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レモンの葉の匂い

翌朝、私は日の出とともに目を覚ました。


窓から差し込む朝日と、少しうるさいぐらいに聞こえる鳥のさえずり。

遠くからは、何やら甲高いエンジン音が鳴り響いている。


時刻で言えば六時。

東京での生活では考えられないほど、早い時間だった。


心機一転。

自然と共にモーニングコーヒーでも飲もうか。

そう思った時だった。


「柚葉ちゃん、起きてますか?」

「凪沙さん、早くないですか!?」


玄関の扉ががらりと開いた。

その音で心臓が跳ね、眠気まなこだった意識が覚醒する。


朝迎えに来るとは聞いていたものの、まさかここまで早いとは思っていなかった。

田舎の人、恐るべし。


「あれ、寝間着ですか。

 都会の人は寝坊助さんですね」

「都会の人じゃなくても、この時間は眠っていると思いますよ!!」


自分史上、最速の起床だったものの、それでもここでは遅いとみなされるらしい。


「早く動かないといけませんからね。

 十一時には動きたくないぐらい暑いですし」

「そっか。農作業だとそうですよね」


普段はオフィスの空調が利いた部屋で一日を過ごしている。


地球温暖化と騒がれていても、日常生活の中で、

気温の変化を直接体感する場面というのは案外少ないのかもしれない。


その点、外で過ごす仕事はそういうわけにもいかない。

涼しい時間に動くのが合理的だ。


「フレックス制ってやつですね」

「フレックス? なんですか?」

「すみません、言ってみたかっただけです」


私は慌てて、用意していた作業着へと着替えた。


「ゆっくりでいいですよ。

 朝ごはんも食べてないですよね?」

「いえ、大丈夫です」


私は着替え終えると、玄関まで顔を出した。


「本当に大丈夫ですか?

 途中で倒れたりしませんか?」

「はい。仕事していた時からずっと食べていないので」


元の生活から、朝食を抜くことが当たり前になっていた。

逆に朝食をとることで気分が悪くなる恐れもある。


「それならせめて飴玉を食べててください」


そう言うと、凪沙さんは軽トラックから袋を取り出した。

市販品の飴玉。

それが四種類。


「常備しているんですか?」

「はい、農家さんの必須アイテムです。

 よりどりみどりですよ。占いの付いているものもありますし」


飴玉に占い要素なんて必要なのだろうか。

そんな疑問を思いつつ、断るわけにもいかずに飴玉を一つ頬張った。


「小吉でした。なんとも言えないですね」

「いいじゃないですか。

 私は吉でしたよ」

「あれ、吉の方がいいんだよね?」

「そうだったんですか?

 吉に小が付いてて、ご利益が増えそうな気がしてました」


言ってしまえばどうでもいいことだった。

だが、そんな何気ない言葉に癒されている自分がいた。


「それではトキさんの畑を案内しますので、乗ってください」

「いいんですか?運転ぐらいなら私の車でも」


案内してもらうだけでなく、運転まで。

ガソリン代だって値が上がっているのに。


「レンタカーを傷つけるわけにはいきませんから。

 それに何より、トキさんの畑はなかなかに魔境ですからね」

「……どういう意味ですか?」


私が助手席に乗り込むと、見計らったように車はエンジンをふかし、急発進した。

がたっと車体が揺れる。

思わず後頭部が固いクッションにぶつかった。


「痛った……」

「揺れるんで気を付けてくださいね」

「もう、既に揺れて――」

「いえ、もっと揺れるので」


凪沙さんは慣れた手つきでレバーを操作する。

そのたびにエンジンはうねりを上げ、車体は前進した。


重力と慣性が、私の頭を前後へと揺らしてくる。


凪沙さんは、私と同じ年頃とは思えないほど軽快に、軽トラックを扱っている。

それは田舎特有の慣れというより、この島で暮らす人間の身体に染み付いた動きのように見えた。


山の急斜面。

竹の生い茂った雑木林。

半ばジェットコースターのような、狭くて落ちそうな細い道。


もし運転していたら、進むどころか戻ることすらままならなかったと痛感した。

当然、レンタカーは傷だらけになっていただろう。


「まずはここです」


軽トラックは開けた土地へと入り込んだ。

大きな樹木が何本も、一定の間隔で植えられている。


「みかんの樹ですか?」

「残念、レモンですね」


私的には部分点ぐらい欲しい回答だったのだが、

どうやら彼女からしたら全くの別物認定らしい。


背丈は私の二倍から三倍はありそうだった。

大きな脚立を使ってどうにか収穫をする、そんなイメージを抱いた。


枝先には白く、先端が薄くピンクがかった小さな花が咲いている。

その周りを、小さな虫たちが羽音を立てながら飛び回っていた。


「触ってもいいですか?」

「まぁ、トキさんの畑ですし、一つぐらいなら」


凪沙さんはそう言うと、花を一つ、花弁ごと摘んで私に差し出した。


新鮮だった。

レモンの花を見ることも、触ることも。


摘まみ、触り、思わず匂いを嗅いだ。


強く主張する香りではない。

けれど、確かにそこには匂いがあった。


シトラスと聞いて想像するようなハッキリした匂いとは違う。

少し甘くて、人工的ではない、やさしい匂い。


指先に黄色い花粉がついた。

それを親指でそっと伸ばすと、手のひらに薄いあとが残った。


それすらも新鮮で、面白いと思った。


「あとはね。これをちぎってみて」

「葉っぱをですか?」


渡されたのはレモンの葉だった。

新芽なのか、他の葉と比べて緑色が浅く、柔らかい。


ちぎってみて、という意味が分からなかった。

それでも言われるままに、葉を指先でちぎる。


「嗅いでみてください」


言われるままに葉を鼻へと近づけた。

その瞬間、思わず息を呑んだ。


「すごい……これ凄いですよ」


レモンの匂いがした。

私が普段嗅いでいる、レモンの。

花からは感じられなかった、あの匂いが。


スーパーの棚に並んでいる果実からは想像したことのない、レモンの香り。

それでありつつも、どこか新鮮で青臭い。


私はレモンを知っているつもりでいた。

普通に触り、購入し、調理もする。


黄色くて、すっぱくて、輪切りにされて、飲み物や料理に添えられる。

だがその葉っぱにまで、こんな香りがあることを私は知らなかった。


「うん、よかった。

 喜んでもらえたみたいで」

「はい。来てよかったです」

「それじゃあ、次に行きましょうか」


凪沙さんはそれだけを言うと、また軽トラックへと乗り込んだ。


そこからさらに、いくつもの畑を回った。


ブルーベリー。

イチジク。

みかん。

それから自宅の庭に植えられた野菜や花たち。


凪沙さんは、一つひとつを急かすでもなく、説明しすぎるでもなく、

ただ見せて、触らせて、匂いを嗅がせてくれた。


私はそれを順番に見て、触って、匂いを嗅いで、体験した。

ただ回っただけで、半日が過ぎていた。


「どうだった?」

「……すごい広かったです」


最初に出てきた感想は、それだった。


広かった。


畑の大きさも。

その範囲も。

祖母が見ていた世界そのものが。


「これら全て、トキさんが一人で管理していたんですよ」


凪沙さんは淡々と言った。

責めるような声ではなかった。


「……はい」


私は、祖母のことを知っているつもりでいた。


夏休みに遊びに来て。

台所で手料理を一緒に食べて。

畳の上でお昼寝をして。

優しく笑ってくれる祖母の記憶だけを、都合よく大事に持っていた。


けれど祖母が毎日どれだけ早く起きて、どれだけ畑を回り、どれだけの樹を見て、どれだけのものを一人で守っていたのか。


私は、何も知らなかった。


チクリと、心の奥が痛んだ。

その痛みの奥から、罪悪感がじわりと滲み出てくる。


もっと帰省して手伝ってあげればよかったと。

そうすれば骨折なんてしなくて済んだはずだと。


だけど――。


「はい。ですので、私の自慢の友人。

 橘トキさんは凄い人なんです」

「……そうですね」


責めているのかと思った。

怒っているのかと思った。

でも違った。


凪沙さんはただ、自慢をしたかっただけなのだ。

孫の私に、お婆ちゃんがどれほど凄かったのかを。


「はい。私にとっても、自慢のお婆ちゃんです」


そう言うと、自分のことを少しだけ許せる気がした。

ここまで読んでいただきありがとうございます!!

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