第9話 「冬の師」
年が明けて最初の雪が降った朝、陣屋に見知らぬ老人が現れた。
六十を過ぎた白髪の老人で、体は細いが背筋がまっすぐに伸びていた。腰に小さな刀を差しているが、侍の身なりではない。僧侶でも行商でもない。何者か、一見では判断できなかった。
鎌田が出てきて、老人と言葉を交わした。親しそうな口振りだった。老人が去った後、鎌田が俺を呼んだ。
「あの老人を知っているか」
「いいえ」
「城倉という。かつて槍の名手として知られた男だ。今は隠居して、近くの村に住んでいる」
城倉。
「俺に何か関係があるんですか」
「あの老人が、お前を指導したいと言った」
「なぜ俺を」
「合戦の話を聞いたらしい。岡部殿の縁で話が伝わったのだろう。面白い足軽がいると」
槍の名手と言われた老人が、わざわざ足軽の俺を指導したいと言ってきた。理由が分からないが、断る理由もない。
「お受けします」
「二日に一度、城倉殿の家に通え。午前中だ。午後は通常の仕事をする」
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城倉の家は、陣屋から徒歩十分ほどの小さな農村にあった。
庭が広く、中央に砂を敷いた稽古場がある。冬の冷たい空気の中、俺は初めて城倉の前に立った。
老人は俺の槍の構えを見て、一言言った。
「下手だな」
「まだ半年ほどしかやっておりませんので」
「半年でその形が出来上がっているなら、矯正が難しい。本当に下手な方が修正しやすい」
城倉は静かな声で言った。怒鳴らない。しかしその言葉は刃のように刺さった。
「まず構えを全部捨てろ。今まで覚えたことは忘れろ」
「伊助さんに習ったことも?」
「伊助か。悪くはないが、そやつは生き残り型の使い手だ。お前が目指すのはそれだけでいいのか」
俺は少し考えた。
「より強くなりたいです」
「ならば全部捨てろ」
そこから俺の槍術の再習得が始まった。
城倉の指導は、根本から違った。
伊助の指導は「生き残るための槍」だった。無駄を省き、体を守りながら戦う。実戦的で有効だ。しかし城倉の教えは「相手を制する槍」だった。
最初の七日間は、立ち方だけだった。
槍を持たずに、ただ立って、足の位置と体重の分配を調整し続けた。左足をここに、右足をここに。膝の角度、腰の位置、肩の高さ。毎日来るたびに城倉が少しずつ修正した。
「なぜ立ち方からなんですか」
「根がなければ幹も枝も育たない。どんな技も、正しい体の土台がなければ崩れる」
十五日目から槍を持った。
しかしまだ突かない。持って立つだけだ。槍を持った状態での体重分配、重心の位置、手首の角度。これもまた毎日来るたびに修正が続いた。
俺は焦れなかった。
城倉のやり方が正しいと、体が感じていたからだ。正しい立ち方で立つと、体が安定する。その安定した土台の上に動作を乗せると、全体の精度が変わる。稽古のない日も、この立ち方を練習した。陣屋の庭で、槍を持って立つだけ。他の足軽が不思議そうに見ていたが、気にしない。
二十日目に初めて突いた。
城倉の前で一突きすると、老人が「止めろ」と言った。
「その突きの何が違うか分かるか」
「分かりません」
「重心が後ろに残っている。突くと同時に前重心になれ。そうすれば突きの末端まで体重が乗る」
もう一度突いた。
その違いが、体感できた。重心が前に移動した瞬間、穂先の力が倍になった感覚がある。同じ腕の力で、まるで別の突きになった。
「今のが正しい」
城倉が初めて「正しい」と言った。
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城倉の家に通いながら、老人の過去を少しずつ聞いた。
城倉はかつて、ある大名家の侍組頭だったらしい。合戦に十以上参加し、手傷を六度受けた。五十代で退いて、今は村で静かに暮らしている。
「なぜ俺を教えようと思ったんですか」
ある日、稽古の後に聞いた。城倉は少し考えてから言った。
「岡部殿から話を聞いた。地形を読んで先行し、三人で三十を抑えた足軽がいると。それだけなら珍しくもない。しかしお前が合戦後に傷の手当てをしたとも聞いた。夜も鍛錬を続けていたとも」
「それが何か」
「槍の腕を磨くのと同時に、他のことも考えている。戦場で生き残るだけでなく、もっと先を見ている。そういう人間は面白い」
城倉の目が、遠くを見るような色になった。
「俺は若い頃、ただ強くなることしか考えなかった。おかげで強くはなったが、何のために強いのかが分からなかった。晩年になってようやく気づいた。強さは手段であって目的ではない、と」
「先生は、何のために戦ってきたんですか」
城倉はしばらく黙った。
「分からなかった。だからお前のような人間が、どこへ向かうのかを見てみたいと思った」
老人の言葉は率直だった。
俺はどこへ向かうのか。城持ちになるのが目標だ。しかしそれは手段か目的か。まだ答えは出ていない。城倉の問いが、俺の中で静かに残った。
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一月が経つ頃、俺の槍術は確かに変わっていた。
伊助が見て、「別人みたいだな」と言った。
「先生に矯正してもらった」
「城倉殿か。それは得難い機会だ」
伊助はそれだけ言って文書の仕事に戻った。その背中に何かがある気がしたが、聞かなかった。
竜之介と組手をすると、差が歴然だった。以前は互角以上だったが、今は竜之介が三合持たない。
「強くなりすぎですね」
竜之介が息を切らして言った。
「お前も城倉先生に頼んでみるか」
「無理です。先生は気に入った人間しか教えないという話ですよ」
「気に入られるよう努力しろ」
「どうすればいいんですか」
「面白い人間でいることだ」
竜之介は首をかしげたが、翌日から城倉の家に顔を出し始めた。結果として、城倉は竜之介の稽古も引き受けた。理由を聞くと、「こいつも面白い」と言った。
竜之介の何が面白いのかは分からなかったが、まあいいか、と思った。
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冬の間に、もう一つ重要なことを学んだ。
読み書きだ。
この時代、字が読める足軽は珍しい。しかし実際に文書を読んだり書いたりする機会は、思った以上に多かった。領地の管理、物資の記録、伝令の文。それらをこなせる者は重宝される。
俺は鎌田に頼んで、陣屋にある文書を読む許可をもらった。桑田家の記録文書、過去の合戦の報告書、領内の村々の帳面。それらを読み込んでいくと、桑田家の状況が少しずつ見えてきた。
桑田家は小さい。石高にして一万石にも満たない小領主だ。三田家との揉め事が続く一方で、北側の大名からの圧力もある。財政は厳しく、足軽への給金も遅れがちだ。
数字を見ていると、問題が分かってきた。収入と支出のバランスが崩れている。合戦が増えるほど出費が嵩み、農村からの年貢が十分に集まっていない。このままでは家臣への給金が滞り、離反が起きる。小領主が傾くとき、決まってこの構造だ。
大きな変動が来るとすれば、数年以内だろう。その前に、自分の地位をもう少し上げておく必要がある。
春が来れば、次の戦がある。
俺は帳面を閉じた。外で雪が止んでいた。




