69.わたくしの望みがゼウス様の望みになりました
「きゃあああああああぁぁぁぁっっ!!!」
逆さまになったわたくしの頭上にあるのは、まるでジオラマのように小さく見える地上。
ゼウス様を縛り上げていた黄金の鎖は、今は縛り上げる相手を替えて、天界の端にある柱から地上へ向かってわたくしを吊り下げています。
風が吹く度に振り子のようにゆらゆらと揺れ、今にも落とすぞと脅しているかのように、ギシギシと軋む音が聞こえてきました。
いちいち説明なんてしなくても良いとは思いますが、一応申し上げておきましょう。
クーデターは失敗。
他の神々を集めに行っている間、事情を知ったテティスがゼウス様に恩のあるヘカトンケイル達に知らせ、救出するように言ったのです。
テティスったら酷いですわ。わたくしが長年ゼウス様の浮気に悩まされていることを知っているはずですのに!
鎖から開放されたゼウス様にプラスしてヘカトンケイルとこられては、わたくし達に勝ち目などありません。
手も足も出ないまま懲罰として、主犯のポセイドンとアポロンはトロイアの城壁を建設するように命じられ、わたくしはこうして空中吊り下げの刑に処されていると言う訳です。
もう何日もこの状態。
昨日はヘパイストスがゼウス様に、わたくしを許して解放するように進言しているのが聞こえてきましたが、逆にお叱りを受けてしまったようです。
酷い轟音が聞こえてきましたが、ヘパイストスは無事なのでしょうか。
「ねえヘラ、少しは反省したかい?」
血が上りボーッとしている頭を引き上げて目線を足先の方へと向けると、天界の縁から見下ろしてくるゼウス様の顔が見えました。
「反省なんてしませんわ。だって悪いのはゼウス様ではありませんか」
わたくしがこれまで、どれ程辛酸を舐めてきたと思っていると? 流した涙で海でも出来てしまう程です。
「ぼくが君に裏切られ、どれ程ショックを受けたのかまだ分からないようだね」
「それを言うならば、わたくしはその何倍、何十倍と辛い思いをしてきました。それを少しでもお分かり頂けたのなら、今回起こした事は間違いではなかったと言えるでしょう」
どんなにゼウス様にブチ切れても、愛人やその子供に罰を与えようとも、ゼウス様の御心には響かなかったのですから。他にどんな手段を取ればよかったのでしょうか?
突然クンッと鎖を引き上げられ、天界の上へと引き戻されました。まだ身体中を拘束された状態で、ゼウス様の前に座らされます。
「それで君は、王座を追われた僕をどうしたかったんだい? ガイア様のように新たな王を裏で牛耳り、僕が永遠に続く屈辱に悶える姿でも見たかったのかな」
「……そんなの決まっているではありませんか」
ゼウス様が苦しむ姿ですって? そんなのもちろん嫌です。ですが、ゼウス様が他の女を愛でる姿の方がもっと嫌。
だからこその、あのクーデター。
「王座を追われた男に、女は魅力を感じません。好き放題しようものなら、新たな王が止めて下さる。そうしたら今度こそわたくしが、わたくしだけが、ゼウス様を独り占め出来ますでしょう?」
ゼウス様がわたくしだけを見て下さるのなら、他には何も要りません。地位も名誉も全て不要。
ふふふっと笑い掛ければ鎖を引っ張られて、そのままゼウス様の口へとダイブしました。
ねっとりとした濃厚な口付けに、頭の芯が痺れてぼうっとしてきます。
「そんなに僕の事好きなんだ」
「知らなかったのですか? 伝わっていなかったのだとしたら心外です」
「王座を手放したとしても?」
「もちろんですわ。出来ることなら誰もいない、2人だけの世界に行ってしまいたいくらいです」
「そう……それなら君に約束しよう。ヘラ、君以外は抱かない。もう二度と、君以外の女に手は出さない。ステュクス川に誓ってね」
「え……」
ステュクス川に誓うですって? それはゼウス様と言えども、絶対に違える事の出来ない誓い。
空耳でも聞こえたのではないのかと、自分の耳を疑ってしまいます。
「君の望みを叶えてあげよう。昔言っただろう? 君の望む世界を見せてあげると。僕はもう存分に楽しんだからね。今度は君の番だ」
わたくしの望みはゼウス様の望み。ですが欲を言えば、わたくしだけを見ていて欲しい。
ゼウス様はこれからどうするおつもりなのでしょうか?
もしかして本当に、他の神に王座を譲るのかしら?
「立つ鳥跡を濁さずってね。まずは綺麗さっぱり、あと片付けをしないと。ガイア様からもお願いされていることだしね」
何やら壮大な計画が、ゼウス様の頭の中で出来上がったようです。
約束をして下さったんですもの。わたくしは付いて行くまでです。
例えそれが地の果てであろうとも。
***
テミスの住む神殿の一室。これから起こそうとしている計画の前に、テミスに一通りの事情を説明し相談をする事にした。
彼女は優れた予言術の持ち主であり、僕の顔色をいちいち伺ったりもしない。噂や甘言に惑わされること無く常に事実に忠実なテミスは、脳内にいるメティス同様、相談相手としてはこの上ない。
時折相づちを打ちながら話しを聞いていたテミスが、「ふーむ」と背もたれに寄りかかり天を仰いだ。
「なるほど。それでレダとの間に子供を設けたってわけね」
「僕としてはフィナーレを飾るに相応しい、後世に語り継がれるような無双の英雄が欲しいんだよ」
「でもヘラ以外の女は抱かないとステュクス川に誓いを立てた以上、貴方がその英雄を作る事は出来ない。って事ね」
「そう言うこと。何か良い案はないかい?」
これまでならば手っ取り早く、自分が女を抱いて子を産ませれば良かったが、今後はそうはいかなくなった。人並外れた優れた人間をどう作るのかが問題になってくる。
「いい案、ねぇ。その壮大な計画の前にひとつ、とっておきの秘密を教えてあげる」
「秘密?」
勿体ぶって手土産に持ってきたワインをひと口飲み込むと、くいっと口角を上げた。
「テティスは誰の子を産んでも、その子の父よりも強くなる。これは絶対に変えることの出来ない運命なのだと、モイラ達が昔言っていたわ」
「――――っ!? 何故それを早く言わなかったんだ」
もし僕がテティスに手を出していれば、かつて自分が父にしたように、王座を奪われていたという事。
そんな重大事項を知っておきながら平然と接してきていたとは、やはりこの女神は侮れない。
「貴方がテティスに手を出す可能性はもちろんあったけれど、それはそれでそう言う運命だったのかなって思ってね。でもさっきの計画を聞いて気が変わったのよ。ワイン片手に気ままに暮らすって言うのも悪くなさそうだわ」
「まあいい。そういう事ならば、テティスを人間の男と結婚させよう」
相手が人間ならば、僕やNo.2の実力者ポセイドンよりも強くなる可能性はない。
そして父親よりも強くなるということならば、現時点で英雄と称される男の元へ嫁がせればいい。
「ペレウス、彼にしよう」
ペレウスはアイギナ島の王アイアコスの子。殺人の罪を犯したペレウスは、2度目の亡命先ペリアス王の王子によって殺人の罪を潔めらたものの、王子の妻アステュダメイアに好かれてしまった。
最初の亡命先で既に妻を得ていたペレウスはアステュダメイアの誘いを断ったところ、彼女の怒りを買い、妻は策略にはまって自害した。
不幸続きの男に、「テティスを妻にすれば幸運が訪れる」とでも神託を授ければ、必ず乗っかってくるだろう。
「それなら私が直接彼の所へ行ってくるわ」
「ああ、頼んだよ」
テミス直々の神託に、ペレウスが歓喜する姿が容易に想像出来る。
「さあ、楽しいフィナーレの始まりだ」




