夏みかんのジャム
台所のテーブルに、お婆ちゃんの試作ノートを広げた。
古い紙の匂いがした。
端は少し黄ばんでいて、何度もめくられたのか表紙の角は丸くなっている。
そこにはお婆ちゃんの字で、細かくいくつも果実を使ったジャムのレシピが書き込まれていた。
みかん、ブルーベリー、いちじく―――ページを捲り続けた。
「あった……」
夏みかん、と書かれたレシピ。
何度も試作されたその中の、最新のものを開く。
『夏みかん:三個』
『砂糖:実と皮の重さの半分くらい』
『皮:二回ゆでこぼし』
『苦み:抜きすぎんこと』
丸い字で、そう書かれている。
分かるようで、分からない。
夏みかんはどのくらいの大きさのものなのか。
砂糖はなんの砂糖なのか。
苦みを抜きすぎない、とは、どこまでのことなのか。
仕事なら数字にしたくなる。
けれど、お婆ちゃんのノートには、そういう正確さとは別のものが混ざっていた。
『香りが立ったら弱火』
『色が暗くなる前に止める』
『皮、少し厚め。噛んだ時に夏みかんが残るように』
感覚や記憶、長年の経験。
そういうものまで分量と同じ顔をして並んでいた。
「……難しいな」
思わず呟く。
手順だけなら、スマートフォンで検索すればいくらでも出てくる。
夏みかんの皮をむく。
実をほぐす。
砂糖を入れる。
煮詰める。
特別な魔法が必要なわけではない。技術も経験も。
ジャムは、大量生産もされている食品だ。
けれど、お婆ちゃんが残したかったものは、ただの手順ではない気がした。
私はノートの文字を指でなぞる。
『苦み、抜きすぎんこと』
苦みは、普通なら欠点だ。
食べやすくするなら、できるだけ消した方がいいのかもしれない。
けれど、お婆ちゃんはそれを残そうとしていた。
『島の味が消える』
売れる味にするなら、苦みは消した方がいいのかもしれない。
誰にでも分かりやすく、甘く、食べやすく。
でも、消してしまったら。
それはもう、お婆ちゃんのレシピではなくなる気がした。
「……よし」
私は夏みかんを一つ手に取った。
三浦さんがくれた夏みかん。
形は少し不揃いで、皮には小さな傷もある。
けれど、手に乗せるとずしりと重く、爪を立てる前から、ほのかに爽やかな香りがした。
包丁を入れる。
厚い皮に刃が沈み、ぷつりと白い筋が切れる。
その瞬間、夏みかんの香りが台所いっぱいに広がった。
実を取り出し、薄皮を外す。
皮は細く刻んで、鍋でゆでこぼす。
一回目。
お湯にかすかな苦みの匂いが移る。
二回目。
皮は少し柔らかくなった。
三回目をするべきだろうか。
スマートフォンで見たレシピには、三回ゆでこぼすと書いてあるものもあった。
私はノートを見る。
『苦み、抜きすぎんこと』
「……二回で、止めてみよう」
それが正解なのかは分からない。
けれど今は、ノートの中のお婆ちゃんを信じてみる。
実と皮の重さを量る。砂糖を入れる。鍋を火にかける。
最初は水っぽかった鍋の中身が、少しずつとろみを帯びていく。
木べらで底をなぞるたび、夏みかんの皮と果肉がゆっくりと混ざった。
焦げないように。
でも、潰しすぎないように。
「色が暗くなる前に止める……」
ノートの言葉を、小さく口に出す。
色が暗くなる前。
それがどこなのか、私にはまだ分からない。
けれど、鍋の中で浅い橙色がつやつやと光り始めたとき、私は火を止めた。
「できた……」
鍋の中で、夏みかんのジャムが光っていた。
浅い橙色。
ところどころに残った果肉。
細く刻んだ皮が、透明な蜜の中に沈んでいる。
売り物でも、商品でもない。
ただの試作品。
けれど、自分の手で作ったものが、確かに目の前にある。
そのことが、思っていた以上に嬉しかった。
「やったぁ……」
口から、小さな声がこぼれた。
「さっそく食べましょうよ」
背後から、待ってましたと言わんばかりの声がした。
振り返ると、凪沙さんが当然のように食卓の前に座っている。
「早くないですか?」
「ジャムは熱いうちに喰え、です」
「……鉄は熱いうちに打て?」
「細かいことはいいんです」
そう言って、凪沙さんはどこからともなく食パンを取り出した。
「どうしたんですか、そのパン……」
「こんなこともあろうかと、知り合いのパン屋さんで買ってきました」
「用意が良すぎません?」
「食べる準備に手を抜く人間は、人生で負けます」
「またことわざ作りましたね」
「これは信念です」
要領がいいというか、食い意地が張っているというか。
けれど、渡りに船であることには変わりない。
私は小皿を用意し、できたばかりのジャムを少しすくった。
食パンをちぎって、そこにのせる。
近づけると、夏みかんの爽やかな香りがふわりと広がった。
口に入れる。
「……おいしい」
思わず、声が出た。
甘い。
けれど、ただ甘いだけではない。
夏みかんの皮のほろ苦さが、舌の奥に残る。
果肉はやわらかく、けれど完全には溶けきっていない。
噛むと、じゅわっと香りが広がった。
市販のジャムより、少しだけ粗い。
その粗さが、かえって果物を食べている感じを残している。
これまで食べたジャムの中で、一番おいしい。
そう思った。
けれど、それは自分で作ったからなのかもしれない。
手間をかけたものは、少しだけ贔屓してしまう。
自分の子どもを可愛く見るみたいに。
「うん。おいしいですね」
凪沙さんは、当然のように二口目へ進んでいた。
「それに、少し近いです」
「近い?」
「トキさんの味に。確か3番目」
胸の奥が、小さく跳ねた。
「……本当に?」
「はい。
でも、トキさんの方がもう少し苦かったです。
あと、皮が少し厚かったかも」
近い。
でも、同じではない。
その言葉に、嬉しさと悔しさが同時に湧いた。
「やっぱり、作り直した方がいいですね」
気づけば、そう言っていた。
凪沙さんが、パンを持ったまま固まる。
「え?」
「もっと近づけられるはずなんです。
皮をもう少し厚くして、苦みを残して、煮詰める時間も変えて……」
言葉が止まらなくなる。
「それに、真帆さんのお店で出すなら、普通のジャムじゃ意味がないんです。
数あるジャムに埋もれます。
島の夏みかんを使っているだけじゃ弱い。
何か、もっと――」
「柚葉ちゃん!!」
凪沙さんの声で、思考が切れた。
口の中で、からりと飴玉が鳴る。
「また会議室の顔になっとる」
「……会議室の顔?」
「眉間が詰め物みたいになってます」
「どんな顔ですか、それ」
「企画書に魂吸われた顔」
私は思わず黙った。
否定できなかった。
「満足してないんですか?」
「……おいしいとは、思います」
「うん。おいしいです」
凪沙さんは、あっさり言った。
「でも、何かが足りないんです。
トキお婆ちゃんの味とも違うし、この島でなければ食べられない何かがあるのかも、まだ分からない」
そうでなければ、真帆さんのお店の役には立てない。
そうでなければ、お婆ちゃんのレシピを使ったなんて言えない気がした。
「気持ちは分かります」
凪沙さんは、パンにジャムをのせながら言った。
「でも、自分を責める方向に煮詰めたら、ジャムも人間も焦げますよ」
「……またことわざですか?」
「半分くらい本気です」
凪沙さんは、ぱくりとパンを食べた。
「私は、おいしいと思います」
「でも」
「足りないものを探すのと、できたものを否定するのは別です」
その言葉に、私は黙った。
凪沙さんは、もう一口パンを食べてから、鍋の中をのぞき込んだ。
「これ、おいしいです。
そこはまず信じていいと思います」
「……はい」
「それに、お菓子のことなら真帆ちゃんの方が詳しいです」
「真帆さん……」
「柚葉ちゃん一人で答えを出さんでいいんじゃないですか」
一人で答えを出さなくていい。
その言葉は、思っていたよりも深く胸に落ちた。
会社では、提案する前に答えを完成させておかなければならなかった。
穴を突かれないように。
責められないように。
誰にも奪われないように。
会議室に出す前に、弱点を全部潰しておく。
笑われないように。
見下されないように。
玲司の隣で、私はずっとそうやって働いていた。
けれど、この島では違うのかもしれない。
まだ足りないものを、誰かと一緒に探してもいいのかもしれない。
「でも、真帆さんに持っていって、がっかりされたら……」
「がっかりしたら、真帆ちゃんはそう言いますよ」
「それはそれで怖いんですけど」
「でも、黙って嫌うような人じゃないです」
凪沙さんは、少しだけ笑った。
私は、鍋の中のジャムを見た。
まだ分からない。
このジャムの差別化点も。
真帆さんのお店でどう使うべきかも。
本当に誰かに食べてもらえるものなのかも。
でも、全部を一人で決めなくてもいいのなら。
まずは、食べてもらうことから始めてもいいのなら。
「……小さい瓶あるかな?」
「ありますよ」
凪沙さんは即答した。
「なんで知ってるんですか」
「トキさんの台所ですからね。瓶はだいたいあります」
そう言って、凪沙さんは戸棚を開けた。
中には、洗って乾かされた空き瓶がいくつも並んでいた。
形も大きさもばらばらで、ラベルの跡が残っているものもある。
その一つを手に取ると、少しだけ胸が鳴った。
祖母も、ここで何かのジャムを詰めていたのだろうか。
みかん。ブルーベリー、いちじく。
それと、誰かに渡したい気持ち。
私は瓶を洗い直し、できたばかりのジャムをそっと詰めた。
売るためではない。
まだ、完成品でもない。
まずは、真帆さんに食べてもらうために。
「……持っていってみます」
「はい」
凪沙さんは満足そうに頷いた。
「ジャムは一人で煮ても、味見はみんなでした方がいいですから」
「それも今作りました?」
「これは、かなりの自信作です」
そう言って、凪沙さんは残ったパンの端に、またジャムをのせた。
「味見、まだ続けるんですか」
「念入りにしないと」
「ただ食べたいだけですよね」
「真実は、飴玉のように丸めておくのが平和です」
「絶対今作りましたね」
凪沙さんは、にししと笑った。
私は小瓶に蓋をして、そっと両手で持った。
温かさが、まだ少しだけ残っている。
このジャムは、まだ答えではない。
でも、答えを探しに行くための最初の一瓶にはなるかもしれない。
そう思うと、不思議と少しだけ息がしやすくなった。
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