12. ここから私の苦悩が始まりました(イリス談)(2)
ノックもそこそこに、怒りに任せてバァーンっとドアを開け部屋の中へ入っていきます。普段なら絶対にこんな無作法な真似はしませんが、もうどうでもいいです。
「どうしたんだい、ヘラ? 君がそんなに取り乱すなんて珍しいね」
お茶をしていたと思しきゼウス様が、ゆったりとした仕草でこちらを見ました。何事もなかったかのように振る舞うのが、余計に神経を逆撫でます。
「どうしたもこうしたもございません……!! レトの事ですわ!!」
「レト? ああ、彼女がどうかしたのかい?」
カッチーーーンっ!
まさか子を孕ませておいてしらを切るおつもりでしょうか? 今や誰もが知る事実だと言うのに!
「レトが……貴方様の子を妊娠していると言うではありませんか……! わたくしと言う女がいながら、一体どういう事ですの?!」
震える声を振り絞りゼェゼェと肩で息をしていると、ゼウス様がポカンと呆気に取られたよな顔をしています。
レトが妊娠している事を知らなかったのでしょうか? まさかそんなハズありません。あの女は妻のわたくしの前で、嬉嬉として報告してきたのですから。
「ヘラ……。君、もしかして、そんな事で怒っているの?」
「…………!!!」
まさか返ってくる言葉がそのようなものだとは思いもよりませんでした。
そんな事!?
そんな事ですって?!
あまりの言葉に涙がボロボロ出てきます。
泣き始めたわたくしを見て、余計にゼウス様は困惑したような顔になりました。
「ぜっ、ゼウス様……そんな言いようはあんまりではございませんか……っ! わっ……わたくしの どこに不足があるのでしょう? 常に美しくあるように心掛けておりますし、女神達の手本となる様に努力しています。こんなに……こんなにも貴方様の事を想っていますのに……! どこが悪いのか仰ってください! 改善するように致しますから!!」
座り込み、ふえぇーーーと泣きじゃくるわたくしの頭をそっと撫でてきました。
いつもなら優しく撫でて下さるその手が嬉しくて堪らないのですが、今だけは違います。
イラっときました。
思わずパシンっとその手を払い除ける程に。
「そんなに怒らないでおくれ。君に不足も不満も無いよ。今のままで十分すぎるほどだよ」
「そ、それなら何故他の女に手を……!」
「うーん……必要だった。からかなぁ」
ひっ! 必要だったからからですって?!
頭がクラクラしてきました。
「もう結構ですわ! これ以上傷つくのはごめんです!!」
目眩がする程に頭に血が上って、目の前が真っ暗になりそうです。ここは一旦自室に戻って、冷水でもかぶりましょう。
部屋から出て行こうとすると、ドアの前で気まずそうにイリスが立っていました。もう誰かに気を使える程の気力は残っていません。何も言わずにフラフラと覚束無い足取りで部屋へと戻ります。
*
何と声を掛けたらいいものやら……。
ヘラ様とゼウス様のやり取りの一部を聞いていましたが、ヘラ様の怒りはごもっとも。自身の不貞を悪びれもせず、謝りもせず、むしろ何が悪いのかと驚いているような素振りさえしていたのですから。
とは言え男たちにとって不貞など日常茶飯事。まぁ、女神だって男達程ではなくとも不貞を働くことだってありますけどね。
そもそも永遠の命がある時点で、アフロディテ様が言うように誰か一人とだけなど無理なのかもしれません。
「あの……ゼウス様。お伝えしたい事が……」
「ふっ……はは……あはははは!!」
ヘラ様の後ろ姿を驚きの表情で見送っていたゼウス様が突然、狂ったように笑いだしました。
「……ねえイリス、今のヘラの怒った顔を見た? なんて可愛いんだろうね」
「はい?」
「僕が高々、他の女神に手を掛けたくらいであんなに怒って……」
「え……? は、はい……?」
「メティスもテミスも、僕が誰とどこで何をしても全くの無感心だったのに、ヘラはあんなに嫉妬心剥き出しでさ。すっごく可愛いと思わない?」
かっ、顔は誰もがとろけてしまいそうな程の極上の笑顔なのに、何故がものすごく怖いです。ゾゾゾと背筋に冷たいものが這います。
「まさかあんな風に怒り出すとは思わなくてびっくりしちゃったよ」とうっとりとした顔で更に呟いております。
この場合、なんて返すのが正解なんでしょう?誰か教えて下さい!
「ああ、そうだ。君がヘラに付いて行かずにここに残ったと言うことは、僕に用があるんだろう?」
「は、はい。先程テミス様が予言をなさったのです」
「それで」と先を促されて予言の内容を伝えると、ゼウス様は先程とはまた別の意味で恐ろしい笑顔を浮かべました。
「いい報告だね。そろそろガイアお祖母様には退いて貰おう」
ゼウス様の反応を見るに、やっぱりこれが目的でしたか。
パルナッソス山の南麗にあるデルポイの神託所。
それは世界の中心。
神の意志を人間に伝え、世界を動かす場所なのです。
この神託所を任されているピュトンは、ガイア様の夫ウラノス様やその子供のクロノス様が支配されていた時も、そしてゼウス様が支配している今も、ガイア様の意を伝えています。
つまり支配者が誰に変わろうと、実際に世界を牛耳っていたのはガイア様に他なりません。
そのピュトンをゼウス様の子が倒すとなると、もう分かりますよね? ゼウス様が本当の意味で、世界の支配者になると言うことを意味しているのです。
「レトの子は絶対に必要なんだよ。わかるよね?」
二イィ、と笑うその顔には無言の圧力も加わります。
「必要だったから」その言葉は本当だったようです。
頷き返してヘラ様の元へと向かうと、部屋の中からざばぁっと水の音が聞こえてきました。
何事かと急いで部屋へと入ると、ボタボタと頭から水を滴らせ、ずぶ濡れになっているヘラ様が。床には瓶が転がり、更にその横にはヘラ様の娘でお産の神・エイレイテュイアが青ざめた顔で突っ立っています。
「ヘラ様! こんなに冷たいお水を被ってどうなさったのですか?!」
「イリス様……。ヘラ様にお水を持ってくるように言われて、そうしたら……」
「いいから、早く拭くものと新しいお召し物を持ってきて」
「は、はい!」
「……はぁ、これで頭がスッキリしましたわ。わたくしったら、余りにもショック過ぎてゼウス様の前であんなに取り乱してしまって。御怒りになられてなかったかしら?」
「いえ、そのような御様子はありませんでした」
むしろ不気味なくらいに喜んでおられました。
と伝えておくのはやめておきます。
「良かったわ。こうして頭を冷やしてみたら、ゼウス様に当たるのは全くもって見当違いでしたわ。だってそうでしょう? ゼウス様ったら、わたくしの気を引く為にわざとあの様な事をして。本当に罪な御方よね。でもレトはちょっとだけ、調子に乗り過ぎではないかしら? 従姉妹とは言え甘くしていたらつけ上がりますもの。お仕置が必要よね」
にっこりと微笑みを向けられると、本日2度目の悪寒が背筋を走ります。すっごく、すっごく嫌な予感が……。
「今ここにわたくしは、世界中の土地という土地に命令を下します。『レトの出産場所になるのを禁ずる』と。そしてイリスとアレスは土地がわたくしの命令を背かないように見張りなさい。後でアレスにも伝えておいてちょうだい」
――――――!!!
これは困った事になりました。
私の主はヘラ様。でも主神のゼウス様の意思を無視する事など出来ません。
テミス様の予言を伝えて、ゼウス様の意図をお教えすれば良いですって?
皆さん、ヘラ様を甘く見てはいけませんよ。
むしろ「それならわたくしがピュトンを殺してきますわ!」とでも言いながら、デルポイの神託所に向かうに違いありません。
ああ、誰か予言をしなかったでしょうか。
虹の女神イリスの苦悩は、ここから始まると。