、覚えている。
確か、お婆ちゃんに頼まれて描いた絵だった。
みかん、レモン、夏みかん。
四季折々の柑橘を、コピー用紙にクレヨンで描いた。
それをお婆ちゃんは、上手い上手いと褒めてくれた。
私はそれに調子づいて、中学生に上がるころには美術部に入った。
下手でも、何かを描くのは楽しいと思えた。
そして何より――。
私が商品デザインの仕事についた根っこには、たぶんこの記憶があったのだと思う。
私自身は、すっかり忘れていたのに。
「お婆ちゃん、これを残してたんだ……」
ラベル案は一枚だけではなかった。
同じフォルダの中には、似たような画像がいくつも並んでいた。
『みかんジャム』
『レモンシロップ』
『夏みかんのマーマレード』
どれも完成品とは言いがたい。
文字は少しずれているし、配色も古い。
画像の切り抜きも、ところどころ粗かった。
けれど、途中で投げ出したものには見えなかった。
何度も直して。
何度も保存して。
少しずつ形にしようとした跡があった。
「これ、ジャムのラベルですよね」
凪沙さんが、画面を見ながらぽつりと言った。
「知ってるの?」
「全部は知りません。
でも、トキさんがジャムを作ろうとしていたのは知っています」
「ジャム……」
なんのことかわからなかった。
凪沙さんは少し考えるように首を傾げた。
口の中で、飴玉がからんと鳴る。
「そういえば、レシピは紙に書いていた気がします」
「紙?」
「はい。台所で、よくノートに書いてました。
砂糖何グラムとか、皮を何分煮るとか。
私、味見係だったので」
「味見係……?」
「大事な役目です」
凪沙さんは真顔で言った。
確かに、この人にとっては大事なのだろう。
食べ物の話になると、妙に説得力がある。
「どこにあるか、分かりますか?」
「たぶん、台所か、押し入れか……。
トキさん、日記とかメモとか、捨てられない人でしたから」
私はパソコンの画面をもう一度見た。
ラベル案。
昔の私の絵。
ジャムのレシピ。
別々だったものが、少しずつ一つの線で繋がっていく気がした。
「探してみてもいいかな」
「もちろん。
トキさんなら、見つけてほしいと思います」
私たちは祖母の部屋を出て、台所へ向かった。
食器棚の下。
古い裁縫箱の横。
新聞紙で包まれた空き瓶の束。
賞味期限の切れた砂糖の袋。
使い込まれた鍋。
祖母の暮らしの跡が、家のあちこちに残っている。
「お婆ちゃん、几帳面だったんだね」
「几帳面でしたよ。
でも、しまった場所を忘れることもありました」
「それは几帳面なの?」
「几帳面な迷子です」
「また変な言葉を」
凪沙さんは、飴玉をころがしながら少しだけ笑った。
私は食器棚の奥にあった古い缶を引っ張り出した。
昔のお菓子の缶だった。
蓋には少し錆が浮いている。
「これ……」
蓋を開けると、中には輪ゴムでまとめられたノートが何冊も入っていた。
日記。
家計簿。
畑の記録。
自治会のメモ。
そして、その中に一冊だけ、表紙に小さくこう書かれたノートがあった。
『島みかんのジャム 試作』
私は思わず息を呑んだ。
「……あった」
「それです」
凪沙さんの声が、いつもより少し小さかった。
私は、そっと表紙を開いた。
中には、細かい字がびっしりと並んでいた。
みかんの皮。
実の重さ。
砂糖の量。
煮る時間。
苦みの抜き方。
瓶の煮沸時間。
ところどころに、赤いペンで丸や線が引いてある。
『甘すぎる。島の味を残す』
『皮の苦み、少し残す』
『試作三号、凪沙ちゃん好きと言う』
『他の果実と混ぜてみる』
『柚葉の絵のラベルに合うものにしたい』
その一文を見た瞬間、息が止まった。
柚葉の絵。
お婆ちゃんは、私の絵をただ残していたわけではなかった。
何かを始めるために、使おうとしていた。
「……私、こんな絵を描いたことも忘れてた」
声に出すと、胸の奥がきゅっと痛んだ。
私は忘れていた。
この島のことも。
祖母のことも。
自分がなぜ、ものを描くのが好きになったのかも。
なのにお婆ちゃんは、覚えていた。
拙い柑橘の絵を。
子供だった私が、得意げに見せたあの絵を。
ずっと残していた。
「凪沙さん、このジャム、食べたことあるんだよね」
「はい。何回も」
凪沙さんは、少し照れたように頬をかいた。
「トキさん、いつも『まだ売り物にはならん』って言ってましたけど。
でも、私は好きでした」
「どんな味だった?」
「ちょっと苦かったです」
「苦い?」
「はい。でも、嫌な苦さじゃなくて。
甘いだけじゃなくて、皮の味がちゃんと残っている感じで」
凪沙さんは目を細め、記憶の中の味を探すように言った。
「トキさんは言ってました。
できるだけ島の味を残したいって」
「島の味?」
「要は果実の味ですね。
できるだけ低糖度で素材の味が残るように、砂糖の量には気を使っていたみたいです」
その言葉を聞いた瞬間、ノートの文字が急に温度を持った気がした。
甘すぎる。島の味が消える。
皮の苦み、少し残す。
そこにあったのは、ただのレシピではなかった。
祖母が、何を残したかったのか。
何を誰かに届けたかったのか。
その手がかりだった。
「昔トキさん、道の駅でジャムを売ろうとしていたんです」
凪沙さんが静かに言った。
「出荷できない果物に、少しでも価値を持たせたいって。
それから、島に来てくれた人に、この場所の味を持って帰ってほしいって」
昨日、タヌキが食べようとしていたみかんを思い出す。
畑の端に寄せられていた、落ちた実。
出荷できないだけで、腐っていたわけではなかった。
適切に加工して、瓶に詰めて、ラベルを貼ることができれば。
それは、ただ捨てられるものではなくなる。
「なんで、できなかったのかな?」
「販売するためには、家の台所じゃなくて、ちゃんとした加工場が必要だったみたいです。
それで地域の人たちを巻き込んでやろうとしたものの、なかなか進まなかったみたいで」
「そうなんですか?」
「やりたくないというより、余裕がなかったんだと思います。
畑も、家のこともありますし、新しいことを始めるには、時間もお金も気力も要りますから」
そういうものなのだろう。
祖母の夢は、そこで一度止まってしまった。
けれど、ラベル案は消されずに残っていた。
レシピも捨てられずに残っていた。
パソコンの中には、私の絵を使ったラベル。
缶の中には、何度も試作されたジャムの記録。
別々の場所に残されていたものが、今、私の前で一つに繋がっている。
「お婆ちゃん、本気だったんだね」
凪沙さんは頷いた。
「本気でしたよ。
私、たくさん食べましたから」
「そこなんだ……」
「味見係ですから」
そう言って、凪沙さんは少しだけ笑った。
けれど、その笑い方はいつもより静かだった。
私はもう一度、ノートに目を落とした。
『柚葉の絵のラベルに合う色にしたい』
その一文から、目が離せなかった。
私がこの島を忘れていた間も。
お婆ちゃんは、私の絵を覚えていた。
ただ残していただけではない。
自分の夢の真ん中に置いていた。
胸の奥が、痛いような、温かいような、不思議な感覚でいっぱいになる。
「……お婆ちゃん」
画面の中のラベルは、何も答えなかった。
ノートの中のレシピも、ただ静かにそこにあるだけだった。
けれど、その沈黙は、なぜか私を責めているようには見えなかった。
まるで、続きを待っているみたいだった。
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