第10話 「春の予感と黒い影」
春が来た。
田んぼに水が張られ、農民たちが苗を植え始めた。冬の間に覚え込んだことが体に馴染んで、俺の体が半年前とは違う動き方をしていた。
城倉の稽古は週三回続けていた。
その日の稽古で、城倉が初めて俺と打ち合いをした。
老人が木槍を持って向かい合うと、空気が変わった。六十を超えた老体だ。しかし構えた瞬間から、体から発されるものが違う。重力が変わったような、圧迫感がある。
俺は戦略眼を使った。
城倉の重心、体重の乗り方、視線の角度。情報が流れ込む。しかし——。
打ち込まれた。
気づいたら木槍の穂先が喉元にあった。俺の槍は弾かれていた。いつ弾かれたのか、体で追えなかった。
「もう一度」
二回目。今度は戦略眼を全力で使いながら待った。城倉が動く。足の踏み出しの角度、腰の回転が始まる瞬間、槍の方向。情報が来た瞬間に体を動かした。
弾いた。
しかし次の動作が来た。俺が弾いた直後、城倉の槍がすでに別の角度に来ていた。今度は腹に当たった。
「三回目」
三回目、一合持った。しかし四合目で倒された。
俺は息を切らしながら、城倉を見た。老人はほとんど息が乱れていない。
「お前、何かが見えているな」
俺が固まった。
「何ですか」
「動く前に、相手の情報を読んでいる。普通の人間の読み方ではない。目ではなく、別の何かで見ている」
城倉は槍を下ろして言った。
「しかし、読んだ情報を処理して動くまでに、わずかに時間がかかる。そこを突けば崩せる」
核心を突かれた。戦略眼で情報を得ても、体がそれを処理するまでに僅かな遅延がある。その遅延が城倉には見えていた。
「直せますか」
「直すのではない。慣れろ。情報が来た瞬間に体が動くまで繰り返せ。考えてから動くのではなく、情報を受け取った瞬間に動き始める癖をつけろ」
俺は頷いた。
「分かりました」
稽古が終わった後、一人で残って練習した。戦略眼で周囲の情報を流し込みながら、受け取った瞬間に体を動かす。最初はまだ意識が介在する。しかし繰り返すうちに、少しずつ「読む→動く」の間が詰まってくる気がした。
地味な作業だが、やめない。これが次の合戦で命を救うかもしれない。
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陣屋に戻ると、雰囲気が少し違っていた。
足軽たちが集まって、小声で話している。
「何かあったのか」
竜之介に聞くと、竜之介が少し神妙な顔で言った。
「三田が兵を動かしているという報告が入ったらしいです。本格的な侵攻かもしれません」
来た。
春の到来と同時に、次の戦の気配が現れた。
鎌田が全員を集めたのは夕方だった。
「三田が兵を集めている。前回の合戦の雪辱に来る可能性がある。本城から岡部殿が増援を率いて来る予定だ。今回は前回より規模が大きい。全員、準備を整えよ」
前回より規模が大きい。
前回は小競り合い程度だった。今回は本格的な合戦の可能性がある。三田側が雪辱を期して精鋭を投入してくれば、あの丘の戦とは桁が違う。
しかし準備はしてきた。
胴丸がある。木製の鉢金がある。城倉に習った槍術がある。十ヶ月近い経験がある。傷の手当ての知識がある。
頭の中で作戦を練り始めた。前回の戦の反省点を洗い出す。東側の急斜面の先行は有効だった。しかし兵が多ければ、急斜面を抑えるだけでは不十分になる。伏兵の配置、連絡手段の改善、傷者の後送経路。今度こそ戦が始まる前に、これらを鎌田に進言できる準備を整えておく。
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その夜、俺は一人で庭に出た。
月が明るい夜だった。田んぼに張った水が月を映して、銀色に光っている。蛙が鳴き始めていた。春の夜だ。
俺はこの時代に来て、一年近くが経った。
不思議なことが一つある。「戻りたい」という気持ちが、以前より薄くなっている。
(なぜだろう)
今の俺には、毎朝体を鍛える理由がある。技術を磨く目標がある。仲間がいる。明日死ぬかもしれないが、今日確実に生きている。その実感がある。
以前はそれがなかった。日々が流れていくだけだった。
案外、単純な理由なのかもしれない。
竜之介が庭に出てきた。
「眠れないですか」
「少し考え事を」
竜之介が隣に立った。二人で月を見た。
「橘殿は怖くないんですか、次の戦」
「怖い」
「本当に?」
「本当に。ただ怖くても行くしかないから、どう怖さを処理するかを考えている」
「どう処理するんですか」
「準備を全部やり切れたと思えれば、少し楽になる。やり残しがあると怖さが大きくなる」
竜之介は考えながら聞いていた。
「じゃあ俺は準備が足りないです。まだ胴丸が薄いし、城倉先生の稽古も三ヶ月しかやっていません」
「完璧な準備なんてない。やれることをやった、と言い切れるかどうかだ」
「言い切れるか自信がありません」
「言い切れなくていい。やれることをやっていれば、それで十分だ」
竜之介は少し黙った。
「橘殿、聞いてもいいですか」
「何だ」
「橘殿は、本当にどこから来たんですか。旅の者って言っているけど、旅人にしちゃ知りすぎてます。薬の使い方、道の作り方、文書の読み方、地形の読み方。普通の人間じゃないですよ」
俺は少し黙った。
竜之介は一年近く一緒にいる。信用できる。しかし、本当のことを言える状況ではない。信じたとしても、それが竜之介の身を危険にさらす可能性がある。
「遠い国の出だ。いろいろ学んできた。詳しい話は、また今度な」
「遠い国って、唐ですか」
「それよりもっと遠い」
竜之介はしばらく考えてから、「まあいいですか」と言った。
「どこから来ても、橘殿は橘殿です。それだけで十分ですよ」
月明かりの中で竜之介の横顔を見た。十六で足軽になり、一年で人を刺し、それでも前を向いている顔だ。
俺はこいつの隣に座ったまま、何も言わなかった。
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翌朝、思いがけないことが起きた。
陣屋の前に、見知らぬ侍が立っていた。三十代前半の男で、身なりが良い。腰の刀は上等で、着物の家紋が見えた。桑田家の家紋ではない。
男は鎌田と話していたが、俺が出てくると視線が俺に向いた。
「橘蓮か」
「はい」
「岡部殿の紹介で来た。俺は石渡という。本城の近習組頭を務めている」
本城の近習。
鼓動が少し上がった。
「桑田様がお前に直接会いたいと仰っている。近々本城に来るよう」
俺は鎌田を見た。鎌田は無表情だが、目に何かある。
「……承知しました」
「明後日の朝、本城の門前に来い。俺が案内する」
石渡は言い置いて、馬に乗って去った。
鎌田が近づいてきた。
「よかったな」
「ありがとうございます」
「足軽が領主に直接会う機会は滅多にない。粗相のないようにしろ」
「はい」
「それと」
鎌田は一拍置いた。
「何があっても、正直に答えろ。桑田様は嘘をつく者を嫌う」
鎌田の言葉が、妙に引っかかった。正直に、と言った。俺の出自について、何かが問われるかもしれない。
春の風が吹いた。
田んぼの水が揺れて、月の欠片が散らばった。




