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あんたの名前で

太陽が昇るのと共に目が覚めた。

この島に来てから、すっかり慣れてしまった生活リズムだった。


朝起きて、庭の野菜に水をやる。

毎朝のことながら、タヌキが顔を出していた。


島に来てから、ほとんど毎日会っている。

けれど、向こうは一向に懐く気配がない。


私が近づけば逃げるし、追い払えば一度は姿を消す。

それでも翌朝には、何食わぬ顔で庭の端にいる。


慣れているのか、慣れていないのか。

図々しいのか、臆病なのか。


よく分からないその距離感が、少しだけおかしかった。

けれど、その野生の気高さには、なんだか励まされた気がした。


朝ごはんを食べて、帰り支度をする。

窓の戸締まりを確認して、最後に鍵を凪沙さんに教えられた場所へ戻した。


たった数日だけ生活した家なのに、東京の家よりも寂しい気持ちになる。

私は何となく、玄関に向かって深々とお辞儀をした。


車に乗り込もうとして、そこで気づいた。

フロントガラスのところに、レジ袋が置かれている。


中を開ける。

そこには、飴玉。

なつみみかん。

まだ温かいスコーン。


それから、小さな手紙も入っていた。


【また遊びにきてください】

「みんな……」


私は涙をこらえ、車のエンジンを掛けた。

島の道を走り出す。


流れる景色は、どこか懐かしくもあり、新鮮でもあった。

朝日に照らされる海は、どこまでも澄んでいる。


木々の隙間から感じる空気は冷たく、少し湿気を帯びていた。


窓を開け、深呼吸をする。

潮の香りと、森の青々しい匂い。


真帆さんが言っていた通りだ。

瀬戸内の特徴は、山と海が近いことにある。


都会ではまだ人が動き出していないような時刻なのに、

畑にはすでに軽トラックが何台も止まっていた。

草刈り機の甲高い音が、朝の空気を震わせている。


橋を渡る。

開けた海と空。

潮風が鼻腔をくすぐる。


逃げてきたときと同じ景色のはずだった。

けれど今は、少し違って見えた。


「行ってきます」


誰に向けたわけでもないその声を、潮風が海へ運んでいった。



「お婆ちゃん、元気?」

「おぉ柚葉。元気じゃったか?」


病院のベッドの上。

私に気づいた祖母が、ゆっくりと身体を起こす。


「うん。私は――すごく元気をもらえたよ」


来た時よりも、ずっと頭が澄んでいた。

ここ数年、感じたことがないような心境だった。


思考がはっきりとしている。

自分に少しだけ自信が持てる。

前へ進むための力が、胸の奥にある。


私が、私として生きていける気がした。


「それはよかったわ」


祖母は目を細めた。

笑っているのか、少し訝しんでいるのか。

昔から、お婆ちゃんはそういう顔をする人だった。


それから私は、島であったことを話した。


凪沙さんと出会ったこと。

お婆ちゃんの畑を回ったこと。

三浦さんのみかんを売ったこと。

自治会の資料を作ったこと。

お婆ちゃんのパソコンで、ラベル案を見つけたこと。

真帆さんのお店を手伝ったこと。

夏みかんのジャムを作ったこと。

石風呂に入ったこと。

温かい夏みかんジャムのスコーンを売ったこと。


そして――玲司とのことを。


お婆ちゃんは、ただ頷いて聞いてくれた。

子どもの頃に戻ったみたいだった。


何かを急かすでもなく、否定するでもなく、ただ優しく頷いてくれる。

それだけで、私は少しだけ強くなれた。


「お婆ちゃん」

「なんね」

「昔、ジャムの加工所を作ろうとしてたんだね」


祖母は少しだけ目を丸くした。

それから、困ったように笑った。


「見つけたんかい」

「うん。ラベル案もレシピも見た」

「恥ずかしいのう。柚葉から見たら変なデザインじゃったやろ?」

「……うん。あれはそのままでは売り出せないね」


私は少し笑った。


「でも、本気だったんだね」


祖母は、しばらく黙っていた。

窓の外から、病院の白い光が差し込んでいる。


「柚葉が、高校生になってからかね」

「え?」

「あんた、だんだん島に来んようになったじゃろ」


胸の奥が、少しだけ痛んだ。


「それは……部活とか、受験とか、友達とか」

「分かっとるよ」


祖母は穏やかに言った。


「それが普通じゃ。若い子は外へ向く。

 島だけ見とったら、息が詰まることもある」

「……うん」

「でも、ちょっと寂しくてのう」


祖母は、遠くを見るように目を細めた。


「柚葉が島に来られんなら、島の方から柚葉のところへ行けんかと思ったんよ」

「島の方から……?」

「島の果実をジャムにして、瓶に詰めて、ラベルを貼って送る。

 朝のパンに塗ったら、少しは島のことを思い出すじゃろうかって」


言葉が出なかった。

私が島を忘れかけていた頃。

お婆ちゃんは、島の方から私に手を伸ばそうとしていた。


「まあ、瓶代が高くてのう」


祖母は、ふっと笑った。


「瓶も高けりゃ運賃も値上がりしよってね。

 まぁ柚葉も元気そうだし、えっかなって」

「お婆ちゃん……」


涙が引っ込んだ。現実とはそんなものなのだろう。

祖母は少しだけ困ったように笑った。


「でも、残ってたよ。

 お婆ちゃんの夢。ちゃんと残ってた」

「……」


祖母は、何も言わなかった。

ただ、少しだけ目を細めた。


「柚葉」

「うん」

「あんたは、あんたの名前でやりんさい」


その言葉は、静かだった。

けれど、胸の奥に深く落ちた。

私は小さく頷いた。

ひとしきり話して、私は席を立った。


「それじゃあ、行ってくるね」

「……またいつでも帰っておいで」

「うん。必ず」


私は決意を込めて、病室の扉を閉めた。


もう逃げだすためではない。

自分の名前を取り戻すために。

ここまで読んでいただきありがとうございます!!

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