3. 魔王が討伐された日
ルミナ・シティを一望できる、見晴らしのいい丘の上。
夕方と夜の境界線が見える空の下、ヴァルガンは腰を下ろして眼下の街並みをぼんやりと眺めていた。
街の中央で燦然と輝くルミナ・ドーム。
トップアイドル、ステラが君臨するあの舞台。タケルと共に「いつかあそこに立つ」と誓い、目指し続けてきた頂の場所。
街の破壊は何一つ成し遂げられなかった。
手を下そうとするたびに、タケルと駆け抜けてきた日々の記憶が邪魔をした。
『世界のためにアイドルを辞めなさい。タケルとの夢を諦めて、この街から姿を消して、誰も追ってこられない遠い場所へ逃げなさい』
ルミナスの宣告が、冷えた風と共に胸の奥を吹き抜けていく。
「……我は、魔王だ」
ヴァルガンの唇から、呟きが零れる。
世界を統べ、神々にすら抗った絶対の支配者。
「だが、何も壊せず、歌うことも許されぬなら……。定められた己の役割すら果たせないのなら……我は一体、なんなのだ……?」
答えが返ってくるはずもない。
夜風が草を揺らす音だけが響いていた。
「ぜぇ、ぜぇ……やっと見つけた……!」
不意に、丘を駆け上がってくる足音と共にタケルが姿を現した。
肩で息をしており髪はボサボサ、表情が疲れ切っている。
「タケル……? なぜ、貴様がここに」
「なぜ、じゃねえっての……。どれだけ探したと思ってんだ」
タケルは膝に手をつき、肺の空気をすべて吐き出すように大きく息をつく。
額にはびっしりと汗が浮かんでいた。
「レオンさんに朝から買い物に付き合わされ、酒を奢らされ、部屋の掃除までやらされて……。ようやく終わって帰ったらお前、家に居ないし!」
「……」
「あくび亭で『昼過ぎに肉食って帰った』って言われるし、騎士団の詰め所で『見回りを手伝ってもらった』って言われるし、孤児院で『おじちゃんに遊んでもらった』って言われるし!」
「寄った場所をすべて把握されているとは」
「当たり前だろ、ルミナ・シティ中を走り回ったんだぞ! 完全オフだからって、丸一日連絡なかったら心配するに決まってんだろ」
タケルは勢いのままに文句を言いながら、袖で額の汗を拭った。
それからヴァルガンの隣まで歩み寄り、手を差し出す。
「晩飯の買い出し頼んだのに、ネギ一本持ってないし……。ほら、帰るぞ」
普段と変わらない、小言まみれの日常。
ヴァルガンは立ち上がろうとはしなかった。
視線をルミナ・ドームへと戻し、ぽつりと問いかける。
「タケル」
「なんだよ」
「我は……なんだ?」
あまりにも唐突で、いつになく弱々しい言葉。
タケルは怪訝そうにヴァルガンの顔を見つめた。
「は? 何言ってんだ、急に。頭でも打ったのか?」
「いいから答えろ。貴様にとって、我は一体なんなのだ」
ルミナ・ドームを見つめる表情から、いつもの不遜さは消え去っていた。真紅の瞳は揺れ、すがりつくような色を宿している。
タケルは一瞬呆気にとられたが──すぐに、ふっと口元を緩めた。
夜空を見上げながら、わざとらしく指を一本ずつ折っていく。
「そりゃ、決まってんだろ。身体と態度がデカくて、すぐ人を愚民呼ばわりして、相手の話を聞かずに暴走する……超ワガママで厄介極まりない魔王様」
「なんと無礼な」
「で、ダンスや歌を練習して、俺が倒れたらステージを投げ出してまで助けに来て、ライブしたら何千人もの心を掴む……最高にカッコいい『RE:Genesis』のアイドル。それと……」
タケルは三本目の指を折り、ヴァルガンに笑顔を向けた。
「一緒にトップに立つって約束した、俺の相棒だろ」
風が止まった。
ルミナ・シティの煌びやかなネオンが、遠くで瞬いている。
「……そうか」
ヴァルガンはそう言って、ゆっくりと立ち上がった。
「相棒、か……。クク、そうであったな。我としたことが失念しておったわ」
「いきなりな上に今更すぎる質問でびっくりしたよ」
「フン、気にするな。腹が減ったから帰るぞ」
「へいへい、相変わらずだな魔王様は。つーか、家に帰っても食材が──」
歩き出しかけたタケルが振り返り、固まった。
困惑した様子でヴァルガンをじっと見ている。
「……どうしたんだよ、お前」
「何がだ? 気にするなと言ったであろうが」
「だって、泣いてる……」
「む?」
魔王は大きな手を自分の頬に当てる。
濡れていることに今、気づいた。
涙がとめどなく溢れ出していた。
頬を伝い、顎から地面へポタポタと落ちていく。
「……どうして我は、泣いているのだ?」
ヴァルガンは頬を手で拭った。
拭っても拭っても、涙は止まる気配を見せない。
「お、おい、大丈夫か? どっか痛いのか?」
「傷は受けておらん。なのに……」
痛い。胸の奥が、身体の中心が痛い。
この痛みがなんなのか、魔王にはわからない。
「涙など、弱さの証のはずだ。魔王である我が、なぜこのようなものを……」
喉が引き攣り、言葉が途切れる。
恐怖の象徴、世界を滅ぼす存在だと定められていた。
でも、魔王として振る舞うこともできず、空っぽになってしまった。
なのに、この男は言ってくれた。
傍迷惑な魔王で、アイドルで、相棒だと。
「……っ!」
「うわっ!?」
次の瞬間、タケルの視界が塞がれた。
ヴァルガンの両腕で、力任せに抱きしめられていた。
「ぐぇっ……!? ちょ、ヴァルガン! 力、強いって……!」
「う……ぐぅっ……あああっ……!」
耳元で、魔王が子供のように泣きじゃくっていた。
タケルの肩口に顔を埋め、全身を震わせている。
「……」
タケルは暴れるのをやめた。強烈な力で抱きしめてくる腕からは、失うことへの怯えが伝わってきた。
何があったのかはわからない。
でも、聞く必要なんてなかった。
痛みをこらえ、タケルはそっと両腕を伸ばした。
ヴァルガンの背中に手を回し、抱きしめ返す。
「ぐっ、うう……あぁ……」
夜の帳が二人を包み込んでいく。
魔王はタケルを抱きしめたまま泣き続けた。
伝説の聖剣も、神々の祝福も、大掛かりな儀式も必要なかった。
かつて世界を絶望の底に叩き落とした魔王、ヴァルガン・ヴォル・ディアボロスは既に討伐されていたのだ。
二人でトップアイドルになると約束した、あの日に。




