神様の暇つぶし
私はサハラの車に乗り込んだ。黒いセダンの車体には艶がなく、内装にもこだわりが一切見られないことから、彼の車に対する愛情の無さが窺えた。指摘すると彼は目尻に皺を作って笑いながら「走ればそれでいい」と言った。
「サハラさんみたいな人は車好きでブイブイいわせてるイメージなんですけどね」
「どういう意味?」
「あくまでイメージですよ。深い意味はない」
どこか不本意な様子でサハラは首を傾げた。
「前園先生は見つかったんですか?」
私が訊ねると「まだだよ」とサラリと答えた。躊躇いも隠す様子もない。
「前園先生は今警察が一生懸命探してくれている」
「そうですか。先生とは親しいんですか?」
「どうだろう? 俺は嫌いじゃないけどあっちはどうだろうな。いつも無理を言ったりしているから嫌っているかもしれない。そもそも」
サハラはそこで口ごもった。気になったので「そもそも?」と続けてみる。
「あんまり言いたくないな」
「?」
「これ以上言うと、キミは俺に幻滅すると思う」
「何ですか、それ」
思わず笑ってしまう。大の大人が高校生に許しを乞うような切なくも脆い響きを帯びている。
「大学は夏休みでも大変そうですね」
湿りかけた空気を追い払うように私が言うとサハラは「そうかな」と首を傾げる。
「夏休みでも活気があります。さっきも大学生らしき人とすれ違いましたし」
「俺からすれば無駄な時間を過ごしているように見える」
「サハラさんは学生に厳しいな。あ、そこを右です」
私の急な指示でも、彼は忠実にハンドルを回した。広い国道から閑静な住宅街へと入った。
「俺が言うのもなんだけど」
「何ですか?」
「警戒したりしないのか? 女があまり知らない男の車に乗り込むのは危険が伴うだろう?」
私は笑顔が硬直するのを感じた。そして石灰の銅像のように、やがて脆く崩れゆくのが分かった。
「それとも何かあったのか?」
前方ばかり見ていたサハラがようやくこちらを見た。日が落ちたせいか漆黒の瞳が更に黒く深い闇を秘めているように見えた。私は全てを見透かすような瞳に耐えられず目を逸らした。
「本音を言うと、家に帰りたくないんです」
サハラはへぇと関心があるのか無いのか分からないような声をあげた。
「母が帰ってきてるんです」
「写真を持ち歩くほど会いたいんじゃなかったのか?」
咎めるような口調ではなかったけれど、問いただすような響きがあった。私はイエスともノーとも言えなかった。脳裏に母の申し訳なさそうな顔と、父の貼り付いたような無表情がよぎった。会いたいという意思はなかったはずだった。仕事にかまけて私を放置する母も、存在すら怪しかった父も、私の心を占めているとは決して思わなかった。けれど。
「会いたかったから、会ってショックだったのかも」
呟きに近い言葉を吐くとサハラは「難しい事を言うなぁ」と嘆くようにして言った。
「推理小説の犯人が分かったけど、予想よりつまらない結果でがっかりしたという感じですよ」
「つまらない結果だったのか?」
「つまらないっていうのは語弊があるかも。知らない方が良かったというのが正しいと思う。知らない方がいいように想像できたのになって今だから思うんです。そんながっかりするような真実を急に母に告げられちゃってあんまり今会いたくないなぁって」
私は誤魔化すようにへらっと笑ったけれど、サハラは笑わない。彼にはいつも私の誤魔化しは通用しないようだ。信号が赤だったので、車は緩やかに停止した。
「別に自暴自棄になってた訳じゃないですよ。サハラさんは私の恩人だし、優しい人だと思っています。サハラさんは危険な人ではない」
「そう言っていただけるとありがたいね」
「というより、サハラさんはあまり知らない人ではないです。信頼に足る優しい大人。少なくとも私はそう思ってます」
私がそう言うと、サハラは目を丸くして口をポカンと開いたままこちらを見ていた。信号が青になり私が「サハラさん」と呼ぶと我に返ったのか「あ、あぁ」と彼は首をぶるぶる振ってアクセルを踏んだ。
「どうしたんですか?」
「どうもしないけど、不思議な気分だった」
「え?」
目を細くして前方を見つめるサハラの表情はどこか戸惑っているように見えた。
「すごい巡り合わせだと思ってさ」
「え?まぁ、そうですね。3度も偶然に会うなんて」
私の言葉に少し困った顔を浮かべたサハラの真意は分からないが、私は「運命ですね」とおどけて言った。それを聞いて「そうなのかな」とサハラは笑った。
「神様が知っている」
私がそう言うとサハラは「神様がいればね」とまた笑った。
「サハラさん、着きましたよ」
右斜め前に古ぼけた喫茶店が見えた。以前チェキに連れられてゴーヤチャンプルを食べた「ヒナタ」だ。サハラは狭い駐車場に車を停めて、ハンドブレーキを引いた。
私が車のドアを開けて、地面に足を着けて振り返ると、運転席でサハラがごそごそとポケットの中の携帯電話を取り出しているのが目に入った。
「着信が入ってるみたいだ。先に入っててもらっていい?」
どうやらかけ直したいらしい。1人で喫茶店に入ることに抵抗があったけれど、駄々をこねるのもはばかれたので私は黙って頷いた。
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滝島セツナが喫茶店に入るのを見届けてから、サハラは開いたままの携帯電話のディスプレイを見た。そのまま真ん中のボタンを押し、電話を耳にあてる。3コールしてから「サハラ君?」となれなれしい声が聞こえてきた。
「何だよ、タテナリ。もう終わったのか?」
タテナリが「無事に」と短く言った。サハラの頭の中で電話の向こうのにやけたタテナリの顔が浮かんだ。
「捕まえた友達はどうしようか」
「今どうしてる?」
「寝てるよ。血だらけになったままぐっすりだ」
ケタケタと笑う声が聞こえた。
「後で顔を出すよ。T大のP棟に運んどいて」
「あれ。褒めてくれないの? 俺頑張ったのにぃ」
ふてくされるタテナリの顔を想像してサハラは苦笑した。相変わらず無礼な奴だなと思う。
「今サハラ君、何してるの?」
「デートだよ」
飾らずに言ったつもりだったが、タテナリは何かの隠語のように受け取ったらしく「いいねぇ。デート」と低い声で言った。
「サハラ君とデートできるラッキーガールに会ってみたいよ。昨夜の子?」
「違うよ」
「遊びを満喫してるなぁ。神様の暇つぶしだね」
サハラが黙っていると、電話の向こうから「じゃあ後で」と言う声が聞こえて一方的に電話をきられた。
神様の暇つぶし。サハラはその単語を反芻する。その響きはサハラに希望を与えてくれる。それは自らがやがて完全なる存在へと進化を遂げることを暗に示してくれる。
しかし一方で彼は胸の中の疼きを感じていた。それが絶望であることを知っていた彼は当惑していた。
先ほど「巡り合わせ」という言葉を彼は使った。その本当の意味を滝島セツナは知らない。ただ3度会っただけじゃない。彼をかつて追い詰め、滅ぼした天敵とも呼べる女の娘と3度も再会したことに彼は驚きを隠せなかった。更に言うならば、その娘が世界にとって無害ではない彼のことを「信頼に足る優しい人」と述べたことが彼を激しく揺るがせた。
「運命……か」
彼は世界に神などいないことを知っている。辿るべき未来が創造されていないことも知っているけれど、サハラはこの時ばかりはそれらの存在を信じたくなった。




