湯気ごと香る、島の夏みかんジャム
チャレンジショップへ戻ると、真帆さんはすぐに小鍋を取り出した。
「じゃあ、やってみようか」
私は持ってきた小瓶のジャムを、小鍋へ移した。
真帆さんが横から火をつける。
「弱火でいい。沸かしちゃだめだよ」
「沸かしちゃだめなんですか?」
「柑橘は香りが飛ぶ。温めるだけ。湯気が立つ手前で止める」
その言い方は、さっきまで車の中で笑っていた真帆さんとは少し違っていた。
菓子を作る人の声だった。
同時に、真帆さんは作り置きしていたスコーンをオーブンへ入れる。
「スコーンも焼き直す。
焼きたてとは違うけど、冷たいままより香りが戻る」
「戻る……」
その言葉に、石風呂の中で聞いた言葉を思い出す。
火が消えたあとでも、石が熱を覚えている。
ジャムも、スコーンも、もう一度温めれば、少しだけ何かを思い出すのかもしれない。
「しかし、ジャムの温め直しか。その発想はなかったな」
「そうなんですか?」
「うん。ジャムって普通、冷蔵庫からそのまま出すものだろう?」
「私もそう思ってました」
私は小鍋の中を見つめた。
弱火にかけられたジャムが、ゆっくりとゆるんでいく。
瓶の中で少し固まっていた艶が、熱を受けてほどけていく。
「自分で作ってみて、初めて知りました。
出来立てのジャムって、冷めたジャムと少し違うんだって」
それはこの島に来なければ知らなかったことだった。
たぶん、道の駅に来るお客さんにとっても同じだ。
出来立てに近いジャムを食べる機会なんて、きっとあまりない。
「きっとお客様にも初めての体験になると思うんです」
「温かいジャムを、スコーンと一緒に食べることが?」
「はい」
真帆さんは、にっと笑った。
「いいね。思い出になるおやつだ」
小鍋の表面が、かすかに揺れた。
湯気が細く上がる。
「そこで止める」
真帆さんが言った。
私は慌てて火を止める。
夏みかんの香りが、ふわりと立ち上がった。
さっき冷めた状態で食べたときより、ずっと近い。
祖母の台所で、初めて食べたときの香りに似ていた。
真帆さんも、オーブンからスコーンを取り出す。
手つきに迷いはなかった。
皿にスコーンを置き、その横に小さな器を添える。
私は温めたジャムを、そこへそっと移した。
湯気が、まだ淡く立っている。
「さあ、できたよ」
「おぉ……」
凪沙さんが、両手を合わせた。
「これは楽しみですねえ」
「凪沙、まず一口だけだよ」
「なぜですか」
「全部食べるからだよ」
「信頼がない」
「実績がある」
凪沙さんは不満そうにしながらも、スコーンをひと口分ちぎり、温かいジャムをのせた。
そして、ぱくりと食べる。
次の瞬間、目が丸くなった。
「……うまい」
飴玉の音すら止まった。
「うまいです、二人とも。さっきより、ずっといいです」
「本当ですか?」
「はい。スコーンの香りも戻ってますし、ジャムがちゃんと夏みかんです。
冷めた時より、苦味が丸い気がします」
「どれどれ、私にも食べさせて」
真帆さんも一口食べる。
少しの間、黙った。
その沈黙が怖い。
けれど、真帆さんはゆっくりと頷いた。
「なるほどね。柚葉が言いたかったのは、これか」
「……どうですか?」
「いい。冷たいままだと少し平らだった香りが、ちゃんと立ってる。
スコーンも、皮を混ぜ込むよりこっちの方がきれいだ」
胸の奥が、ふっと温かくなった。
「これなら明日、数量限定で出せる」
「本当ですか?」
「いきなり大きくはやらない。まずは十食。様子を見る」
真帆さんは、もう店主の顔になっていた。
「柚葉、黒板の言葉考えてくれるか?」
「はい」
私は黒板を前に立った。
すぐには書けなかった。
熱々。出来立て。温かい。湯気。夏みかん。島。
言葉はいくつも浮かぶのに、どれも少し違う。
熱々では、強すぎる。
出来立てでは、少し違う。
温かいだけでは、足りない。
私は石風呂の熱を思い出した。
火が消えたあとも、石が熱を覚えていたこと。
山の斜面と海が近かったこと。
小鍋から立った、夏みかんの香り。
私はチョークを持ち、黒板にゆっくりと書いた。
『湯気ごと香る、島の夏みかんジャム
温めたスコーンに、ひとさじ添えて』
書いてから、少し離れて見る。
「どうでしょう」
真帆さんは、腕を組んで眺めた。
「いいね。食べたくなる」
凪沙さんも頷く。
「私はもう食べたいです」
「あなたはさっき食べました」
「何度でも食べたいです」
真帆さんは笑うと、厨房の方を指さした。
「それじゃあ、一度シャワーを浴びて、明日の仕込みに取り掛かろう。
柚葉、凪沙、手伝ってくれるか?」
『もちろんです』
私はもう一度、黒板に書いた言葉を見つめた。
明日、お婆ちゃんレシピから生まれたジャムが販売される。
私の言葉で。
私の見つけた価値で。
でも、私だけの力ではない。
三浦さんの夏みかん。
凪沙さんが繋いでくれた人。
真帆さんのスコーン。
石風呂の熱。
山と海の近い景色。
その全部が、この一皿に入っている。
だから、届くかもしれない。
この島に来た誰かに。
湯気ごと、香りごと。
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