29. 憧れの夫婦であり続けましょう(2)
………………?
青白い肌。ぽたぽたと水滴が滴り落ちる服。落窪んだ目。
その男性は悲しそうな目でこちらを見てきました。
『アルキュオネ、私だ。ケユクスだよ』
『あっ……あなた!!!?』
船で旅に出たはずの夫がなぜこんな所に?アポロン様の神託所へ行って帰ってくるまでには、まだずっと時間がかかるはずなのに。
ううん、そんな事はどうでもいいわ!
『ああ、ゼウス……いいえ、ケユクス様。ずっとおかえりをお待ちしておりました。ずぶ濡れではないですか。さあこちらへ……』
夫の手を取ろうとした私の手は、掠めもせずにただ空気を握っただけ。
『アルキュオネ、私は死んでしまったのだよ。海で嵐に会い難破してしまった。私の父やお前の父にも祈りを捧げたが届かなかったようだ。どうか葬儀をして私を冥界へと送っておくれ』
『そんな……っ! 嫌です!! 送るなんて……! 私も一緒に参ります。一緒に連れて行って下さい!!』
『さようなら、愛しい妻よ』
『待って! 行かないで……!! 待って……っ!!!』
手を伸ばしても、追いかけても、夫を捕まえるどころか遠ざかるばかり。どこからか波が押し寄せてきて、あっという間に夫を呑み込んでしまいました。
「いやああああああぁぁ!!!!」
「奥様?! どうなさったのですか?」
「やめて! 行かないで……!」
髪の毛をぐしゃぐしゃと掻きむしり泣き喚く私を、使用人がオロオロとしながら慰めようとしています。
「一体何が起こったのです? 悪い夢でも見たのですか」
「あ……っ、あぁ……あの人は死んでしまった…………!私をおいて、死んでしまったのよ。こんなに……こんなにも愛している人を……こんな事なら無理やりにでも一緒に行けばよかった」
「奥様落ち着いて下さい。ただの夢です。奥様の不安が、悪い夢を見せたのです。現に旦那様が亡くなったなどという報せは来ておりません」
悪い夢……?
あんなにも生々しかったのに、ただの夢?
「そう……。そうよね。ただの夢だわ。私ったら……。少し頭を冷やしましょう。ちょっと海岸まで行って海風に当たってくるわ」
手早く着替えて上着を羽織り、夫を見送った海岸へと出向きました。
ちょうど朝日が昇って来る所で、私の心とは裏腹に海面はキラキラと輝いています。
眩しくて目を細め遠くの海岸線を見やると、海面にプカプカと何かが浮いているのが見えました
。
何かしら。まるで人のように見えるわ。
足場の悪い岩の上を覚束ない足取りで近付くにつれ、ドッドッと心臓が激しく鼓動を打ち、先程夢で見た夫の姿が頭を掠めました。
『さようなら、愛しい妻よ』
「あなた!!!」
浮いていたそれは、やはり夫ケユクスの変わり果てた姿。
「やっぱり……やっぱりあれはただの夢では無かったのですね。私に最後のお別れを言いに来たんだわ」
どれだけ揺さぶっても、どれだけ泣いてその名を呼んでも、目を見開いてくれることはありません。
「あなたのいない世界なんて耐えられない。私も今すぐそちらへ参ります」
夫の姿を思い浮かべながら、トンっと地を蹴り岩場から海へと身を投げました。
初めて出会った日。
語らいながら歩いた海岸線。
ゼウス、ヘラとふざけて呼びあった日々……。
あなたと行く冥界ならば怖くはありません。どうか一人で行ってしまわないで。
冷たい海水の中へ飛び込んだかと思ったのに、体がやけに軽くフワリと浮いたような感覚がします。
――――? これは一体?
訳が分からず周りを見ると、何故だか身体が宙に浮き海面が下に見えます。
――私、鳥になってる!?
そう呟いたと思ったのに、喉から出てきたのは「チイィーー」と言う甲高い鳴き声。
羽根を無意識にパタパタと動かし海上を飛んでいると、夫ケユクスの体からもすうっと翡翠色の小さな鳥が姿を現しました。
――あぁ! ケユクス様!!
私の呼び掛けに応じるかのように、夫から出てきた鳥が「チィッ! チィッ!」と声を上げて私の周りを飛び回りました。
「わたくしに出来るのはここまで。これからも仲睦まじく暮らしなさい」
声のした方を2人で振り返ると、海岸の岩場にはこれまで見た中で誰よりも美しい女性の姿。
海風でナッツブラウン色の髪の毛がフワフワとなびき、その顔は穏やかに微笑んでいます。
――私の祈りは、きちんと届いていたんだわ。
『ヘラ様、ありがとう御座います』
『私達もヘラ様とゼウス様のように愛し合い、いつまでも仲の良い夫婦であり続けます』
鳴き声でしか話せなくなってしまいましたが女神の表情からするに、きっと言葉が通じたのだと思います。
「ええ、わたくしもあなた達の憧れであり続けるよう努力しなければなりませんわね」
小さく手を振る女神にもう一度御礼を言い、夫と一緒に海の向こうへと飛んで行きました。
どこまでも飛んで行けそう。2人なら。
***
「美しい鳥だね」
「ゼウス様!」
2羽の鳥が飛び去るのを見送っていると、ゼウス様が隣へ並んで立っていました。
ゼウス様の白銀の髪に朝日が当たり、まるで金髪になったかのように見えます。
「ヘラは青い鳥が好きなんだね」
言われてみれば、お気に入りの孔雀も青く輝く鳥。無意識でした。
「君はあの2人に、あまり腹を立てていなかったようだね」
「?」
「僕達の名で呼び合っていただろう?」
「確かに不届きではありますが、わたくしはちょっぴり嬉しかったのです。だって、わたくし達夫婦が理想的で羨ましいからそんな風に呼び合っていたのでしょう?」
浮気ばかりする夫。嫉妬して怒ってばかりの妻。
周りからしたらそんな夫婦に見えているのかもしれない。と思っていました。
だからラブラブに見られていたんだ、と言う事実が嬉しいのです。
「そうだね」と頷き笑っているゼウス様にポツリと呟きます。
「……イオの子が必要なのですね」
静かにこちらを見たゼウス様の顔は見ず、2羽が飛び去って行った海を見つめます。
「エジプトの地に僕の子孫を残すため。と言ったら分かってくれるかい?」
牝牛の姿になったイオは、わたくしの放った追っ手のアブに追いかけ回されて、とうとうエジプトにまで行ったようです。
イオがエジプトに逃げる事を分っていらっしゃったという事なのかしら。ゼウス様が何を何処まで考えてやっているのか、妻のわたくしにも分かりません。
「憧れの夫婦でいると言うのは難しいですわね……分かりました。もうイオを追いかけ回すのは終わりにします。ですからゼウス様も、イオに思いを馳せる事はしないで下さい。その分の御心を、わたくしに下さいまし」
「イオには悪いけれど、僕が想いを寄せるのは初めから君だけだよ。寸分の隙も無いくらいにね」
色々と言い返したい所ですが、口を塞がれてしまっては何も反論できません。
「んん……ふっ……ゼウス様……こんな所では恥ずかしです」
衣の裾をたくし上げて来る手に待ったをかけると、引いた糸をペロリと舐め取りながら、ゼウス様が意地悪な顔で囁きます。
「ヘラもアルキュオネの様に『ゼウス』って言ってごらん」
「よ、呼び捨てなんて……そんな……」
「2人の憧れの夫婦そのままを再現してあげよう。これからは僕と2人の時だけでも、呼び捨てにして欲しいな」
「あ……えぇと……分かりました、ゼウス」
初めて会った時から今日まで、1度だって呼び捨てにした事がなかったのに。
何だか新鮮でドキドキしてしまいます。
わたくし達もアルキュオネ夫婦に負けないくらいまだまだ熱々、ですわね。
ケユクス・アルキュオネ夫婦がなった鳥はカワセミ。英語でハルシオンバード。ハルシオンはアルキュオネの別の呼び方です。
アルキュオネの父、風神アイオロスはカワセミが海上に巣を作り卵を孵す2週間は、風を静めるんだそうな。
睡眠導入剤のハルシオンもここから来ているんだそうですよー。色んなところにギリシャ神話!




