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島民とタヌキ

「おはようございます、柚葉ちゃん」

「おはようございます、凪沙さん」


私はホースの水を止め、軽トラから降りてきた凪沙さんに挨拶をした。


いつものTシャツにオーバーオール。

首にはタオルをかけている。

その格好は、すっかり彼女の制服みたいに見えた。


からころ、と小さな音がした。

凪沙さんの頬が、内側から少し動いている。


「飴、食べます?」

「いらないですけど……ずっと食べてますね、飴玉」

「常備していますからね」


凪沙さんは当然みたいな顔で言った。


口の中で飴玉が鳴る音にも、私はもう驚かなくなっていた。

むしろ風鈴みたいで、少し風情を感じてすらいる。


ただ、あんなに食べていて太らないのだろうか。


「凪沙さんは畑の見回りですか?」

「そうですね。で、ついでに草刈りでもして回ろうかと。

 この時期の農家の仕事は、草刈りが主ですから。

 雑草を制す者が、ミカンを制すです」

「また変なことわざを……」


凪沙さんのことわざ製造にも、少し慣れてきた気がする。


「本当に私はお手伝いしなくても大丈夫なんでしょうか?」

「草刈り機は危ないからね。

 それに、今の時期の収穫もないみたいですし、素人さんに任せられる作業って意外とないんです」

「そうなんですね……」


昨日、お婆ちゃんの畑を見まわって、それは少し分かっていた。

畑仕事は、ただ水をやればいいというものではない。

枝も、草も、実も、素人の私には何を触っていいのかすら分からなかった。


不甲斐なさと申し訳なさで胸がいっぱいになる。


「代わりに、この島のことをめいっぱい満喫してください」

「そうだね。うん。思い出をいっぱいつくるよ」


せっかく久しぶりに来たのだから。

思い出をたくさん作り、満喫して、心の休息に。


玲司とのことを忘れられるぐらいに。


ふと、昨夜見たタヌキを思い出した。

丸くて、ふさふさしていて、少し間の抜けた顔をしていた。

セラピーという意味では、あのタヌキの存在は私の心の癒やしになっていた。


「そういえば、この島ってタヌキがいるんですね」

「出たんですか?」

「うん、昨日ここで……」


可愛かった。

そう言いかけたものの、凪沙さんの真剣な眼差しに思わず押し黙った。


「なら気をつけないといけませんね。

 トキさんがいないから、餌場と考えているのかもしれません」


そういう意味では、結果的に私が昨日したことは正解だったのだろう。

その結果、あのタヌキがお腹を空かせていると思うと心苦しくなるが。


「可愛いんですけどね」

「やっぱり可愛いとは思うんだ」

「そりゃもちろん。

 落ちた実だけ食べてくれるなら、まだいいんですが。

 木になっている果実にも手を出しやがりますからね」


……可愛かった。

それで済ませてはいけないのだろう。


畑を荒らす害獣であり、農業で仕事をする上では切り分けないといけない問題。


「まぁ、それでもイノシシよりかはずっと被害は可愛いものなんですがね」

「えっ、この島、イノシシもいるの?」

「いますよ。人間より多いぐらいです」

「どれだけいるの!!」

「危なかったです。イノシシに選挙権があったら、人類は追い出されてました」

「ヒヅメで投票は難しそうだね」

「人も襲うんで気を付けてくださいね」

「気を付けたところで、遭遇したらどうしようもない気もするけど……」

「トキさんなんかは、金槌を持って追い払ってましたよ?」

「お婆ちゃん!?」


私の知らない祖母の一面が、また一つ増えた。


広大な畑を管理して。

カラオケで十八番を歌い。

そして金槌でイノシシを追い払う。


情報が多すぎる……。


「トキさんはおるかね?」


そんな話をしていると、後ろからしわがれた声がした。

振り返るとそこには、一人の老婆が立っていた。


背中は少し曲がっているけれど、足どりはしっかりしている。

片手には折りたたまれた紙を大事そうに持っていた。


「おはようございます」


私は慌てて頭を下げると、老婆は目を細めた。


「あんた、トキさんとこの娘さんかね?」

「娘じゃなくて孫ですね。橘柚葉です」

「そっかぁ。トキさんはまだ戻っとらんかね?」

「えぇ。入院が少し長引くみたいで」


そう答えると、老婆は少し困ったように眉を下げた。


「それは大変じゃねぇ。

 ただ、こっちも困ったんよ」

「困った?」

「トキさんは自治会をやっててね。

 いつも名簿の作成とか、案内の紙とかお願いしよったんよ」


そう言って、老婆は手にしていた紙を差し出した。


そこには手書きでいくつもの名前と電話番号が並んでいる。

ところどころ、線で消されていたり、横に小さく書き足しがあったりした。


「次の集まりの名簿を作らんといけんのやけど、自治会でパソコン使えるのがトキさんぐらいでねぇ」

「お婆ちゃん、パソコン使えたんだ……」


思わず声に出ていた。

確かに祖母は、いろんなことに意欲的な人だったと記憶している。


子供の私のために、洋風料理を作ってくれた。

携帯も、いつの間にかスマートフォンに変わっていた。

そして何かの計画書を私に見せてくれた、そんな――。


「トキさんはようできる人じゃったよ。

 文字も大きゅうしてくれるし、間違いもないし」


老婆は少し誇らしそうに言った。

その言い方が自分のことのようで、私は少しだけ胸が詰まった。

私の知らない祖母を、この島の人たちは当たり前のように知っている。


「わかりました。祖母の代わりに私が作ります。

 少々お時間をいただいても?」

「いいんかね。悪いねぇ」


横から凪沙さんが言った。


「たぶん、トキさんの部屋にパソコンはありますよ」

「……見てみます」


私は老婆を祖母の家に上げた。

畳の部屋を抜け、祖母の寝室へと向かう。


そこには確かに、古い型のデスクトップパソコンが置かれていた。

田舎の和室には、少しだけ不釣り合いに見える。


けれどキーボードの横には眼鏡が置かれており、画面には付箋がいくつも貼られていた。


電源ボタンの位置。

印刷の手順。

保存する場所。


一つ一つ丁寧な字で。

苦労しながらも使っていたことがうかがえた。


椅子に座り、電源を入れる。

低い音を立てて、古いパソコンがゆっくりと動き出した。


画面が明るくなる。

表示されたOSは、やはり三世代は昔のもので、少し懐かしい気持ちになった。


デスクトップに無造作に並べられたアイコンの中から、自治会と書かれているものを探す。


探していると、一つのアイコンに目が止まった。

それは画像だった。


『ラベル案』


そう書かれていた。


息を呑む。

だってそれは――。


「どうかね、できそうかね?」

「あっ、はい。大丈夫です。

 すぐに作りますね」


私は慌てて自治会のフォルダを開いた。


元のデータを多少修正するだけの簡単な作業だった。

五分とかからないだろう。


ただその間も、頭の中ではずっとさっきのデータのことが離れなかった。


『ラベル案』。

そう書かれたデータに表示されていたのは……。


お婆ちゃん。

あなたは本当は何をしようとしていたの?


それは昔、私が描いた絵だったのだから。

ここまで読んでいただきありがとうございます!!

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