夕暮れ時
夕暮れ時、私の足はT大へと向いていた。
刺すような鮮やかな夕陽とは異なり、私の頭の中はぼんやりと靄がかかっており、硬いはずのアスファルトの地面さえも虚ろであやふやなものに思えた。
大学生には夏休みはないのだろうか。夕暮れ時でありながら、T大の方向から自転車やら徒歩やらで岐路に着く大学生らしき数人の男女とすれ違った。彼らの顔はどこか疲れており、どこか嬉しそうだった。「久しぶりの酒」というキーワードらしき言葉が聞こえてきたことから推察するに、彼らは今から街に繰り出し、楽しい夜の時間を酒と共に過ごすのだろう。
私は1人だった。母とは森の出口で別れた。車に乗り込む気分にはなれなかったし、少し頭の中を整理したいという思いが強かったからだ。母は不安そうに私の瞳をじっと見ていたけれど、私は「寄るところがある」と言い残してそのまま白のセダンに背を向けた。
「残念ながらお前はコアの血を引いているということになる」
父を名乗るナオトに言われた言葉が頭にくっきりと残っている。
正直に言うと心底驚いた。私が一部とはいえ、コアであったことが衝撃だった。それでも特に不快ではなかったのは自分でも意外なことだった。
あの時、強張る顔の筋肉をできるだけ解すように努め、私は平静を保った。ナオトは私の必死な努力に気付かないのか、丁寧に解説を続けた。
「純粋なコアはセルに入る際に記憶を消されるが、混血ならば大丈夫だ。それはカオルが身を張って証明してくれた」
「お母さんが……?」
私が母に視線を送ると、彼女は申し訳なさそうに頷いた。黙っていたことに何かしらの罪悪感があるようだ。
「私はハーフなの。父はコアだった」
両親のことを知らない私が、既に亡き祖父のことを知っているわけがない。遠くに住む見知らぬ人間の話を聞くような気分だった。
「時間は限られている。セルには明後日侵入する」
「明後日?」
「明後日は半年に一度行われているセルの定期点検の日だから」
「定期点検とか、どこかの工場みたいね。そもそもセルはどこにあるの?」
国会議事堂に侵入するのとは訳が違う。侵入する場所が極めて不明確であり、そもそも抽象的過ぎて存在すら怪しいのだから。
「セルの入り口はT大にある。単純だ。開発した前園がT大の人間だからな」
「T大に……」
ふとサハラの顔が浮かんだ。笑うと目尻ができる平凡な人の良さそうなチンピラ男。彼はT大の助教だったはずだ。
「チェキ達はこの計画を知ってるの?」
「エソラが知らせているはずだ。昨日か今日に」
エソラも知っているのか。そういえば母も先ほどエソラを知っていたようだった。どうやら私の知らない繋がりが彼らにはあるらしい。
「そういうわけだ。お前には申し訳ないが、チェキ達に同行してもらう」
「拒否権はないんだね」
私がそう言うと、ナオトは吹き出すように笑った。
「お前は拒否しないだろ?」
「なんでそう思うの?」
ナオトは首を傾げたまま不敵な笑みを浮かべている。彼が口を開くことはなかった。
私はあの森で告げられた指示をなぞるように思い出す。母との久しぶりの外出。父との初対面。セル侵入作戦。私がコアの血を引いていること。様々なことがありすぎて、頭の中が散らかっている。
今T大に向かっていることも、意図があってのことではない。ただ歩きたかった。セルがあるというT大がただ頭に浮かんだから目的地にしただけだ。T大に入るつもりはないし、その入り口まで辿り着けば、引き返すつもりだった。
日が落ちようとしているにもかかわらず、未だに気温は下がることはない。オレンジ色に照らされた道路を私は歩き続ける。じっとりと額に汗が滲んでくる。
遠くにT大が見えてきた。レンガ造りのレトロな建物と、高層ビルのような近代的な造りの建物が並んで建っている光景は異様なものに思えた。
私の知能じゃT大には絶対入れないだろうな。私はそう思い、そして苦笑する。コアの血を引いていても、能力は平凡な人間に過ぎないではないか。私にはチェキの持つ強大な力や、聡明な頭はない。ふといつぞやのサナのメールを思い出した。
『もし、自分が知らん間にコアになってても、あれじゃ気付けんなぁ』
サナの言うとおりだ。私は全く自分の血について知らなかった。
大学の入り口には門はなかった。その代わりに「ここからが大学の敷地だ」というように、アスファルトの地面が石畳に変わっている。足を踏み入れると不法侵入者として警報機が鳴り出すような錯覚に囚われたけれど、当然そういうことにはならなかった。片足を石畳につけ、もう片方の足をアスファルトに残したまま私はその場で硬直した。
「あれ。滝島さん?」
私はびくっと身体を震わせた。T大の構内から姿を現したのはサハラだった。彼の金髪が橙の光を帯び、燃え盛る太陽のように輝いている。相変わらず全身黒ずくめの服装で悪魔のように見える。
「キミとはよく会うね」
彼も1人だった。金髪のチンピラの彼がT大で出現すると、本当に彼が知的なT大の人間であるということに現実味が出てくる。
「こんなとこで会うなんて思わなかったけど」
私は頬が熱くなるのを感じた。こんなところにいれば、私がサハラに会いにきたみたいではないか。
言い訳を考えようとしたけれど、頭の中が散らかっているせいか、何も浮かばなかった。何を言っても、変な誤解を生むような気もした。慌てる私を茶化すように、彼は穏やかな笑みを浮かべて「俺に会いにきたの?」と訊ねた。
「違います。なんか歩きたくて」
「なるほど。確かにそういう時もある」
納得したようにサハラは深く頷いた。
「俺もたまに物思いに耽ることがある。昨晩もそうだった」
軽薄なその容姿で、そのようなことを言われても信憑性に欠ける。
「昨夜は何かあったんですか?」
「あった。女子高生には話せないようなことが」
「何それ。気になるなぁ」
「つつかれても言わないよ」
サハラはぴしゃりとそう告げてから、彼の右腕につけられた銀色の腕時計を見る。
「サハラさんはご飯ですか?」
「そうだよ。前と一緒だな。どうやら世界はどうしても俺達に援助交際をさせたいらしい」
彼の言い回しがおかしくて私は笑った。それに合わせてサハラも笑った。
「今日は車がある」
サハラはズボンのポケットから革のキーホルダーを取り出した。どこにでも行けると言いたいのだろう。
後髪を引かれてもいた。おそらく自宅では母が何かしらの晩御飯の用意をしているに違いない。私の帰りを待ち、私との一分一秒を噛み締めるように大切に過ごしたいと思っているかもしれない。娘として出来る親孝行は、真っ直ぐに家に帰ることだ。
しかし一方で猛烈に反抗する自分がいた。散らかった頭のまま、自宅に帰り母と向き合うことが億劫で仕方ない。
気がつくと私は口を開いていた。
「いい店を知ってます」
積極的な私の態度が意外だったのか、彼は一瞬目を丸くした。
「ご飯、一緒に食べませんか?」
私からの誘いが嬉しかったのか、サハラはほんの少し瞳を輝かせて微笑んだ。
「よろこんで。マドモワゼル」
高貴な家柄の挨拶のように彼は頭を垂れて、そう言った。おどけたピエロのようで、私は再び笑ってしまう。