第23話 「7月上旬の日常」1
□ 文村冬湖
雨が止んで、雲間から光がさすと夏になる。曇り空の下でぼやけていた季節が、今はもうはっきりと見える。そして白。夏にはそんなイメージがある。晴れ渡った空の青は、白く塗られた下地の上に重ねられている。
そんな空の下。日の光に照らされる私たちの夏服。校庭にも教室の中にも、まぶしくかがよう白のイメージが入り込む。そしてそれは、文芸部の部室にも。
「おつかれさまでぇ~す!」
部室の扉を開け放して、しらゆきが言う。
「おつかれぇ……」
六人掛けのテーブルのいつもの席に茜先輩はいて、いつものように本を読んでいた。
「うわ! なんですかこれぇっ!」
テーブルの上にはマシュマロが山盛りになったお皿が置いてある。
「糖分補給装置。お茶といっしょに召し上がれ……」
本にしおりを挟んで席を立った茜先輩が、私としらゆきのカップを持ってくる。
「はい、とーこの分。そしてこっちがしらゆきの分……」
そう言いながら、紅茶を注ぐ。そんな茜先輩にうながされるように、私は茜先輩の右斜め横の、しらゆきは私の右隣りの席に、それぞれ着いた。
「ほら、おたべ……」
そう言いながら茜先輩は、私の目の前にマシュマロのお皿を持ってくる。
「あれ? しらゆき取りにくい? もっとこっちに寄ったら……?」
「え、あ、はい……」
そんな茜先輩の言葉に、しらゆきが私の方に椅子を寄せる。私の右隣から現れたしらゆきの手がマシュマロを取ろうとすると、茜先輩はお皿をしらゆきから遠い位置に動かしてしまう。そんな茜先輩のイジワルに、いつもなら「なんでそんなことするんですかぁ~!」ってツッコミそうなしらゆきが、何も言わない。もっと手を伸ばして、そうしてしらゆきの左肩が私の右肩に触れた。そんな様子を茜先輩は、いつものニヤニヤ笑いで見ている。
「しらゆき、取りづらい? もっとこっちに来たら?」
茜先輩の言葉に、しらゆきはまた私の方へと椅子を寄せて、私にぴったりくっついてしまう。
「取りにくいもん。しょうがないよねぇ……?」
「はぁ、まぁ……」
そんな二人に挟まれて、私はマシュマロに手を伸ばす。と、マシュマロに触れる前に、茜先輩が私の手をとった。
「おや、まちがえた。マシュマロかと思ったら、とーこの手だった……」
そんなことを言いながら、茜先輩は私の手を放そうとしない。触り心地を確かめるように、揉んだり握ったりしている。
「フムフム、ほぉ? しらゆきも触らしてもらう? マシュマロみたいな触り心地やよ?」
「はぁ……」
茜先輩が放した私の右手が、今度はしらゆきに握られる。
「どう……?」
「た、たしかに、マシュマロみたいです……」
「歯形つけたら、いかんよ……」
「た、食べません!」
「甘いかも……?」
「なめません!」
「それじゃ私は、失礼してこっちを……」
そう言いながら茜先輩は、私の左手をとった。
「フムフム……」
「な、なるほどぉ……」
何がなるほどなんだろう? そう思いながら私は、二人に両手をとられて、マシュマロが食べられずにいる。
そのとき、部室の扉の開く音がした。
「な、なにしてるの、三人とも……」
美夜子先輩の声。
「い、いやこれはですね……」そう言いながらしらゆきが、声の方へ向き直ると「オアアアアアッ!?」
突然、ヘンな声を出した。私もその方を向いてみる。しらゆきの視線の先の美夜子先輩。その髪の毛。あんなに長かったのに、今は緩やかに弧を描いて、肩口に触れる前にすっと途切れている。
「み、みよっち先輩!? 髪、切ったんですか!? どーしたんですか!? なんかあったんですか!?」
「ううん、なんにも……」美夜子先輩は、そっと髪の毛を耳にかけて「でも暑くなってきたし、それにちょっと……」
言葉を切った美夜子先輩が、はにかんだように目をそらす。
「『活動的』にもなりたかったし、『ひなたも気に入ってくれた』し、『これから頑張らなきゃ』って思って……」
「な、なるほどぉ!」しらゆきの声が弾んでいる。「すっごく、すっごく似合ってます!」
「ふふ、ありがと」
「あ~、もうみんな見てる~」美夜子先輩の後ろから、ひなた先輩がやってきた。「わたしが『じゃじゃ~ん!』って言いたかったのにぃ~!」
そう言いながら、ひなた先輩は美夜子先輩の肩を抱いた。
「それじゃあ、みんなっ! 夏バージョンのみよっちをよろしくねっ! ハイ拍手ぅ~!」
私たちは拍手をして、美夜子先輩は照れと戸惑いの表情でそれを受けた。
「あれ?」ひなた先輩が、私としらゆきがぴったりくっついて座っているのに気付いた。「しらゆきちゃんととーこちゃん、仲良しさんしてるねっ! よぉし、わたしとみよっちも仲良しさんしちゃうぞぉ!」
ひなた先輩は美夜子先輩と腕を組んでテーブルの反対側にまわると、美夜子先輩を私の真向かいの席に案内して、自分は椅子をくっつけるようにしてそのとなりの席に着いた。
「ほら、みよっち! 座って~」
「え、ええ……」
美夜子先輩はおずおずと席につく。そんな二人の前に、茜先輩が紅茶の入ったカップを置いていく。
「さぁて、今日の部活はぁ~?」茜先輩が自分の席に着いて言う。「なにせ七夕イブですからぁ? 遠距離恋愛について語らずして、何を語るというのでしょう……?」
「ど、どーしたんですか、茜先輩?」
「遠距離恋愛を語ることで、オリヒメとヒコボシの……遠距離恋愛をする人たちの気持ちに想いを馳せて、それを言葉にしてみる。そしてついでに、その言葉からみんなの恋愛観を丸裸にしていくっと、こういうわけで……へへ」
「絶対に後半の方が本音じゃないですか~!」
「さぁて、それじゃあ……誰から語ってもらおっかなぁ~……」
「それはもちろん」美夜子先輩が短くした髪の毛の先にそっと触れて「言い出した人からに決まってますよね?」
「ふふ、そうきたか。では……」
茜先輩がそっと瞳を伏せた。くちびるの下のあたりを人差し指でそっとなぞって、そしてまた目を開けた。
「私にとって遠距離恋愛は……片想いのようなもの。それは遠くにいる人を想うから。そして、まだそばにいてくれたときのことを想うから。例えば……」茜先輩の視線が窓の方を向いた。「窓の外を見ていたときの後ろ姿、本のページを繰る指先、並んで歩いたときの横顔……」
茜先輩が言葉を切って、部室の中がシンとする。
「今はそばにいてくれないその人が、自分の人生の中心になってしまうような、そういうもの……」茜先輩がニヤァっと笑った。「だと思う……?」
「途中までよかったのに!」しらゆきがツッコミを入れる。「なんで最後だけ自信ないんですか!」
「頑張って考えてみました」そう言いながら茜先輩はメモ帳を取り出した。「立花茜さんは『片想いのようなもの』と。はぁい、わっかりましたぁ……。では次の人ぉ~」
自分の言ったことをさらさらと書き込んで、みんなを見回す。
「あ、じゃあ……」美夜子先輩が遠慮がちに手を上げた。「わ、私は遠距離恋愛って、自分の気持ちを確かめる時間のこと、だと思います」
「ふむふむ……」
茜先輩が美夜子先輩の言葉を書き留める。
「変わらない気持ちでいる……ずっと変わらない気持ちでいられるんだって、ちゃんと自分のことを信じられるようになる。そのための時間。私は、そう、思います」
「わぁ~」ひなた先輩が、胸の前で両手を合わせた。「みよっちに想われる人はしあわせだね~。だってこんなにも……力強く愛されるんだもの!」
「そうそう、『力強く』」茜先輩が大きくうなずく。「ここポイントね」
「そ、そうですよね、『力強く』」しらゆきはまっすぐに美夜子先輩を見ていた。「ここ、大切ですよね」
いつものようなやりとり。でも二人からは、いつものからかうような感じがしなくて。
「え~、それじゃあ、わたしはぁ~」両手を合わせたまま、ひなた先輩は上半身をくねらせて天井を見上げた。「遠距離恋愛は……会いたい気持ち、だと思いまぁす! そこからたくさんの良いものが生まれてくる……そういう気持ち! 詩とか物語とか、どんどん湧き出て、あふれてくるような。だって、渡したいよね、また会えたときに。その人をぜ~んぶくるんじゃうような、そんなあったかい気持ち……」
となりのしらゆきから、何かをこらえる気配がした。きっとまた、砂糖吐きそうなのかなって思った。
私は……姉さんのことを想っていた。遠距離恋愛をしている姉さん。あの日、久しぶりに帰省した遠山さんとのデート。
――それじゃあ、とーこ、いってくるね!
そう言って、私に手を振ってでかけていった姉さん。その姿、その笑顔。
『会いたい気持ち』
私は今、その言葉にあのときの光景を重ねている。
「あれっ?」私たちが何も言わないから、ひなた先輩は困ったように首を傾げた。「なにかヘンだった? だってわたし、恋ってよく分かってないから~……」
「あの……ヘンじゃないと思います。『会いたい気持ち』、たぶん、そうなんだと思います」
私はそう言っていた。
「オアアアアアアアアアアアッ!?」
しらゆきが今日二度目のヘンな声を上げていた。
「と、とーこっ、な、なんでそうだってわかるのっ!? も、もしかしてとーこ、遠距離恋愛したこと……してる、とか!?」
「しらゆきの圧がすごい……」茜先輩はにやにやしている。「でもね、とーこ、そうなの? ちゃんと説明したげないと、しらゆきが今夜、眠れなくなっちゃう……」
「うんうん!」
「ちょっと、ふたりとも! 両側から迫りすぎ! とーこ、困ってるじゃないの!」
「でもみよっち! わたしだって興味津々だよっ! ね、とーこちゃんっ、どーなの!?」
みんなの視線が集まって、私はなんだか顔が熱くなる。
「えっと……遠距離恋愛、私は、したことない、ですけど。でも、姉さんが……」
「お姉さんが!? お姉さんが遠距離恋愛してるんだ~?」
「あ、お姉さんって、春菜さんのことだよねっ!?」
「しらゆきちゃん、知ってるの?」
「あ、はいっ! とーこにそっくりな……とっても綺麗な人ですっ」
「おお……」茜先輩の声は、なぜか笑いに揺れている。「とーこにそっくりの、とっても綺麗な人なんだ……?」
「そうなんです!!」
どうしてだろう、なんだか恥ずかしい。はやく話を進めなきゃ、そう思って。
「あ、その、姉さんが……」うつむいているけど、みんなが私の次の言葉を待ってる気配が、すごくする。「遠距離恋愛を、してて……」
「うんうん、それで? 遠距離恋愛って『会いたい気持ち』なんだな~って感じる瞬間があったんだよね……?」
「はい、えっと……この前、久しぶりにデートすることになって」私はもう一度、頭の中であのときの光景を思い浮かべる。「おろしたての服を着て、玄関の扉を開けて、『それじゃあ、とーこ、いってくるね!』って手を振ったときの姉さんが……たぶん、そうゆう気持ち、だったんじゃないかなって思うんです」
「はえ~」
「うむうむ、そうなのや……」茜先輩がこほんと咳払いをする。「みなさん、お聞きになりましたか? とーこの圧倒的描写力。会いたい気持ちが伝わってくるようですねえ。んで? 二人のなれそめは……?」
「ちょ、茜先輩っ、そこまで聞くのは……!」
「ダイジョブダイジョブ……」茜先輩は本当に楽しそう。「私たちは口が堅いから。ここで聞いた話は、文芸部の部室から一歩たりとも外に出ないから。だからオッケェ……」
なれそめ。ふたりが出会ったときのこと。私はほとんど知らないけれど。
「小学校からの同級生の人で……高校一年生のとき、遠山さん……相手の人から告白されて、付き合うようになって……」
「めっちゃ王道展開ですやん」茜先輩の語尾がヘンになっている。「こりゃ将来ケッコンすんで……?」
「結婚? わぁ~」
結婚。そうだと思う。お父さんとお母さんのように。出会って恋に落ちて、結婚して夫婦になって、生涯を共にする。そうだとしたら、だとしたら今は。
「はい。婚約、してます」
「こっ」
となりから、しらゆきの息をのむ音が聞こえた。部室の中が、一瞬シンとする。
「こ、こんやくぅうううううううう!?」
「わぁ~、すてき~! ふたりは今、大学生?」
「はい」
「大学生で婚約かぁ~、うわあ~」
ひなた先輩はほっぺたを抑えて、照れている。
「大学生で婚約。なんだかえっちやね……」
「茜先輩っ!」
「ごめんごめんご……」
茜先輩が美夜子先輩に怒られている。でも、みんなどうしてこんなに驚いているんだろう? そういえば……藤沢さんたちとお出かけしたときに、似たようなことがあったような気がする。私が……『結婚』って言ったとき。でも……出会って恋に落ちて、結婚して夫婦になって、生涯を共にする。そうじゃないのかな? それは、当たり前のことじゃないのかな?
「そうなんや……」茜先輩は、なぜかとっても楽しそう。「じゃあ、とーこはそんなお姉さんに憧れてるんや……」
あこがれている? 私は姉さんのことが――。でも、姉さんの恋のことは――。
わからなくて、だから私は言っていた。
「でも……当たり前のことじゃないんですか? 出会って恋に落ちて、結婚して夫婦になって、生涯を共にする。そういうものじゃ、ないんですか? 恋をするって、そういうことじゃないんですか?」
部室の中は、今度こそ本当にシンとしてしまった。私が間違っているなら、私はどこを間違えているんだろう?
誰かが何かを言おうとして、でも言えない。そんな気配が続いて、うつむいた私の視線は、紅茶の動かない表面をさまよっている。
「とーこは……」茜先輩の声がした。「『いちばん最初の人』にぜんぶ注ぎ込んでしまうタイプなんやねえ……」
「で、でも……」美夜子先輩の声もする。「でも、それは!」
「そ。悪いことじゃないよ、だいじょうぶ」顔を上げると、茜先輩と目が合った。「そんなとーこをちゃあんと受け止めてくれる人が、かならずどこかにいるからね……」
「そう、ですね」美夜子先輩が笑う。「私もそう思います」
「いちばん最初の人にぜんぶ……」ひなた先輩はうっとりしている。「とーこちゃんに愛される人はしあわせだね。だってこんなにもまっすぐな愛情なんだもの……」
「そうそう、まっすぐ」茜先輩が言う。「巨大な岩が問答無用で転がり落ちてくるイメージ……?」
「茜先輩?」
美夜子先輩にギロリとにらまれる茜先輩。
「ふふ、とーこに愛される人はたいへんやね。でも望むところだよね? とーこに恋するくらいの人なら……」
そう言った茜先輩は、優雅な手つきでカップを手に取って、紅茶に口をつけた。
「それじゃあ、しらゆき?」カチャンとソーサーが鳴る。「準備は、いい……?」
私がしらゆきの方を見ると……まるで熱湯のお風呂に入ったみたいに真っ赤になっていた。
「は、はい」
よく見ると、セーラー服の襟元も、汗で色が変わっている。
「で、どう? しらゆきにとって遠距離恋愛って……?」
「遠距離恋愛。あたしにとって……」
少し考えたしらゆきが、キッと顔を上げた。
「わかんないです、あたし。まだ、遠距離恋愛なんて」それはとても真剣な口調で「だって今は……今はただそばにいたいです。だって、そうしなきゃ……」
――好き、なんだ。好きで好きで、好きすぎておかしくなっちゃいそうなくらい、好きなんだ……。
あの雨の中で、しらゆきはそう言っていた。そのときのことを、なぜか思い出してしまう。
「し、しらゆきちゃん~?」
「そうしなきゃ、その人の大切な人になれない。その人のこと分かりたいし、その人に必要とされたい。もし、その人がひとりで泣いてたら、あたしを、あたしのことを呼んでほしいです。もし呼んでくれなかったら……そんなの耐えられないかもしれないです。だからいつでも呼んでくれるように、離れたくない。そばにいたいんです……」
一気にそう言って、それからしらゆきはハッと気付いたように、なんだか……無理やりみたいな笑顔をつくった。
「あ、あ~、なんかストーカーみたいなこと言ってますね、あたし……」
「う~ん、まあ、そうかもね……?」
「いや、そこは否定してくださいよぉ!」
しらゆきが茜先輩にツッコミを入れる。
「あ、で、でもアレですよね。その……」慌てたように言い淀むしらゆき。「ぜんぜん質問の答えになってないってゆうか……」
本当に汗だくになっているしらゆき。私も何か言った方がいいのかなって思って。
「でも……」
口をはさんだ私を、みんながいっせいに見る。なんだかちょっと恥ずかしい。
「もし……しらゆきがストーカーしてる人も、しらゆきのことが好きだったら、その人もしらゆきがそうしてくれたら、とってもうれしいと思う……」
しらゆきはなぜかびっくりしたみたいに固まった。
「とーこちゃんのお墨付き~」
ひなた先輩がそう言ってふんわり笑う。
「ま、まずは」しらゆきの様子を見て、美夜子先輩が言う。「ストーカーの話から離れてあげたら……?」
「てゆーか、それ、もうフツーに恋人同士だよね……?」
茜先輩の言葉に、私もそうかもしれないって思う。
「あ、あたしは……」
何かを言いかけたしらゆきの方を見た。しらゆきも私を見ていた。臆病な瞳で、何か聞きたそうに、でも、とてもまっすぐに。どうしてしらゆきは、私をそんな目で……?
「ぷはあ!」
突然の大きな声に振り向くと、茜先輩が自分のカップを空にしていた。そして私のカップに手を伸ばす。
「茜先輩、お行儀が悪いですよ」ごくごくと勢いよく私の分の紅茶を飲む茜先輩に、美夜子先輩は自分の分も押しやる。「でも、今日は茜先輩の計略にまんまとのせられてしまったわね」
「そうですよ!」しらゆきも言う。「茜先輩にのせられて、なんかいろいろしゃべっちゃいましたよぅ!」
「ええの、ええの。それでええのんよ。みぃんな口の堅い子ばっかじゃけぇ……」
「いろんな方言が混じってんですよぉ!」
「でもっ! 本当に楽しかったよねっ! やっぱり真剣にお話するのってステキ!」
「それでは各々方……」茜先輩が姿勢を正した。「きょう得た情報を有意義に使って、頑張ってくださいね……」
「な、なんですか、それはぁ……」
「あ、そうそう、しらゆきちゃん!」
「はいっ?」
「図書室で八木重吉さんの詩集、借りたでしょう? もしかして、まだ返してない?」
「……あっ!!」
「もぉ、返却期限は守らなきゃ。」
「す、すいません!」
「ふっふっふ! 『秘密のルート』でなんとかしてあげる!! 明日、わたしとみよっちの当番だから、こっそり持ってきてね!」
「わ、わっかりましたぁ!」
□
カーテンを閉めようとして、ふと空を見上げる。七時を過ぎてもまだ、空にはかすかに青空の名残りがあった。私の部屋の窓から見える、いつもの風景。カーテンを閉めて、私はまた机に向かう。茜先輩にもらったノートに、心に浮かんだ言葉をただ書き連ねていく。こうしているうちに、私の知らない私の気持ちが、ふとした瞬間に零れ落ちたりしないかな、なんて思いながら。
――はい。婚約、してます。
今日、そんな言葉を口にしていた。姉さんに確かめてみたことはないけれど、でも……。
あの日、久しぶりのデートから帰ってきた姉さんの、少し疲れたような瞳。それはまるで背負いきれないくらいのしあわせを背負ってるようにも見えて。
――ほら、とーこ。こんな写真、撮ったよ。
私を外側に置かないように、ケータイで撮った写真を見せてくれる姉さん。そこには笑顔の姉さんに寄り添うようにして遠山さんがいた。私の方を……カメラの方を見ている遠山さんは、あのころよりどこか精悍になったような気がして、でも……シャツの襟元が少しだけよれている。
きょうの日の思い出は姉さんの中にしかない。それを私は、こんなふうに垣間見ている。
遠山さんは、姉さんのどんなところを? でも、そんなことは考えなくてもいいような気がする。姉さんは、とっても素敵な姉さんだから。遠山さんだって、そんな姉さんを好きになった。ただそれだけのこと。
だったら……姉さんは遠山さんのどんなところを? 私はそれを知らない。そして、知ろうともしなかった。知ること。そして、知ろうとすること。
つないだその手の先にある
その風景と物語
恋することのしあわせの
求めてやまないそのすべて
茜先輩の詩句が頭をよぎる。姉さんとつないだ手の先には姉さんがいて、でも、その心に映る風景を、紡いできた物語を、私はまだ知らない。
ふと、姉さんの部屋に行ってみようと思い立つ。
扉を開けるとそこは、姉さんのいない姉さんの部屋。でも、ここにはたしかに、姉さんが息づいている。
本棚に並んだ背表紙をひとつひとつ見ていく。視線はやがてすべり落ちて、大判の本が並んだいちばん下の段まで下りてくる。
姉さんの卒業アルバム、イラスト入りの世界地図の本、お父さんの書斎からあふれた建築関係の本。それから……?
よく見知っていたはずの姉さんの部屋。見慣れていたはずの本棚。でも、私はそこでセザンヌさんの画集を見つけていた。どうして今まで気づかなかったんだろう? 手に取るとずっしり重くて、表紙には山の絵が掲げられている。これは姉さんの本? それとも……。
セザンヌさん。美夜子先生の授業で習った智恵子さんのあこがれの人。ひもといてみると、ふわりと昔の本のにおいがした。そしてカバーの折り返しのところに……。
『セザンヌは作品に「胸をときめかせる穏やかさ」があって欲しいと望んでいた。』
そう書いてあった。なんだか気になる言葉。このまま詩の中に織り込めそうな。
「とーこ」
呼ぶ声に振り向くと、姉さんがいた。
「姉さん。この本……」
お母さんの?
「借りても、いい?」
「うん、いいよ! もっちろん!」
〇 神山しらゆき
――わかんないです、あたし。まだ、遠距離恋愛なんて。だって今は……今はただそばにいたいです。だって、そうしなきゃ……
じゃねェェェ!! 遠距離恋愛の話をしろよぉ! ひとりだけヘンなヤツになってるじゃんよぉ! でもぉ……しょうがないよね? とーこに出会っちゃったんだし? とーこ以外の人となんて……。
もしあたしが遠距離恋愛するなら、とーことそうなったときだけ。そうだよ、ね?
――とーこは『いちばん最初の人』にぜんぶ注ぎ込んでしまうタイプなんやねえ……。
じゃああたしは、とーこのいちばん最初の人になりたいな。いい? いいよね? だってあたしは、そうするしかないんだから……。
「姉ちゃん」
「どわあ!? なに!? なに!?」
「マンガ、借りてくぞ?」
「ソーイチロー! あんたちゃんとノックしなさいよ! 乙女の部屋だここぉ!」
「したよ、誰が乙女だよ。つーか姉ちゃん、なんかおかしーし、ずっと上の空じゃん」
「ほっとけ、あたしにだって色々あんだよぉ!」
「ふ~ん?」
「な、なんだよ?」
「文芸部ってさ、男の部員、いる?」
「い、いないけど……」
そっちじゃないかぁ……って小声で言いながらソーイチローが部屋から出ていくけど、そっちじゃないってどーゆーこと? ん? 文芸部? ……あっ!!
『八木重吉詩集』
ふ~、やっべ~、また忘れるところだった。明日、ちゃんと返さなきゃ。ノリで借りちゃって、茜先輩の言ってた詩――
「雨の日」
雨が すきか
わたしはすきだ
うたを うたおう
――を見つけたら、それで満足しちゃってた。う~ん、それってなんか申し訳なさすぎるし、このままじゃあ文芸部の名折れだよね!? よぉし、返す前にちゃんと向き合うぞぉ!! え~っと……この本には「秋の瞳」と「貧しき信徒」の二つの詩集が収録されてるのか~。え~っと……?
『私は、友が無くては、耐へられぬのです。しかし、私には、ありません。この貧しい詩を、これを、読んでくださる方の胸へ捧げます。そして、私を、あなたの友にしてください。』
あ、これかぁ! 茜先輩が八木さんを『八木っち』って呼んでたの! それって八木っちと友だちになったからなんだ! 八木っちは昔の人なのに、でもこの一文で結びついてるなんて……ん~、なんだかステキだなぁ! 文芸部ってカンジするぅ!
「白い枝」
白い 枝
ほそく 痛い 枝
わたしのこころに
白い えだ
あっ、これ知ってる! 小学校の教科書で読んだことある気がするっ! へ~、そっか~、八木っちのやつだったんだ~! 挿絵もあったよね? 心に、こう、ひびが入ったようなやつ!
「フヱアリの 国」
夕ぐれ
夏のしげみを ゆくひとこそ
しづかなる しげみの
はるかなる奥に フヱアリの 国をかんずる
あ~、これ、なんかわかるかも! あたしも教室の扉の前に立ったときとか、とーこの存在感?みたいなの、感じるんだよね~っ!!
「しづかな 画家」
だれでも みてゐるな、
わたしは ひとりぼつちで描くのだ、
これは ひろい空 しづかな空、
わたしのハイ・ロマンスを この空へ 描いてやらう
あたしもいつか、とーこへのラブレター、青空いっぱいに書いてみたいな~……などと供述をしており……って誰が不審者だ!! あたし、ストーカーじゃないってば!!!
「花になりたい」
えんぜるになりたい
花になりたい
あたしはとーこのカノジョになりたいッ!!
ん~、短くって、読みやすくって、なんか楽しい! あたしも作ってみたいな、こういうの!
でも、どうやるんだろ? 言葉を選び抜いて、とか? んや、もっとこう……ポンって出てくるんじゃないかなっ!? 心から思ったことが、ぴったりした言葉といっしょに!
なんか……できそうな気がする! だって今日は、自分の気持ちをどんどん言葉にできる日、そんな日な気がするっ! そんでもって、あたしも八木っちと友だちになったらァ!!
ノートを繰って見開き、まっさらなページ! 書く! 書けるっ! 今ならっ!
とーこといっしょ
あたしはうれしい
……いや、フツー! めっちゃフツー! 事実をそのまま述べただけェ!! えーっと、もっと他に何かないかな? そーだ! あの日、雨の中に立ってたとーこ。水たまりに広がる波紋を見てたよね……。
あなたも雨つぶ?
あたしの心に
波紋を広げて
……とか? うお~い! イミわかんね~! いや、あたしにはわかるんだけど! あたしにはわかるんだけどぉ!!
とーこ、だいすきだよ
わくわくするこのむね
ハイきた! 直球きた! やっぱ直球っしょ!!
とーこがわらう
あたしもわらう
……あれ? そういえばあたし、とーこの笑顔、見たことあったっけ? あ~、そっか~、とーこってばあんな感じだから、雰囲気的に楽しそうとか分かっても、にっこり笑ってるのとか見たことないや。んま! でも! これからだよね!! あーヤバ! なにこれ! どんどん書けるっ! なんか楽しくなってきたぁ!!
「……」
って、ちょっとォ!? 楽しくなりすぎて、逆に書けなくなったんだけど!? もしかしてクールダウンいる!?
網戸を開けて、窓から身を乗り出してみる。この夏の夜空をいっぱいにしてるものに顔を押し当ててみたい!
夜空に深呼吸
あたしの吐息を
とーこの胸に届けて
なんちてっ! な~んちてっ!! 胸ってなんだよ! なんかえっちだよ!! ま、いいよね? 耳を澄ませてみたら、遠くから小さくコォォって音が聞こえる。なにこれ? 遠くを走る車の音? それとも飛行機の音? それにしちゃ、あのチカチカするやつが見えないけどさ~。
夜空を見上げて
耳をすませば、本当にすませば
聞こえてくるはず
とーこの息遣いだって
星空、そして月。とーこはもう眠ったかな?
星がまたたいて、とーこはまばたいて
月は輝いて、とーこは眠ってる
もしも……もしもあたしに空が飛べるなら。このままとーこに会いに行くかもね。
空を飛びたいな
とーこに会いたいな
あたし……あたし、なんか、とーこのことばっかりだ。あたしの中、とーこのことでいっぱいだ。だからまわりのものも、ぜんぶとーことのことになっちゃうんだ。はぁ、とーこ。ねぇ、とーこ。好きな人の名前つぶやくのってヤバ。なんか気持ちよくなる……。
「好きだよ、とーこ」
夜空につぶやいた名前を
夜風がつれてって、ちょっとまって!
とどけないで、まだだよ!
いつかちゃんと、じぶんでちゃんと
伝えるんだから……
なんでだろ? ぜんぜん恥ずかしくない。この胸のしあわせな感じが、ずっとあたしにこうささやいてるみたい。これでいいんだ、これでいいんだよって。冬湖に知ってほしい。恋する気持ちを知ってほしい。そのためにあたしは、どんな物語を書くんだろう……?
夜風はやさしくて、この世界に冬湖がいて、明日また学校で会える。あたしってば、ほんとうにしあわせだ……。
「さむっ!」
朝、寒くて目が覚めた。シャツとパンツだけ。かけ布団はどっかいってた。とーこと付き合うようになったら、ちゃんとおしゃれなパジャマ、着ないとな~、なんて。
「んあれ?」
机の上に広げられたままのノート。え~と、そういえば昨日は、ノリノリでなんか書いてたような……。
「な、なんじゃこりゃああああ!?」
そーだった!! なにしてんの!? う、うわ、うわ……う~~! こんなのとーこに見せられないっ! 見られたら、死ぬっ! 恥ずか死ぬっ! 黒歴史確定ッ! どーしてこんなことにィ!?
「……」
でも……うん、たのしかった。たのしかったんだ。こんなふうに自分の気持ち、ちゃんと言葉にできて。ありがとね、八木っち! これであたしもお友だち!!
――いちばん最初の人にぜんぶ注ぎ込んでしまうタイプなんやねえ……。
だったら、あたしの返事はこうだよ。
あたしは種になりたいな
畑に播かれた白い種
あなたが注いでくれたなら
花を咲かせて実もなるよ!
うん、そう、そうだよね。こんなふうに書かなきゃだめなんだ。あたしの気持ちにぴったりの、そんな言葉だけで紡がれた、そんな物語じゃなきゃだめなんだ。ねえ、とーこ。一生懸命書くよ。だからいちばん最初に読んでね。あたしの、初めての、恋愛小説……。
【引用】
青空文庫・八木重吉「秋の瞳」「貧しき信徒」より




