表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/26

瀬戸内の島で自分の価値にラベルを貼りなおす

数か月後、私はもう一度、橋を渡った。


助手席には、段ボールをいくつも積んでいる。


服、ノートパソコン、本。

祖母の家で見つけたラベル案を印刷したファイル。

それから新しく作った名刺。


最初にこの橋を渡ったとき、私は逃げていた。


玲司から。

会社から。

自分が何者なのか分からなくなった生活から。


けれど今は違う。

私は、戻る場所を自分で選んで、この橋を渡っている。


海は、あの日と同じように青かった。

けれど、見えている景色は少し違う。


橋の向こうにある島は、もう逃げ場所ではなかった。

私がこれから、自分の名前で生きてみたい場所だった。



まず、道の駅に寄った。

駐車場には観光客の車が何台か停まっている。


直売所の前では、みかんの箱を抱えた人が忙しそうに動いていた。

その横で、今日もチャレンジショップは元気に営業している。


小さな黒板には、見覚えのある文字が書かれていた。

湯気ごと香る、島のジャム&スコーン

その下に、小さく添えられている。


企画協力:橘柚葉


自分の名前を見つけた瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。


会社では、私の名前は資料の下に消えていた。

誰かの手柄の影に隠れていた。


けれど、ここでは違う。

小さな黒板の端に、私の名前がちゃんと残っている。


「いらっしゃ――って、柚葉じゃないか!!」


店の奥から、真帆さんが顔を出した。

相変わらず、エプロン姿が似合っている。

髪は少し短くなった気がするけれど、笑い方は何も変わっていなかった。


「お久しぶりです、真帆さん」

「なんだい、なんだい。

 あんまり連絡をよこさないもんだから、もう帰ってこないのかと思ったよ」

「いやー、恥ずかしながら私たち、連絡先を交換していなかったもので」

「今どきそんなことある?」

「ありました」


ずっと島で一緒にいたから、連絡を取り合う必要がなかった。


……いや、違う。

あの時の私は、まだ縁を作ることをどこかで恐れていたのかもしれない。

またつながって、また離れるのが怖かった。


「戻ってきたねえ、柚葉」


真帆さんは、腕を組んでにっと笑った。


「はい」

「今日は観光? それとも移住?」

「移住……というほど、大げさに言えるかは分かりません」


私は、ポケットから名刺を取り出した。


「でも、この島で暮らしてみようと思っています」


真帆さんが、名刺を受け取る。

そこには、私が何度も考えて決めた肩書きを印刷していた。


【島と街をつなぐ言葉屋 橘柚葉】


「言葉屋?」

「はい」


私は少しだけ照れながら頷いた。


「島の魅力を、外の人に届く言葉にする仕事をしたいんです。

 POPとか、商品名とか、ラベルとか、資料とか。まだ何でも屋に近いですけど」

「フリーランスってやつかい?」

「はい。たぶん」

「たぶんなんだ」

「始めたばかりなので」


真帆さんは名刺を眺めながら、ふっと笑った。


「いいじゃないか。柚葉らしいよ」


その一言で、少しだけ肩の力が抜けた。


「島と街の縁を大切にする。

 そんな仕事にしたいんです」


私は黒板の文字を見た。

湯気ごと香る、みかんジャム&スコーン。


「これが、今の私のラベルです」

「……そっか」


真帆さんは納得したように頷いた。


「じゃあ、その言葉屋さんに、うちもまた仕事を頼まないとね」

「もちろんです」

「あ、でも報酬はスコーン払いで」

「現金もください」

「強くなったねえ」


真帆さんは楽しそうに笑った。

その笑い声が、チャレンジショップの小さな軒先に広がる。


「そういえば、凪沙さんは?」

「あー、うん。今はみかんの収穫に駆り出されてるみたいだよ」

「収穫ですか」

「今が一番忙しいらしくてね。

 どこの農家も猫の手も借りたいって」

「タヌキなら、いいのがいるんですけどね」

「なんの話?」


私は少しだけ笑った。

真帆さんは困惑した顔をしていた。


あのタヌキ、きっと手伝ってはくれない。

むしろ、みかんをくわえて逃げていくだけだろう。



真帆さんに礼を言って、私は道の駅を後にした。


それから、島を回った。

凪沙さんを探しているつもりだった。

けれど、収穫作業をしている農家さんを見かけるたび、車を停めた。


「すみません。

 潮見凪沙さんを探しているんですが」


そう声をかける。

すると、たいていの人は

「ああ、凪沙ちゃんならさっきまでこっちにおったよ」とか、

「あの子は今日はあっちの畑じゃないかね」とか、当たり前のように答えてくれた。


そのたびに、私は名刺を出した。


「橘柚葉です。トキの孫です。

 これから、この島で少しお世話になります」


最初は少し緊張した。

でも、一度名乗るたびに、自分の足がこの島の土に少しずつ触れていくような気がした。


以前の私は、トキお婆ちゃんの代わりだった。


トキさんの孫。

都会から来た子。

凪沙さんの連れ。

真帆さんの手伝い。


けれど今は違う。

私は、橘柚葉という名前で、この島に入っていく。


数件回っても、凪沙さんは見つからなかった。

みかんの収穫期の島は、思っていた以上に忙しかった。


軽トラックが行き交い、コンテナが積まれ、畑のあちこちから人の声がする。

島全体が、収穫という大きな仕事の中にいるようだった。



夕方が近づく。

太陽が、ゆっくりと海の方へ傾いていく。

ふと、海を見たくなった。

私は車を停め、海辺へ向かった。


潮の匂いがする。

山の斜面には、みかん畑。

その下に集落。

その向こうに海。


数か月前、真帆さんが言っていた。

瀬戸内の島は、山と海が近い。


あのときは、ただ景色として見ていた。

けれど今は、その言葉の意味が少しだけ分かる。


近いから、混ざる。

山の匂いと、海の匂い。

畑の仕事と、観光客の足音。

古い家と、新しい店。

島に残る人と、外から来る人。


そのあいだに、私の仕事もあるのかもしれない。


「なに黄昏れているんですか、柚葉ちゃん」


後ろから声がした。

振り返ると、そこに凪沙さんがいた。


Tシャツにオーバーオール。

首にはタオル。

口の中で、いつものように飴玉がからころ鳴っている。


少し汗をかいていて、近くには原付バイクが停まっていた。


「凪沙さん!!」

「どうしてここに、って顔してますね」

「まさに、それを聞こうとしてました」

「真帆さんから、柚葉ちゃんが戻ってきているって聞いたんです。それでトキさんの家で待っていたのに、一向に現れない」

「ご、ごめんね」

「それでも待っていたら、坂の下で見慣れない軽自動車が走っていて、こっちに来るのかなと思ったら海の方に行くし、急いで原付で追いかけてきました」

「なんだか本当にごめんね!」


早口で捲し立てる凪沙さんは、肩で息をしながらもどこか満足そうだった。


「まったく。島に戻って早々、探させるなんて」

「凪沙さんを探していたんだけど」

「私も柚葉ちゃんを探していました」

「すれ違ってたんだ」

「袖振り合う前に、島を一周しかけましたね」

「あのことわざを無理やり使わないでください」


そう言うと、凪沙さんはにししと笑った。

その笑顔を見た瞬間、胸の奥にあった緊張がほどけた。


私は、この人に会いたかったのだと思った。

真帆さんにも。

三浦さんにも。

トキお婆ちゃんの家にも。

この島にも。


でも、まず凪沙さんに。


私は深く息を吸った。

潮の香りと、みかんの葉の青い匂いが混じっている。


「ただいま、凪沙さん」


凪沙さんは、少しだけ目を細めた。

それから、いつものように飴玉をからりと鳴らして、笑った。


「おかえり、柚葉ちゃん」


その言葉は、思っていたよりもずっと温かかった。


私たちは並んで、しばらく海を見た。


言いたいことはたくさんあった。

仕事のこと。

東京のこと。

トキお婆ちゃんのこと。

これからのこと。


でも、今はまだいい気がした。

縁は、急いで結び直さなくてもいい。

ちゃんとここにあるなら、少しずつ形にしていけばいい。


「それで、柚葉ちゃん」

「はい」

「荷物はもうトキさんの家に?」

「まだです」

「じゃあ早く行きましょう。日が暮れます」

「うん」

「あと、お腹が空きました」

「やっぱり」

「再会には食べ物が必要です」

「それもことわざ?」

「今作りました」



私たちは笑いながら車へ戻った。

トキお婆ちゃんの家に着く頃には、空は薄い茜色に染まっていた。


玄関を開ける。

古い家の匂いがする。

畳。

木の柱。

少しだけ残った夏みかんの香り。


私は段ボールをひとつ運び込み、祖母の古い机の上にファイルを置いた。

そこには、トキお婆ちゃんのジャムのレシピが置いてある。


未完成の夢。

そして、その隣に、新しい白いラベルを一枚置いた。


まだ瓶に貼るには早い。

まだ商品として完成したわけでもない。

けれど、私はペンを取った。

ラベルの端に、ゆっくりと名前を書く。


製造者:橘柚葉。


誰かの資料の下に消える名前ではなく。

誰かの手柄の影に隠れる名前でもなく。

私が選んだものに、私自身で貼る名前だった。


窓の外で、車のエンジン音が響く。

そして玄関の方から二人の笑い声が聞こえた。


「柚葉ちゃーん。何か食べるものありますか?」

「柚葉、新作の味見もしてくれ!!」


私は思わず笑った。


「はい。よろこんで」


この島での暮らしは、きっと簡単ではない。

迷うこともある。

うまくいかないこともある。


それでも私は、ここでまた始めてみようと思う。


自分の名前で。

自分の言葉で。

自分の価値にラベルを貼りなおすために。

===========================

本小説はこれにて完結となります。

ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました!!


本作品は【JR西じゆうに大賞せとうち部門】応募作品です。

少しでも「読んでよかった」と思っていただけましたら、

☆☆☆☆☆から評価で応援していただけるととても嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ