41. 甘い誘惑(2)
「イクシオン……やっぱりこんな事いけませんわ……」
「何も心配などいりません。さあ私に身を委ねて」
寝所に響く嬌声。
卑猥な水音と寝台が軋む音。
そして、床には脱ぎ捨てたれた服。
「ヘラ様……なんてお美しい。体の隅々まで私で満たしてあげますね」
男がうっとりと見つめる先には、ナッツブラウン色の髪をした女が身を捩らせている。
ヘクシオンがヘラと呼ぶ女の肌に顔が近づく度に聞こえてくるリップ音に、思わず声が漏れた。
「う゛ぅっ……」
気持ち悪い。
自分と瓜二つの容貌をした女が、ゼウス様では無い誰かとしている所なんて……。「ヘラ様」と呼ばれる声が聞こえる度に、ゾワゾワと虫唾が走ります。
「ヘラ、見たくないのならあちらで待っていても良いんだよ」
「だ、大丈夫ですわ」
ゼウス様の言葉に極小さな声で返事をすると、再びドアの隙間から寝所の中を覗きます。
皆さま、ビックリしましたか?
わたくしが浮気をするなんてとんでもない。
今イクシオンが交わっているのはわたくしによく似せた雲。
どういう事なのかお話しましょう。
今から数時間前の事。わたくしが部屋へと戻って暫くするとドアを開ける音が聞こえてきました。イクシオンがやって来たのだと思い、近くにあった寝具を投げ付けて威嚇するように言い放ちます。
『入って来ないで!このままお帰りなさい。そうすればこれまでの事は無かったことにしてあげましょう』
一瞬止まったドアは、閉められることなくむしろ開きました。
絶対に、ゼウス様以外の男を寝所になど入れるものですか!!
たまらずに入口へと駆け寄り入ってきた男を見上げると、ポカンとして言葉を失ってしまいました。
『ヘラよ、僕を拒むなんて酷いじゃないか』
『あっ……いえ、その、ゼウス様がいらしたのだとは思わず……人違いでしたわ。わたくしがゼウス様を拒むはずなどありません。中へどうぞ』
慌てて部屋の中へと招き入れると、心配そうな顔で見つめてきます。
『一体誰と勘違いしたのかな?』
『ええと、それは……』
『イクシオン、だね?』
ハッと息を飲みゼウス様の金色に輝く瞳を見つめ返すと、『やはりね』と呆れた顔で溜息をつかれました。
『あの男が君を見る目は尋常ではなかった。イクシオンに何を言われたんだい?』
ゼウス様にイクシオンとの会話を洗いざらい話すと、くっくっと喉を鳴らして笑っていますが、笑い事なんかではありません!
妻の貞操が脅かされたと言うのに酷いです。こんな事なら誘いに乗った方が良かったとさえ思ってしまいます。
『ゼウス様、笑うなんて酷いではありませんか。わたくしの事なんて、もうどうなっても良いのですね!』
鼻の奥がツーンとしてきました。
ポタポタと流れ落ちる涙を、ゼウス様が唇で拭ってくれます。
『僕が君の事をどうでも良いなどと思う訳無いだろう?だからこそこうして、君の寝所へとやって来たんだよ。イクシオンが君に下心を持っていることは明らかだったからね。ただ、あまりにもあの男が僕の想定通りに動いたものだから、可笑しくなってしまってね』
『想定通り、と言うのは……まさか、わたくしがこの様な誘いを受けることを見越していらっしゃったのですか?!』
囮に使われたのだとしたらやっぱり酷いです!それともわたくしを試す為の罠だったのでしょうか?!
興奮してゼウス様の服をひっ掴むと、馬でもあやす様に「まあまあ」と窘められました。
『落ち着いて。君をそんな危険に晒すわけがない。僕が言いたかったのは、強欲者のイクシオンは不老不死の身になった後にも必ず罪を犯すと思っていた、と言う事だよ』
『罪を犯すと思ってらっしゃったのに、罪を赦したのですか?』
何だか意味が分かりません。
それなら義父を殺めた時点で、他の神達が言っていたように罰すれば良かったのでは?
うーん? と首を捻っていると、以前してくれたようにわたくしを膝の上に乗せて話し始めました。
『罪を赦すなんて一言も言ってないよ。ただあの者を僕達の宴に招いて、神に仲間入りさせてあげようと言っただけさ』
そう言えば皆とゼウス様にイクシオンを罰する様嘆願した時に、「赦す」と言う言葉は使っていなかった気がします。
『人間なんてほんの少し雷を落としてやれば、あっという間に死んでしまうからね』
ふふ、と笑う顔の裏にある策略が、ようやく分かりました。
死んだ方がマシだと思うくらいの罰を、永遠に。
人間ならばその内に死んで終わりを迎えますが、不老不死となれば罰を与え続けることが出来ます。それこそ、毎日鷲に肝臓を食べられ続けるプロメテウスの様に。
本当に、怖い御方。
『まさか僕の妻を誘惑しようなどと言う、大それた事をしでかすとは思ってもみなかったよ。嫌な思いをさせてしまってすまなかったね。でも、ちゃーんとその報いは受けてもらうから、ね?』
『それでは今からイクシオンの所へ?』
『いいや、今の状態ではまだ未遂。いくらでもいい逃れが出来る。確たる証拠がないと公平な裁きを与えたとは言えないだろう?』
ゼウス様は片手を前にかざすと、ふわふわとした雲がどこからともなく湧いて出てきました。そのまま見続けていると、雲が集まりやがて女の姿になりました。
『まあ、凄いですわ。わたくしにそっくり』
『ネペレよ、お前の役割は分かっているね?』
問われた女は頷き返して膝を折りました。
『はい。ヘラ様の代わりにこの寝所にてイクシオンの相手をする事』
『その通りだ、頼んだよ。さあヘラ、僕達は隣の部屋に行くとしよう』
そうしてわたくし達は寝室の隣にあるドア続きになった部屋で、事の成り行きを見ている、という訳です。




