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追い出された私は、瀬戸内の島へ流れ着く

「お婆ちゃん元気?」

「おぉ、久しぶりやねぇ柚葉。

 元気じゃったか?」


県立病院の病室の扉を開け入室すると、ベッドに寝そべっていた祖母はこちらに身体を向けた。


御年75歳。

骨折して入院中であるものの、受け答えはハッキリしているように思える。

認知機能に問題はなく、東京で見る同年代――いや60代の人たちよりも若々しく感じる。


そして何より――今の私よりずっと覇気があった。


「身体の調子はどう?

 後遺症とかもないんだよね?」

「医者が言うには骨がくっつけば畑もできるってさ。

 柚葉の結婚式までには治ればいいんじゃけどねぇ」

「そう……だね」


玲司のことが、胸の奥で鈍く沈んだ。

そうだ、彼と結婚しないといけないのだ。


愛情がないわけではない。

なかったわけでは。

そう思いたかった……。


何より、もう関係者には結婚することを伝えている。

今更、やっぱりなし、というのも面倒だった。


そう考えてしまうこと自体が、既に愛情の薄さを証明しているのかもしれない。


私の反応を見て、何かを察したのだろう。

祖母はそれ以上、その話題には触れなかった。


久しぶりの祖母との会話に沈黙が流れる。

本当はもっと明るい話をするつもりだったのに。


「今からお婆ちゃんの家を片付けに行くね。

 何かやってて欲しいこととかある?」

「ゴミの片づけだけお願いしてもいいかね?

 すまないね、せっかくの休日に手伝わせて」

「いいの。ちょうど都会から離れたい気持ちだったし」


何より、玲司から離れたかった。


奇しくも彼の言う通り、頭を冷やす時間が欲しかった。

心を落ち着かせるための時間が。


自然はいい。……多分。

海を見て、風に吹かれ、静かな場所で過ごせれば、少しは心が洗われるかもしれない。


今の悩みから解放されるかもしれない。

そう期待するしか、今の問題に解決策が見いだせないでいた。


「畑のことは知り合いに頼んどるから、柚葉はゆっくりしんしゃい」

「うん、そうさせてもらう。

 それじゃあ、もう行くね」

「その前に、柚葉」


私が立ち上がろうとしたとき、祖母が手を差し出した。

皺だらけで、それでいて少し筋肉質な、老人とは思えない手のひらだった。


祖母は何かあるとき、いつも握手を求めていた。

泣いたとき、叱られたとき、帰るとき。

いつも。


そんな祖母の手を取るのは久しぶりだった。


少しだけ抵抗があった。

まるで握ることでこちらの心情が見透かされるようで。

それでもやましいことがないことを証明するように、私は手を取るしかなかった。


骨ばっていた。

それでいて温かい。

祖母はもう片方の手のひらで、私の手を包み込んだ。


「柚葉。人との縁は大切にせんといけんよ」

「……うん、わかってる」


曖昧に頷いた。

説教臭いようであり、年配の方の真理のような言葉だった。


決して他人をないがしろにした覚えはない。

それでも胸の奥が少しだけ痛んだ。


結婚のことを言っているのだろう。

一度結んだ縁を手放さないように、と。



祖母のいる病院を出て30分、レンタカーを走らせた。

建物の隙間から見えてくる、大きな島影。

昔と違い、運転席から見えるその姿は新鮮だった。


海の上にかかる橋の歩道には、学生たちが楽しそうに並んで歩いている。

楽しそうな学生生活。


そういえば、友人たちとはもうしばらく会っていない。

何人かは結婚し、何人かは子供が生まれ、少しずつ話題が合わなくなった。

未婚の友人とも、いつの間にか連絡を取らなくなっていた。


もし玲司と別れるのなら、そのことも誰かに報告しなければならないのだろう。

それすら、ひどく億劫に思えた。


気分を変えるために、車の窓を少し開けた。


潮風が吹き込む。

湿った空気と磯の香り。

橋の上は風が強いらしく、髪が一気に乱れた。


耳元で風が唸る。

その音は、世界から、雑念から私を遠ざけてくれるようで、少しだけありがたかった。


橋を渡ると、景色は一気に田舎になった。


橋のたもとの町も、決して都会とは言えない。

それでも、そこにはまだ住居やお店があり、人が暮らしている気配があった。


けれど、この島は違う。


車は舗装された道を進んでいる。

それなのに、右手には伸び放題の雑草が茂り、左手にはときおり開けた海が顔を覗かせた。


歩道には誰もいなかった。


歩く人がいないから草が伸びるのか。

それとも伸びているから、誰も歩かなくなるのか。


どちらにせよ、そこには使われなくなったもの特有の寂しさがあった。


田舎。


その言葉が頭の中を何度も反響する。

都会とは違う速度で時間が流れ、若い人たちが少しずつ外へ出ていく場所。


テレビやネットでは、田舎の魅力が特集される。

裏を返せば、田舎の魅力は当たり前には伝わらないということだ。


よく見なければ分からない。

言葉にしなければ届かない。

形にしなければ、誰も手に取らない。


子供の頃から何度もこの島に来ていた私にとって、

「田舎の魅力」という言葉は、どこか綺麗事のように聞こえた。


道端の無人販売所で車を止める。

沢山のみかんが並んでいた。


袋いっぱいに詰められてワンコイン。

POPも説明もなく、無骨に段ボールに値段だけが書かれている。


安すぎる。


東京ならこの倍でも売れるほどに。

いや、都会でなくても見せ方次第でもっと……。


自然とそう考えてしまう自分が、少し嫌になった。

逃げてきたのに、まだ仕事のことを考えている。


私は振り払うようにみかん一袋を抱きかかえる。

無造作に置かれた菓子缶の集金箱にお金を入れた。


缶の中で、甲高い音が鳴った。


祖母の家は古民家と呼ぶのが似合う家だった。

瓦は色あせ、ところどころ欠けている。

けれど蔦が絡んでいるわけでもなく、庭が完全に荒れているわけでもない。


庭には野菜と花が植えられていた。

誰かが手入れした気配もある。


鍵は受け取っていない。

郵便受けの中に入っていると聞かされていた。


なんて不用心なのだろう。

けれど、これも田舎特有の防犯感覚なのかもしれない。


重い引き戸に手をかける。

年季が入っていて噛み合わせが悪いのか、それとも単に扉そのものが重いのか。

ガラガラと鈍い音を立てて、ようやく玄関が開いた。


土間に仏壇。

田の字に襖で区切られた部屋たち。

いつもの、私が記憶している祖母の家だった。


買ってきた食料を冷蔵庫に入れる。

中には、賞味期限切れのお肉や、しなびた野菜。

それから自家製の漬物の容器がいくつも詰まっていた。


他人の冷蔵庫ほど、開けるのに抵抗のあるものはない。


整理しなければならない。

そう思いながらも、運転の疲れのせいで身体が動かなかった。


畳の上に横になる。


畳の香り。

湿気の匂い。

それからかすかなお線香の匂い。


そうだ。

仏壇のお爺ちゃんに挨拶をしなければ。

けれどその気力すら湧いてこなかった。


この家のこと。

婚約のこと。

仕事のこと。

そして私自身の人生のこと。


結婚していいのだろうか。

仕事を続けていいのだろうか。

このまま死ぬまで、誰かの顔色を窺い続けて後悔しないのだろうか。


答えの出ない思考だけが、頭の中をぐるぐる回る。


やがて私は、そのまま意識を手放していた。


暖かな光が、私の顔を照らした。

目を開けると、いつの間にか日が傾き、空は夕暮れに染まっていた。


眠っていた。

自覚すると、次第に見ていた夢の内容を鮮明に思い出す。


玲司と喧嘩する夢。

嫌な言葉を言われて、胸の奥にチクリと針が突き刺さる、そんな夢。


いや、夢でもないのだろう。

今回のことも。

今までのことも。

ずっとそうだったのだから。


仮眠をとり、思考がスッキリとした。

この家を片付けに来たのだ。

ただ正直なところ、これから何をすべきなのかも分かってはいない。


とりあえずゴミを片付けよう。

そう思い立ち上がった、その時だった。


がさり、と物音が聞こえた。


扉を挟んだ、すぐ向こう側。

祖母の家の敷地内。

庭の方に。

……誰かいる。


心臓が跳ねた。


この家にセキュリティがないことは、私自身が証明していた。

主が入院していると分かれば、空き巣の一人ぐらい入ってきてもおかしくない。


私がここにいたのは幸運なのか。

それとも、運が悪いのか。


驚かせて逃げてくれればいい。

けれど逆上されて襲い掛かられたらと思うと怖かった。


警察に通報?

この島に何件の警察署があるかわからない。

すぐに来てくれる保証なんてなかった。


私がこの家を守らなければ。

そう思うと手近にあった長い箒を握った。


一拍、深呼吸をする。

そして、勢いよく引き戸を開けた。


「誰ですか!!」


目に飛び込んできたのは、オーバーオールに汚れた白いTシャツを着た、私ぐらいの年齢の女性だった。

その女性は、なぜだか祖母の畑に水をやっていた……。

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