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婚約者に手柄を奪われ追放された私は……

橘柚葉は、ガラス越しに婚約者の横顔を見つけた。


同じ会社の同僚であり、付き合って三年になる恋人。

一年前から同棲している男性。

そして来年の春には夫になるはずだった男。


その玲司が、知らない女性と向かい合って食事をしていた。


最初は何かの間違いだと思った。

もうすぐ私の誕生日だから、プレゼント選びを手伝ってもらっているとか。


そんな都合のいい想像に縋ろうとした。


けれど、すぐに無理だとわかった。

玲司は私にはもう長いこと見せていない顔で笑っていた。


相手の話を黙って聞き、少しオーバーなぐらいの相槌を打ち、グラスが空けば自然に水を注ぐ。


私といる時の玲司は、そんなことをしない。

私が話している途中でスマートフォンを見る。

仕事の相談をすればため息をつく。


食事の店を選べば、

「そういうところが女としてズレている」

と笑う。


そして最後にはいつも同じ言葉を言う。


「君は本当に可愛げがないよね」


玲司にとっては何気ない言葉。

その言葉に傷つくことにも、もう疲れた。



夜、玲司が帰宅したのを見て尋ねた。


「一緒にいた人って誰?」


玲司は一瞬だけ眉を動かした。

それから面倒な資料を渡されたときのような顔をした。


「あぁ、莉緒のこと?」


名前を呼び捨てにした。

そのことに胸の奥が小さく軋んだ。


「会社の人?」

「まぁ、知り合い」

「二人だけで食事してたよね?」

「……見てたんだ」


玲司は悪びれなかった。

むしろ、私が悪いことをしたみたいに笑った。


「監視? 怖いなぁ」

「そうじゃなくて……私たち、婚約してるんだよ?」

「婚約したら、異性とご飯も食べたらいけないわけ?」


言い返そうとした。

だが言葉が喉の奥で止まった。


玲司は椅子にもたれ、私を上から下まで眺めるように見た。


「そういうところなんだよ、柚葉」

「そういうところって?」

「重い。疑り深い。可愛げがない」


また、その言葉だった。

何度も何度も投げつけられて、私の心に突き刺さった言葉たち。


「莉緒はさ、そういう面倒なこと言わないんだよね。

 素直だし、愛嬌もあるし、何より俺を立ててくれる」

「……比べないでよ」

「比べるよ。結婚する相手のことなんだから」


息が止まった。

玲司はまるで会議の予定を変更するみたいな軽さで続けた。


「俺さ、君との婚約、ちょっと考えなおしたいんだ」

「考え直すって……」

「正直、親に急かされたところもあったし。

 君は仕事はできるけど、家に入る女としては違う気がする」


頭の中が真っ白になった。

仕事はできる。

それは褒め言葉ではなかった。


女としての自覚が足りない。

玲司はそう言いたいのだ。


「それに最近、君も調子に乗ってるでしょ。

 俺の企画が通ったのだって、自分が資料を作ったからって顔をしてるしさ」

「そんなこと、思ってない」

「思っているよ。顔に出てる」


玲司は笑った。


「でも、上に話を通したのは俺だから。君は言われた通り資料を整えただけ。

 誰でもできることを言われた通りやっただけなのに、自分の手柄みたいにさ」

「……」


私は膝の上で手を握った。


あの企画の市場調査をしたのは私だった。

ターゲットを組みなおしたのも、パッケージ案を作ったのも、プレゼン資料を徹夜で直したのも私だった。


商品が売れるために、色々なことを考えてきた。

決して誰でもできることだとは思えない。


そんな企画は――玲司の名前で通った。


それでも婚約者だから。

同じ会社でこれからも一緒にいるのだから。


そう思って、私は黙って受け入れた。

それなのに……。


その沈黙を、玲司は都合よく受け取った。


「ほら、そうやってすぐ黙る。

 反論がないんじゃ話し合いもできやしない」


違う……。

話し合いを終わらせるのは、いつも玲司の方だ。


そう言いたかった。

言いたいことが沢山あった。


だけど……言えなかった。

言葉にならなかった。


そんなときだった。

私のスマートフォンが震えたのは。


着信だった。

電話に出るべきか。

玲司に窺おうと顔を上げたが、既に彼は自身のスマートフォンに目を落としていた。

彼にとって、既に会話は終わったものらしい。


画面には母親の名前が表示されていた。

こんな時間に掛けてくるのは珍しい。


私は逃げるように電話に出た。


「柚葉?」


母の声は、いつもより硬かった。


「落ち着いて聞いてね。

 お婆ちゃんが倒れたの」

「!?」


胸の奥に、玲司とは別の痛みが走った。


「お婆ちゃんが……?」

「うん、けど命に別状はないの。

 ただ骨折して入院することになって……しばらく家には戻れないんだって」


橘トキ。


瀬戸内の島で、一人畑を管理していた祖母。

夏休みのたびに私を迎え入れてくれて、一緒に遊んでくれた。


高校受験のために両親の帰省を断ってから、なんだか機会を逃して十年近く会っていない。

子供の頃はハキハキとしていた祖母が……。


嫌な想像が脳裏を過り、背筋が凍り付く。


母は続けた。


「それでね、柚葉。

 お婆ちゃんの家を少し片づけないといけないの。

 畑のこともあるし……」

「……」


母は私に、代わりに行ってほしいのだろう。


「……どうしよう」


祖母の家に行く。

そう口にしたいものの、私はまだ決めきれないでいた。


仕事のこと。

玲司のこと。

この家のこと。


どれも中途半端に投げ出す形になる。


玲司はそんな私を見て、短く息をついた。


「いいんじゃない。行けばさ」


あまりにも軽い声だった。


「仕事のことは父さんに俺から言っておくよ。

 プロジェクトも同じだし、大して引継ぎ事項もないでしょ?」

「……」


ありがたい提案ではあった。

だが同時に、まるで自分が不要であることを見せつけているようにも思えた。


「それに……お互いに頭を冷やすべきだと思うし」

「……」


お互いに。

その言葉が、やけに他人事みたいに聞こえた。


今の彼にとって、私はここにいない方が都合がいいということなのだろう。

その事実がたまらなく悔しかった。


だけど祖母が倒れたのは本当だ。

家の整理が必要なのも……。


そして何よりも私自身が、この部屋にいることにもう耐えられなかった。


「……わかった。

 家のことはお願いね」


そう言うと、玲司は鼻で笑った。


「君に言われなくても勝手にやるよ」


勝手に。

その言葉に胸の奥が冷えた。


「明日にでも出るといい」


出る。

行く、ではなく。


意図した言葉ではないのかもしれないが、玲司の深層心理のように思えた。


玲司にとって、私は行って帰ってくるものではなく。

できることならば出たままでいてほしい存在なのだろう。


きっと明日から、莉緒という女性が私の代わりにこの家へ来るのだろう。


私が使っていたマグカップをどかして。

私が選んだクッションに座って。

私がずっと立っていた場所に、何食わぬ顔で収まるのだろう。


そうわかっていても、今の私には彼を引き留める言葉がなかった。


怒ることも。

泣くことも。

責めることさえも。


どれも玲司の前では上手くできなかった。


「……わかった。

 明日からしばらく出ていくね」


玲司はもう私を見ていなかった。

スマートフォンの画面に目を落としたまま、気のない声で言う。


「どうぞ、どうぞ。ご勝手に」


その言葉で、私はようやく理解した。


私は逃げるのではない。

追い出されたのだ。


それでも行くしかなかった。

瀬戸内の島にある、祖母の家へ。

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