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島の夜と重なる背中

「今日は……色々あったなぁ……」


縁側に腰を下ろし、私は息を吐いた。

時刻は既に八時を回っている。


昼間の熱はまだ畳や柱の奥に残っているのに、

吹き抜ける風だけは都会のものより少し冷たく感じた。


その風に、かすかな潮の匂いが混ざっている。

姿の見えない虫やカエルの声が、庭のあちこちから響いていた。


静かなはずなのに、静かではない。

駅前の車の音や、会社帰りの人の声とは違う。

けれどこの島にも、この島なりの喧騒があるのだと思った。


田舎暮らし、一日目。

そう呼ぶには大袈裟かもしれない。

けれど目まぐるしい一日だった。


朝から凪沙さんと畑を見まわった。

レモンの葉の匂いを知った。

祖母の頑張りを知ることができた。


道の駅でなつみのPOPを作った。

一袋だけ売れた。

三浦さんという知り合いができた。


その後は、祖母の代わりにやることを少し教えてもらった。

毎日の野菜と花の水やり。

郵便物や回覧板の確認。

冷蔵庫の整理とゴミ出しの曜日。

畑の様子を見まわること。

自治会の連絡を共有すること。


祖母がしていたことは、思ったよりもずっと多かった。

七十五歳であり、定年していたはずなのに、私よりよっぽど活動的だった。


ずっと一人で……この島で暮らしていた。


そういえば、三浦さんの言っていた言葉を思い出した。

結局、三浦さんは何を言いたかったのだろうか。


そんなことを考えていると、スマートフォンが震えた。


玲司。

その名前が脳裏をよぎった。


もしかしたら、私がいなくて困っているのかもしれない。

もしかしたら、昨日のことを謝ってくれるのかもしれない。

そんな期待を、まだ捨てきれない自分がいた。


画面をつけた。

表示されていたのは、やはり彼からのメッセージだった。


『少しは頭が冷えた?』

「そう……だよね」


声に出すと、思ったよりも情けない響きになった。

現実はそんなに都合よく変わらない。


今ごろ彼は、莉緒という女性と、私のいない部屋で夕食を食べているのかもしれない。


このメッセージだって、私を心配して送ったものではないのだろう。

彼女が席を立って、ふと視界に私のマグカップが映って、思い出したように打っただけ。


嫌な想像だけが頭の中を駆け巡る。

せっかくこの島に来て安らいでいたのに、これではあの場所にいた時に逆戻りだ。


既読をつけないようにスマートフォンの電源を落とした。

今は返事すら書きたくなかった。


私はどうしたいのだろう。

玲司とやり直したいのか。

別れたいのか。

別れたところで、どうするのか。

仕事だけを支えに一人で生きていくのか。


それとも……この島で暮らすのか。


一瞬、そんな考えが浮かんだ。

このまま祖母の家に住んで、畑を見て、道の駅に通って。

そんな暮らしも悪くないのかもしれない。


……なんて。

それがただの逃避であることは、私自身が一番よくわかっていた。


顔を上げる。


『田舎の星は近くて、都会よりもずっと綺麗に見える』

そんな言葉をどこかで聞いたことがある。


けれど、それは嘘だった。

少なくとも、今の私にはそうは見えない。


空は広い。

星も、たぶん多い。


でも、私の目には、あの部屋で見上げた夜と同じように濁って見えた。


きっと空が濁っているのではない。

濁っているのは、私の方なのだろう。


そんなときだった。


がさり。


庭の奥で垣根が揺れた。

風ではない。

一か所だけ、局所的に揺れている。


泥棒。

一瞬、そう思った。


けれど木々をかき分け入ってくる泥棒なんているのだろうか。

そもそも電気がついている家に、堂々と近づいてくるとは思えない。


だとしたら動物。

その考えに至った瞬間、私は縁側から飛び退いた。


慌てて窓を閉める。

最近ニュースで見たクマの映像が頭をよぎった。


この島にクマが出るかどうか知らない。

知らないからこそ怖かった。


窓から少し離れる。

でも、目は離せない。


怖い。

けれど、確かめたい。


恐怖心と好奇心がせめぎあい、

私はカーテンに隠れながらも揺れた垣根を見守った。


もう一度、枝が大きく揺れた。

月明かりの下に、小さな影が現れる。


それは小動物だった。


「犬……?猫?」


違う。

丸っこい身体。

ふさふさした毛。

短い足。


どこか間の抜けた、愛嬌のある顔。


「あっ……タヌキだ」


実物を見たことがなかったせいで、気づくのに少し時間が掛かった。


私はそっと窓を開けた。

タヌキはこちらに気づいていないのか、木の根元でごそごそと動いている。


あれはみかんの樹だっただろうか。

根元には、落ちたみかんや傷んだ実がいくつか寄せられていた。


昼間、凪沙さんが言っていた。

出荷できないものは、畑の端にまとめて置いておくことがあるのだと。


もったいない気もする。

けれど現実は甘くはないのだろう。


タヌキはそのみかんを一つずつ、鼻でつついていた。

まるでどれにしようか選んでいるみたいだった。


その仕草が思ったより可愛くて、私は思わず微笑んだ。


一歩、近づく。

その仕草や顔を、もっとよく見るために。


だがその瞬間、足元で小枝が折れた。


パキッと。


夜の庭に、その音だけが大きく響いた。


タヌキがこちらに振り向く。

目が合った。


黒くて丸い目だった。

ほんの一秒。

目と目が合った。


だが次の瞬間、タヌキは身を翻し、草むらの奥へと逃げていった。


「あっ……」


みかんは、持っていなかった。


「ごめんね」


誰に向けたのか分からない言葉が口からこぼれた。


悪いことをした。

ただ食べるものを探していただけなのに。

捨ててあるものだったのに。


私は縁側に戻り、タヌキが消えた暗がりをしばらく見ていた。

もしかしたら戻ってこないかと期待して。


あの小さな背中が、なぜだか少しだけ、自分に似ている気がした。


近づかれたら怖くなって逃げる。

欲しいものがあるのに、手をつけられずにいる。


その臆病な背中が、どうしても自分と重なって見えた。

ここまで読んでいただきありがとうございます!!

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