28. 憧れの夫婦であり続けましょう(1)
――どうか夫が無事に帰ってきますように。
――夫が旅先で、誰か別の女と結ばれませんように。
頭の中に終始聞こえてくる祈りの声。
「まただわ……」
ほぅ、と溜め息をつきぐったりと寝台に突っ伏してしまいました。
「ヘラ様?! 大丈夫ですか? どこかお加減が悪いのでしょうか」
部屋へと入ってきたイリスがげんなりとした様子のわたくしを見て、慌てて駆け寄ってきました。
「具合が悪い訳では無いの。ただアルキュオネの祈りの声がずっと続いていて、参っていただけよ」
「アルキュオネと言うと、テッサリア王ケユクスの妻の事ですね? あの夫婦は傲慢にも自分達をヘラ様とゼウス様の名で呼びあっていたとか」
ケユクスとアルキュオネはとても仲のいい夫婦として知られておりましたわ。
周りからも仲睦まじいと評判でしたので、調子に乗ってしまったのでしょう。2人はお互いをわたくし達夫婦のように「ヘラ」「ゼウス」と呼んでいたんですの。
わたくし夫を、「ゼウス」なんて呼び捨てにしたこと一度もありませんわ! まあそんな事はどうでもいいとして、その事がゼウス様の耳に入り少々気分を害してしまったようです。
それはそうでしょう?
いくらケユクスが明けの明星ヘオースポロスの息子でアルキュオネが風の神アイオロスの娘であったとしても、最高神夫婦に自らを例えて呼び合うなど不届きです。
ゼウス様はケユクス達の傲慢さを正すために、テッサリアに天災や異変を起こしました。
更に不幸なことに、これはゼウス様が起こした事とは関係が無いのですが、この頃ケユクスの身内に不幸な事が立て続けにおきていました。
そこでケユクスはアポロンの神託を貰いに行くことにしました。
アポロンの神託は当たると評判。ですから近くの神託所ではなく、わざわざ航海の旅に出たのですわ。
危険な船旅に愛する妻を同行させるはずもなく。ケユクスはアルキュオネを残し船に乗り込んだのですが……。
海の嵐と言うのは恐ろしいもので、あっという間にケユクスを乗せた船は海の藻屑となってしまいました。
もちろん夫が死んだ事などアルキュオネが知る筈もなく、わたくしの祭壇に向かって毎日祈り、供物を絶やすことなく捧げてくるのです。
「アポロンに神託を貰って過ちに気付き正してくれさえすれば、わたくしとしてはそこまで怒ることでは無かったのだけれど。もう少し早く気が付いていれば……はぁぁ……」
わたくしがアルキュオネの祈りに気付きケユクスが船旅に出た事を知ったのは、既に彼が死んだ後でした。
それもこれも、イオの事で頭がいっぱいになっていたせいですわ! でなければケユクスの航海を手助けする事くらいはしましたのに!!
本当に忌々しい女です!
「イリス、ちょっとお使いを頼むわ。眠りの神ヒュプノスの所へ行って、アルキュオネに夫が死んだと言うことを教えてあげて欲しいの。夢の中でもいいから、最後に夫の姿をみてお別れをした方がいいでしょう」
ヒュノプスは眠りでもって人の心を慰める神。彼の息子達はそれぞれに違う姿に真似化けて、夢の中に干渉することができるのです。
「……かしこまりました」
イリスが苦笑していたので「何です?」と片眉を上げて見せれば、片膝をついて頭を垂れました。
「私のお仕えする方はやはり、お優しいと思っただけで御座います」
「優しい? 結果は変わらないわ。ケユクスは死んだんだもの」
可哀想だからといっていちいち死人を蘇らせていたら限がありません。
人は死ぬ運命にある。
ゼウス様が明確になさったこの秩序が崩れてしまわないように、きっちりと守らなければ。
「それでも、ただ死んだのだと言う事実を知らされるだけよりはずっと良いでしょう。それでは行って参ります」
すくっと立ち上がると、イリスはヒュノプスの居る館へと去って行きました。
「あれだけ切実に祈っているんだもの。慰めにもならないかもね」
夫を失う妻の気持ち。それを思うと胸が張り裂けそうです。
今も聞こえてくるアルキュオネの祈りの声。
窓からイリスが走って行った後に残る虹の軌跡を眺めながら、もう一度溜息をつきました。




