握った袖を、手放すために
東京の部屋は、思っていたよりも静かだった。
鍵を開け、玄関に入る。
きちんと閉め切られた部屋の空気は、少しだけ淀んでいた。
潮の匂いもしない。
土の香りもしない。
朝から草刈り機の音もしない。
便利で、清潔で、なんでも手の届く場所にある。
それなのに、私には少し息がしづらかった。
ここは、私が暮らしていた場所だった。
けれど、帰ってきた場所だとは思えなかった。
この場所で、やるべきことをまとめる。
私はパソコンの電源を入れ、メールを書いた。
退職の意思。
引き継ぎ資料の所在。
残りの業務の整理。
婚約について、改めて話したいということ。
文章を何度も読み返す。
感情的になっていないか。
曖昧な表現になっていないか。
相手に都合よく解釈される余地がないか。
会社で資料を作っていた頃と、やっていることは同じだった。
けれど、今は違う。
これは誰かの手柄になるための資料ではない。
私が、私の足でここを出ていくための文章だった。
送信ボタンを押すと、部屋の静けさが少しだけ深くなった。
その夜、玲司は帰ってこなかった。
翌朝、会社に行くと、玲司が私の席の前に立っていた。
「どういうことだ」
開口一番、そう言われた。
「僕は聞いてないぞ」
「メールで説明しました」
「相談されてないって意味だよ」
玲司は、周囲の視線を気にするように声を少し落とした。
けれど、その苛立ちは隠せていなかった。
「僕たち、婚約者だろ。
こういう大事なことを、勝手に決めるのはおかしい」
以前の私なら、その言葉だけで謝っていたかもしれない。
ごめんなさい。
相談すべきだった。
迷惑をかけてしまった。
そうやって、自分の意思をまた引っ込めていたかもしれない。
けれど、今は違った。
「私は、私の退職について決めました」
「可愛げがないな、君は」
玲司は吐き捨てるように言った。
「そういうところ、昔から変わらないよな」
胸の奥が、ちくりとした。
けれど、その痛みは前ほど深く刺さらなかった。
「一応、昨夜は家で待っていたんですが」
私がそう言うと、玲司は一瞬だけ目をそらした。
「昨日は仕事の付き合いで帰れなかったんだ」
「……そういうことにしておきます」
これ以上、押し問答をしても意味はない。
私は鞄から書類を取り出した。
「これから社長のところに行ってきます。
退職の旨は昨日、メールでも伝えてあります」
「だから勝手に――」
「いいでしょう。私の人生なんですから」
自分で言って、少し驚いた。
けれど、その言葉は思ったより自然に口から出た。
玲司は、信じられないものを見るような目で私を見た。
「これからどうするんだ」
「有給休暇に入る前に、残りの時間で引き継ぎ書類は作ります。
必要な資料は共有フォルダにまとめますので、業務上の問題は出ないようにします」
「違う」
玲司は、苛立ったように机を指で叩いた。
「僕のことだ。今まで、資料は君が作っていただろう」
この期に及んで、自分のことなのか。
呆れるより先に、妙に納得してしまった。
玲司にとって私は、そういう存在だったのだ。
隣に立つ婚約者ではなく。
一緒に生きる相手でもなく。
自分の仕事を整えてくれる、都合のいい人。
「自分で作り方を覚えてください」
私は静かに言った。
「それが難しいなら、どなたかに正式に依頼してください」
「冷たいな」
「そうかもしれませんね」
私は書類を持ち直した。
「仕事終わりに、婚約の件でもお話があります。
それまでは、仕事をしましょう。久我さん」
玲司は、何も言わなかった。
私はその横を通り過ぎた。
社長室で、私は辞表を出した。
社長――玲司の父親は、しばらく黙ってそれを見ていた。
仕事を辞めるのは個人の自由だ。
結婚についても、本人同士が決めることだ。
そう言ったうえで、彼は小さく息を吐いた。
「できれば、辞めないでもらえないか」
玲司の父親とは、これまで何度も会っていた。
普通にいい人だった。
少なくとも、私の仕事をちゃんと見てくれていた人ではあった。
「君はよくやってくれていた。正直、手放すのは惜しい」
「ありがとうございます」
その言葉は、素直に嬉しかった。
でも、それだけだった。
私はもう、誰かに惜しまれるためにここに残ることはできない。
「申し訳ありません。気持ちは決まっています」
「そうか」
社長は、少しだけ寂しそうに笑った。
「それだけ、お祖母さんの島がいいところだったんだな」
「……はい」
「定年したら、私も田舎に移住しようかな」
冗談なのか、本気なのか分からなかった。
私は少しだけ笑って、深く頭を下げた。
仕事終わり、私は会社の近くにあるオープンテラスの席を取っていた。
密室で話したくなかった。
玲司の部屋でも、私たちの部屋でもなく。
誰かの目があり、風が通る場所で、終わらせたかった。
しばらくして、玲司がやってきた。
「辞表の件、本気だったのか」
この期に及んで何を言っているのだろう。
そう思ったけれど、同時に玲司らしいとも思った。
彼はいつも、私の決定を本気のものとして受け取らなかった。
私が怒っても。
傷ついても。
何かを諦めても。
しばらくすれば、元に戻ると思っていたのだ。
玲司は向かいの席に座ると、少し疲れたような顔を作った。
「あの女とは別れた。
だからもうその件は終わりでいいだろ」
私は黙っていた。
「仕事を辞めるのも、まあ、構わない。
しばらく家にいてもいい。君も疲れてるんだろうし」
何を言っているのだろうか、この人は。
「だから、もう一度やり直さないか」
「……」
「結婚の話も、親には僕から説明する。
君が少し不安定になっていただけだって言えば、なんとかなる」
その言葉で、胸の奥がすっと冷えた。
少し不安定になっていた。
やっぱり、そういう扱いなのだ。
私の痛みも、決意も、全部。
彼の中では、一時的な気の迷いにされる。
「玲司さん」
私は、ゆっくりと口を開いた。
「私は、あなたと結婚しません」
玲司の表情が固まった。
「……何言ってるんだ」
「あなたとの婚約を解消します」
「待てよ」
玲司の声が低くなる。
「婚約破棄だぞ。
君が一方的に言い出したんだから、慰謝料だって――」
「必要なら、弁護士を通してください」
私は、まっすぐ玲司を見た。
「今までのやり取りの記録は残してあります」
玲司は言葉に詰まった。
私は続ける。
「私は今日、あなたとの関係を終わらせに来ました」
声は、震えていなかった。
「曖昧に逃げるのではなく、ちゃんと終わらせるために来ました。
縁を大切にしたいからです」
「縁って……」
玲司は、苛立ったように笑った。
「今までの時間は何だったんだよ」
「なかったことにはしません」
私は言った。
「あなたとの思い出が、全部悪いものだったとも思っていません」
「なら――」
「でも」
私は、玲司の言葉を遮った。
「触れた袖を、ずっと握って歩く必要はないんです」
玲司が眉をひそめる。
「何の話だよ」
「私は今日、手を放すために来ました」
潮の匂いはしない。
草刈り機の音もしない。
ここは東京のカフェで、目の前にいるのは私が婚約していた人だった。
それでも、私は島で聞いた言葉を思い出していた。
縁を大切にすることと、離れないことは違う。
繋げるのも、切るのも。
ちゃんと意思を持つこと。
私は、膝の上で拳を握った。
そして、深く頭を下げた。
「今まで、ありがとうございました」
嫌な人だった。
許せないこともたくさんあった。
それでも、彼と私との縁に、私はケジメをつけたかった。
玲司は、ぽかんとしていた。
何かを言いたげに口を開きかける。
でも、私はもう待たなかった。
「それでは、これで」
鞄を持って、席を立つ。
後ろで、玲司が何か言った気がした。
けれど、私は振り返らなかった。
胸は痛かった。
けれど、それは刺さったままの痛みではなかった。
すいばりを抜いたあとの、じんっとした痛みだった。
玲司との縁というすいばりを、私はようやく抜くことができた。
外に出ると、ビルの間を抜ける風が頬に触れた。
潮の匂いはしない。
けれど、息はできた。
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