20. 不完全な計算式で導かれた完成
豪雨の中、ルナのステージが始まった。
彼女の持ち歌、『Absolute』のイントロが魔導スピーカーから鳴り響く。
いつもとは違い、音が掻き消されてしまいそうな環境。
常に涼しい顔でパフォーマンスを見せてきた彼女が、雨風に晒されている。
その非日常的な光景は、見る者の目を惹きつけて離さない。
(いつも通り。カメラアピール、ステップの幅、照明の角度……すべて完璧に)
ルナは己の内に組み込まれた回路を起動させた。
だが、嵐は緻密な計算式を容赦なく乱していく。
『♪ありえないこと、ありえないもの』
(……っ!?)
歌い出しと同時に踏み出した右足が、ステージの水たまりでズルリと滑った。
ミリ単位で調整していたステップの歩幅が狂い、予定の立ち位置からズレる。
(ステップ幅、マイナス五センチ。修正……)
ルナは咄嗟に重心をコントロールし、転倒を免れた。
しかし、その一瞬の修正が次の遅れを生んでいく。
『♪水面に映る月が、本物になるような』
強風が彼女の髪を容赦なく煽り、視界を遮った。
雨で濡れ、重りとなってドレスが体に纏わりつく。
ターンをするたびに体力を奪い、軽やかな動きを阻害する。
『♪僕たちにとっての、ただ一つの答えを』
カメラと目線を合わせようにも、風で煽られた魔導カメラの位置がズレて狙い通りにならない。照明も強風で揺れ、ルナに当たる光の角度が安定しない。
『♪まるで最初から、知っていたような』
踏ん張ろうとしても足元が滑るせいで、体幹がブレる。ブレは呼吸に影響し、いつもなら透き通るように伸びる高音が上滑りして震えてしまう。
(タイミングがコンマ三秒ずつ遅れてる。声の伸びも、普段の七十パーセント以下。ターンのキレもない)
ルナは冷たい雨に打たれながら、頭の中で警報が鳴り響くのを感じていた。
大勢の観客の前で、出来が悪い商品を提供し続けてしまっている。
(いつもの品質を維持できていない、どう考えても失敗)
彼女の「完璧なアイドル」としての合理性が、今の自分を否定する。
計算通りの動きができない。最高の結果を出せない。
彼女にとって、これではステージに立つ意味がないと同義。
(こんな低クオリティなパフォーマンス、評価されるわけがない)
ルナの冷たい計算回路が、エラーを弾き出し続ける。
ところが。
「ルナーっ! 頑張れーっ!」
「負けるなーっ! そのままやりきれー!!」
ルナの予想に反して、雨よけテントの下からは信じられない声が上がっていた。
完璧なパフォーマンスに対する称賛とは違う。
もっと熱く、魂の底から絞り出されたような応援の歓声。
『♪運命なんて言葉では説明できない』
人形のような美しさを持つアイドルが、雨に打たれながらも必死にステージに立ち続ける姿。滑りそうになっても踏みとどまり、乱れた髪の隙間から強い眼差しで前を見据え、懸命に歌を届けようとする。
彼女が今まで見せてきた隙のない芸術品としての美しさではない。
生身の人間としての奮闘。それこそが、今このステージで観客が最も見たいと望む「アイドルの形」だったのだ。
(なぜ?)
ルナは歌いながらも、頭の中で激しく混乱していた。
意味がわからない。
(なんで盛り上がっているの? 最高の質じゃない。価値が下がっているのに、どうして?)
合理的な計算と、理屈じゃない熱。
二つの全く異なる感情が嵐のステージで激しく交錯する。
『♪偶然なんて言葉では済まされない』
エラー、エラー、エラー。
彼女の思考回路は、処理能力の限界を超えようとしていた。
そんなルナの思考を知る由もなく。
ステージ裏のモニターで見守っていたタケルが、驚きで声を漏らす。
「凄い……雨で最悪の状況なのに、やっぱり上手い……!」
「流石にミスは増えておるが、あそこまでやれるとはな」
タケルの隣で、感心したようにヴァルガンも頷いている。
今のルナのパフォーマンスは、確かに従来の完璧さからは程遠い。
だが、これまでの参加者の中でパフォーマンスと見せ方はずば抜けていた。不完全さすら魅力に感じられるほどの「何か」が、画面越しでも伝わるほどに。
曲は終盤のクライマックスへと突入する。
最も魅せるべき、キメのシーン。
ルナは大きくステップを踏み出したが──
『♪あらゆる論理の果てに……っ!』
雨で滑るヒールのせいで、ついにバランスを崩した。
体勢が傾き、ステージの床に手をつきそうになる。
(これ以上は無理。転倒のリスクが高すぎる)
ルナの思考が限界を告げた。
この環境で、無理に本来のパフォーマンスを続けるメリットはない。
(ヒールを履いたまま激しく動くのは危険。ダンスを中断するか、動きを最小限に抑えるべき)
それが最も正しい判断。
いつもならそうしていたはずのこと。
けれど、その瞬間。控室で泣きじゃくりながら頼み込んできた、イザベラの顔がフラッシュバックした。
『貴方のファンとして、嵐や豪雨にも負けない姿を見たいの!』
感情を爆発させ、自分にすべてを賭けてくれたマネージャーの姿。
代わりなんていない、だからステージに立ってほしいと願った姿。
『お願い……お願いだから、歌って……!』
(……ああ、もう。うるさいな)
ルナは踊りづらくて苛立ったように、小さく舌打ちをした。
そして──
(やればいいんでしょ!)
誰もが予想しなかった行動に出た。
邪魔になった両足のヒールを、ステージの端へと無造作に脱ぎ捨てたのだ。
『♪輝く"絶対"を知っただけ!』
「ええっ……!?」
「ルナさんが、靴を……!?」
ステージを見ていたスタッフやアイドルたちが、驚きの声を上げる。
常に完璧な衣装と身だしなみでステージに立ってきた彼女が、自ら靴を脱ぎ捨てるなんてあり得ない。
「♪僕と見つめ合おう それで君は満たされる」
雨水にまみれたステージの床を、ルナは素足で直接踏みしめた。
冷たい雨の感触と泥のザラつきが、足裏から直接伝わってくる。
(……不快。最悪。でも)
素足になったことで、重心は安定した。
もう滑ることを恐れる必要はない。
彼女は顔を上げ、カメラを──その向こうにいるすべての観客に向けてアピールする。その瞳には、これまでの冷たさだけではない別の「何か」が宿っていた。
「♪他には何もいらない 絶対、そうでしょ?」
ルナは泥水を激しく蹴り上げながら、全力で踊りきる。
型を捨てた彼女の姿は荒々しく、これまでにない迫力を魅せる。
「うおおおおおっ! ルナーっ!!」
「最高だあああああー!!」
観客のボルテージは最高潮に達し、地鳴りのような歓声がステージ全体を揺るがす。ステージ袖でその光景を見つめていたイザベラは両手で口を覆い、涙をこぼしていた。
「貴方は、本当に……最高のアイドルよ、ルナ……ありがとう……」
曲が終わったルナは肩で呼吸を繰り返しながら、最後のポーズを決めた。
びしょ濡れのドレス、泥だらけの素足、ぐしゃぐしゃの髪。
完璧とは程遠い、ボロボロの姿。
その顔は、いつも通りのクールな表情ではあったが。
微かな、本当に微かな……何かをやり遂げたような清々しさがあった。




