26. 怪しげな黒い雲には要注意!です(1)
澄み渡る青空。降り注ぐ陽光。
「いい天気ね」
気持ちのいい風に誘われて外に出ると、肺いっぱいに空気を吸い込んで初夏の訪れを楽しみます。
「ヘラ様、天界にいるのもいいですがオリュンポス山の頂上から地上を眺めてみるのはいかがでしょう。これだけ晴れていれば遠くまで見渡せますよ」
「それはいいわね」
イリスの誘いにのって門から下界へ降り、オリュンポス山の頂から遠くを眺めます。
イリスの言った通り遠くの街々までよく見えて、あの洪水の日から今日まで、随分と人間たちが栄えたのが分かります。
しばらく下界を見渡しながら感慨に耽っていると、遠くの空に1箇所だけ黒い雲が浮かんでいるのが見えます。
…………?
まあ局地的に雨が降る事も有るでしょう。珍しい事でも何でもないわね。
お腹も少し空いてきたし、神殿へ戻ってお茶でも頂こうかしら。
神殿へ戻ろうとくるりと向き直ると、ふと、少し前の出来事を思い出しました。
あの雲のあった方角はアルゴスではなかったかしら。
アルゴスとわたくしはとっても縁の深い土地。
思い出した出来事と言うのはこんな話です。河神イナコスと海神オケアノスの娘メリアーの間に、ポロネウスと言う息子が生まれました。ポロネウスという男はあの大洪水の後、わたくしに最初の犠牲を捧げ神殿を作った人間。ですからゼウス様はこの者に王権を授けたのです。
ペロポネソスを支配するようになったポロネウスは、ニンフとの間にニオベと言う娘をもうけました。
勘のいい皆さまならこのニオベと言う女が登場した所で怪しい! とお思いになったのではないでしょうか?
そうです。ゼウス様がニオベに手を出したのですわ!!
ペロポネソスはわたくしの神殿が初めて創られた場所という事で常々気をかけおりました。
その日はペロポネソスの地をポロネウスの孫のアルゴスが、自分の名前をとって『アルゴス』にすると言うので様子を見に行ったのです。
アルゴスの母親ニオベはおりましたが、父親はどこにも見当たりません。
そこでポロネウスに尋ねたところ、ゼウス様との子供だと白状したのです。
勿論わたくし頭にきて、ニオベとアルゴスに何かしらの罰を与えようとしましたわ。
でもポロネウスがどうか見逃してくれるようにと懇願してきたので、目を瞑ってやることにしたのです。ポロネウスはこれまでずっと熱心に、わたくしへ供物を捧げ敬ってきてくれたんですもの。
本当に、本当に、悔しいですけれどもね!!
苦い思い出もあるアルゴス。
嫌な予感が頭を掠めました。
こんなに晴れ渡っているのに、あそこにだけ黒い雲が浮かんでいるなんて。
もう一度黒い雲の方をじっと見つめてみると、風がそよいでいると言うのに、あの雲だけは流れていきません。それに、あの雲だけ異様な程に位置が低い。
「あの雲は……まさか……」
ゼウス様……?
「イリス、急いで車を用意してきてちょうだい」
まるで見せたくないものを隠すかのような雲。
どうか、ゼウス様ではありませんように。
お気に入りの鳥、孔雀が引く馬車に乗り込むと、車が黒雲の方角へと向かって走り出しました。
ひとしきり走ると車が速度を落とし、孔雀たち鳴き声で到着を知らせます。
アルゴス地方は今でもわたくし、ヘラを信仰する中心地。
すぐ側にはわたくしを祀る神殿もあります。
まさかこんな所で浮気だなんて、そんなハズありませんわよね。妻を祀る神殿のすぐ側で情事に励むなんてそんな事……
でも確認は必要です。
雲が一番濃くなっている所へと車を進めて降り立つと、突然雲が散り散りになって晴れ渡りました。
「あっ……!ゼウス様」
「やあヘラ。どうしたんだいこんな所で」
「わたくしを祀る神殿ですから。少し様子を見に来たのです。ゼウス様こそ何をなさっていたのですか」
「ああ、僕かい? 可愛い牝牛がいたからちょっと遊んでいたのさ」
可愛い牝牛ですって?
ゼウス様のおっしゃる通り、傍には白色をした牛が所在なさげにウロウロとしています。
怪しい所はないかとゼウス様をじっくりと見れば、衣が少し着崩れて髪の毛も乱れているようです。肌がほんのりと汗ばんで赤くなっているのは、暑さだけではないでしょう。
この変化をわたくしが見逃すはずなどありません。
「まあ、本当に愛らしい牝牛ですわ! 宜しければその牛をわたくしに下さいませ。ペットにしてたっぷりと可愛がります」
うふふと笑って見せれば、牝牛がビクンっ!と身体を震わせました。
「あー、そう? 君が気に入ったと言うなら断る理由などないよ。繊細な牛のようだから、あんまり怖がらせないであげておくれ」
「ええ、もちろんですわ。女ですもの。万が一妊娠していたら、を想定しませんと。イリス、アルゴスを連れて来て」
「アルゴスと言いますと、百目を持つ普見者の事でしょうか」
「そうよ。ゼウス様から頂いた大事な牛ですもの。逃げ出したり、体調を崩したりでもしたら大変。ちゃーんと見張っていませんと」
ややこしいですが、ここでわたくしが口にしたアルゴスと言う者は身体中に目を持つ巨人。あのニオベとゼウス様の子供アルゴスの曾孫です。
ニオベの子供のアルゴスは憎いですが、曾孫の方のアルゴスはわたくしに忠実で良い子なんですのよ。
沢山の目は交代で眠るので、彼自身は常に起きている状態。見張りとしてピッタリな逸材ですわ。
持ってきた縄を付けてオリーブの樹に繋げば、牛はブルブルと小刻みに震えてゼウス様の方を見ています。
忌々しいメス牛。
そんな目で助けを求めたって、絶対に逃がしたりなどしません。
わたくしの神殿のすぐ側でだなんて。それもこの牛は恐らくは、わたくしに仕える女神官のイオ。何度も神託を授けているので、姿かたちを変えられたところで分からないはずなどありません。
主の夫と情を交わすなど、主人へ対するとんでもない裏切り行為。
そんな事になるくらいなら、アステリアの様に罰を下される覚悟で抵抗して逃げれば良かったものを。
そうしなかったのは、心のどこかでゼウス様に愛されたいという欲があったからに他なりません。
「さあゼウス様、日も暮れてきましたし、わたくし達は帰りましょう」
どうせ問い詰めた所でまたかわされて終わるに決まっています。ゼウス様がシラを切るおつもりなら、こちらもその嘘にのると致しましょう。
悔しがって怒り狂い泣き叫ぶ姿など、この女には見せたくありません。
それがわたくしの、妻としての意地ですわ。




