40. 甘い誘惑(1)
やはり、怒らせてしまったようですわね。
セメレをゼウス様の手で殺させてから4ヶ月程の時が経ちました。あれ以来、夜にわたくしの元へとやって来る事はパタリと無くなりました。
昼間はいつも通りを装っているようですが、どことなく避けられている気がします。
自分のやり口がいかに汚いものだったかは分かっていても、謝るつもりはありません。
元々はゼウス様が浮気をなさるのがいけないのです。御自身に非があると思っていらっしゃるからこそ、ゼウス様はわたくしに何も言ってこないのでしょう。
「このまま夫婦仲は拗れて、壊れてゆくのかしら」
めそめそと丸まって泣いていると、ノック音が聞こえてきました。イリスがそっとドアを開けて入ってきます。
「ヘラ様、今日の宴にはいらっしゃいますか」
ここ何日か前から、宴が毎夜続いておりますがまだ1度も顔を出しておりません。これがただの宴ならばそれでもいいのですが、とある男の歓迎会なのです。
本当はみんなと騒ぐ気分などではありませんが、いい加減、行かなければならないでしょう。
「今日は行きますわ。支度をしましょう」
泣き腫らした顔を冷水で洗ってどうにか取り繕い、身支度を整えて宴が行われている広間へと足を運びます。
広間へと入っていくと、アポロンの竪琴に合わせてアフロディテや季節の三女神ホラ達が舞踊り、へべがお酌をして回っています。
「皆さま、楽しまれていでしょうか」
「ヘラ様! いらっしゃったのですね。こちらへどうぞ」
エイレイテュイアが席を空けてくれたので、勧められるがままに座りました。いつもなら真っ先にゼウス様の隣に座るのですが、ここ最近のわたくし達の雰囲気を察しているエイレイテュイアが気を利かせてくれたようです。
隣に座って酔っ払っている男は、わたくしが座ると早速挨拶をしてきました。
「これはこれは、ゼウス様のお妃様! お目にかかれて光栄にございます」
「イクシオンと言ったかしら。貴方の事は聞いておりますわ」
無理矢理に作り笑いを浮かべて男の方を見れば、愛想のいい笑顔が返ってきました。
なんでわたくしが、こんな男に笑いかけなければならないのかしら。ため息がでそうになります。
この男が何者かと言えば、ラピテス族の王の子で人間。いえ、人間《《でした》》。
ネクタルとアンブロシアを口にしたので、今では不老不死の身です。
この者はある日、ディアと言う娘を娶る事になりました。イクシオンは条件として父親のデイオネウスに、豪華な結納品を贈ることを約束して結婚に漕ぎ着けたわけですが……。
約束の結納品を渡すため、宴にデイオネウス招いたイクシオン。
デイオネウスは宮殿へと向かったのです。
ところがイクシオンは、あろう事か宮殿へ向かう道の途中に穴を掘り、その中に炭火を焚いて入れたのです。デイオネウスは罠にかかり焼死。何も知らないディアは子供を身ごもりました。
とまぁ、強欲者のイクシオンは貰うだけもらって、邪魔な義父を殺してしまったのです。
初めて血縁者を殺した人間。
それがこのイクシオンと言う男。
もちろんこんな不届きな男に、わたくしをはじめ、神々からは避難の嵐。罰を与えるようにゼウス様に訴えたのですが、なんとゼウス様はこの者の罪を問わないどころか、神々の宴席にまで招いたのです。
ゼウス様がお許しになったのならば、わたくしも従わなければなりません。ですのでこうして仕方なく相手をしてやっている、という訳です。
「お美しい女神だとは聞いておりましたが、これ程までとは。こうして一緒に酒を飲む機会に恵まれて夢のようですよ」
「そう、ありがとう」
もうめんどくさいので適当に相槌をうってやり過ごしましょう。
イクシオンは勝手にベラベラと喋り、わたくしの杯の中の酒が少しでも減ろうものなら、すぐになみなみと注いできます。割とお酒には強い方ですが、ここまでくると少し酔いが回ってたようで頭がぼぅっとします。
「ヘラ様、大丈夫ですか?」
「ええ、少し酔っただけですわ」
「でしたら外の空気を吸いに行きましょう」
イクシオンは「さあ」と、わたくしの腰に手を回してきました。
いつもならゼウス様以外の男になど絶対に体を触らせなくなど無いのですが、今は気が弱っているせいなのか、されるがままに、イクシオンに連れられて外へと出ました。
はぁぁ、ダメですわね。ゼウス様ともう何ヶ月も触れ合っていないせいで、こんなにも人肌が恋しくなってしまうなんて。
外に置いてあるベンチに座らせられると、ピッタリとくっ付くようにしてイクシオンが座ってきました。流石にこれには苛立って、わざと遠くへと座り直します。
「ははっ、噂通りの身持ちの硬さですね。……ですが、貴女ばかりがその様に貞潔を守るなど割に合わないとは思いませんか?」
「なんですって?」
ニヤァと不敵な笑みを浮かべると、イクシオンはわたくしの耳元で囁きます。
「人間の間でも有名ですよ。ゼウス様はあちこちと女に手を出すってね」
「なっ、なんと言うことを! 口を慎みなさい!!」
人間達にすら知れ渡るゼウス様の女癖の悪さ。
先日のアテナの話を思い出します。
機織りの腕が見事なアラクネと言う女。この娘は傲慢にも「機織りを司るアテナをも凌ぐ腕を持っている」と言い、アテナに機織り勝負を挑んだのです。
その時にアラクネが織った布は、牡牛が娘を背に乗せて海を渡る姿や、黄金の雨が乙女に降り注ぐ姿など……神を嘲る内容……いえ、これ完全にゼウス様の事ですわね。そんな布を織って見せたのです。
一応気になるでしょうから結末を言っておきますと、これに怒ったアテナは布を破きアラクネを打ち据えたところ、彼女は自分のしでかしたことの恐ろしさに自害しようとしました。
ようやく悟ったアラクネを見たアテナは、彼女を憐れみ、アラクネを永遠に糸をつむぎ機織りをし続ける蜘蛛に変えて、その罪を許してやることにしたのです。
夫の浮気現場をタペストリーにされてしまうなんて。
ゼウス様御本人はよく知っているなぁと笑ってましたが、わたくしからすればこの世にいる蜘蛛全てを踏み潰したいくらいの気持ちです。
「こんなにも美しい妃がいると言うのに、全くもって信じ難い。私なら絶対に貴女を寂しがらせるような事などしないのに」
不躾にも体を舐めまわすように見つめられ、その手がそっと、太腿へと乗せられました。
「他の男にちょっと目移りするくらい、同情こそしすれ、貴女を非難する者など居ないでしょう」
「いい加減になさい! いくらゼウス様に罪を許されたからと言って調子に乗りすぎですわ。わたくしこれで失礼します」
腿に乗せられた手を振り払おうとすると、逆に手首を掴まれてしまいました。
「今夜、部屋へと参ります。2人だけの秘密にすれば、誰にも知られる事などありません」
誰がそんな事するものですか!
と思いっきり睨み付けて、宴の席へは戻らずに自室へと戻りました。
「招き入れるなんてありえませんわ」
だってわたくしはゼウス様の物。
身も心も全て、あの方の物なんですもの。




