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湯気ごと香る言葉

石風呂から出たあとも、体の奥に熱が残っていた。

服は汗で湿っているのに、不思議と不快ではない。

むしろ、山の風が肌に触れるたび、体の中に残った熱の輪郭が分かる気がした。


「ちょっと寄り道しようか」


真帆さんが、車の鍵を指先で回しながら言った。


「まだどこか行くんですか?」

「いい場所があるんだよ」


そう言って、真帆さんは車を走らせた。


石風呂のある場所から、少しだけ山道を上がる。


道は細く、木々の間から日差しがこぼれていた。

数分走ったところで、真帆さんは小さな橋の手前に車を停めた。


山と山の間にかかった、短い橋。

ガードレールは低く、足元をのぞき込むと、谷のような斜面が下へ落ちている。


「ここ、好きなんだよね」


真帆さんはそう言って、景色の方を指さした。


車を降りた瞬間、目の前が開けた。


まず、近くに濃い木々。

その先に、斜面へ広がるみかん畑。

さらに下には、小さな家々が集まった集落。

そして、その向こうに、海があった。


「……綺麗」


思わず、声が漏れた。


山の中にいるはずなのに、海が見える。

畑の向こうに町があり、その先にまた水面が続いている。


この島では、山と海が別々の景色ではないらしい。

ひとつの画面の中に、全部が入っている。


木々も

畑も

家も

海も


「柚葉はさ、瀬戸内の島の特徴って知ってる?」


真帆さんが聞いた。


「みかんが有名ってことですか?」

「それもある。けど、私が最初に聞いて感動したのは、山と海が近いことなんだ」


山と海が近い。

言われて、ようやく腑に落ちる。


この島では、畑にいても潮の気配がある。

山道を走っていても、ふと海が見える。

畑と町と海が、ひとつの景色の中に収まっている。


「それ、当たり前じゃないですか?」


凪沙さんが不思議そうに首を傾げた。


『当たり前じゃないです!!』

「うへぇ……外の人が厳しい」


凪沙さんは、少しだけ身を引いた。


「厳しいんじゃなくて、知らなかっただけです。

 この島の価値を。都会にはない魅力を」


私は、もう一度景色を見た。


山の斜面に畑がある。

その下に家がある。

その先に海がある。


全部が近い。

近すぎるくらい近い。


だからこの島のみかんには、潮の匂いが混じるのかもしれない。


「この島の魅力が、私たちの暮らしていた場所まで届いていなかったんです」


自分で言って、はっとした。


届いていなかった。

価値がなかったわけじゃない。


その言葉が、胸の奥で小さく引っかかった。


美味しいのに、魅力的なのに、売れ残っていたなつみ。

その横に、ほんの少し言葉を添えただけで、誰かが足を止めてくれたこと。


自治会の資料を作った時もそうだった。

会社では誰でもできると思っていた作業が、この島では誰かに感謝されるものになった。


お婆ちゃんのレシピを見つけた時も。

自分でジャムを作ってみたいと思った時も。


そして初めて祖母のジャムのラベルを描いた時も―――

私はずっと、何かを届けようとしていたのかもしれない。


「……柚葉ちゃん?」


真帆さんが、横から顔をのぞき込んだ。


「なんだか難しい顔をしてるねぇ?」

「難しい顔というより、何か思いつきそうな顔です」

「そんな顔まであるのか」

「あります。柚葉ちゃんは、顔に資料の進捗が出ます」

「なんだか嫌な体質だねぇ」


真帆さんが、面白そうにこちらを見た。


「何か来た?」

「まだ、分かりません」


私は景色を見たまま答えた。


山だけではない。

海だけではない。

畑だけでも、町だけでもない。


全部が近くにあるから、この景色になる。


スコーンも同じかもしれない。


スコーンだけではない。

ジャムだけではない。


温度と香りと場所と人と。

それらが全て合わさって、初めてこの場所で食べる価値ができるのかもしれない。


「真帆さん」

「うん?」

「ジャムって、冷たいまま出さないといけないんでしょうか」


凪沙さんも、少しだけ首を傾げる。

真帆さんは目を細めた。


「どういうことだい?」

「瓶詰めしたジャムを付けるんじゃなくて、温かいジャムをスコーンにつけるんです」


口にしているうちに、言葉が少しずつ形になっていく。


「できたてじゃなくても、食べる前に少し温めるだけでいいのかもしれません。

 そうしたら、あの香りが戻る気がします」


お店で食べた時の違和感。

それは、香りだった。


冷めたことで祖母の家で食べた時に感じた、あの夏みかんの香りが少し遠くなっていたのだ。


「それに……」


私は、もう一度景色を見た。


山と海、畑と町。

近くにあるものが重なって、この景色になっている。


「スコーンとジャムを、ただ一緒に売るんじゃなくて。

 この場所で、香りごと食べてもらうものにしたいんです」


真帆さんの目が、少しだけ鋭くなった。

考えている顔だった。


「温かいジャムか」

「はい」

「この島で食べることそのものに価値を出すってことだね」

「たぶん……そうです」


まだ、自信はなかった。

けれど、さっきまでより息がしやすい。


「湯気の香る温かい出来立てのジャムを食べる。

 それ自体がお店でスコーンを買う理由になると思うんです」


私は祖母の台所で生まれて初めて出来立てのジャムを食べた。

その感動はきっとお客にも届くはず。


真帆さんは、しばらく黙っていた。

それから、にっと笑った。


「……いいね」

「いいんですか?」

「あぁ。少なくとも、私は食べてみたいと思ったね。

 温かい夏みかんジャムを添えたスコーンってやつを」


胸の奥が、少しだけ熱くなった。


ここで食べる理由。

それが、ほんの少し見えた気がした。


「よし。戻るよ。忘れないうちに試そう」

「今からですか?」

「善は急げ。ジャムは温めろ」

「それ、凪沙さんの担当では?」

「ことわざ枠を取られた……」


凪沙さんが、少しだけ悔しそうに言った。


「じゃあ、私も作ります」

「対抗するんですか」

「冷えたジャムには火を入れろ。冷えた心には島を入れろ」

「なんだか無理やり感が否めないですね……」

「今作りました!!」

「でしょうね!!」


真帆さんが笑う。

私もつられて笑った。


車に戻る前、もう一度だけ景色を振り返る。


山と海。畑と町。

冷めたジャムと、温める石。


全部が近くにある。

その近さの中に、きっとこの島の味がある。


私はまだ、この島のことを何も知らない。

でも、少しだけ分かった気がした。


価値は、ひとつだけで立っているわけではないのかもしれない。


人と人。

場所と食べ物。

温度と香り。


近くにあるものが、互いに結びついた時、初めて届く形になることがある。


その形を、私は言葉にしてみたい。

そう思った。

ここまで読んでいただきありがとうございます!!

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