第6話 「丘の上の死線」
夜明けとともに出発した。
桑田本城からの増援三十名と合流したのは、朝日が昇り切る前だった。増援の組頭は四十代の侍で、名前を岡部といった。がっしりした体つきで、目が細く、口数が少ない。
俺たちの鎌田が経緯を説明すると、岡部は東側先行の話を聞いて少し眉を動かした。
「足軽が地形を読んだのか」
「はい」
「使えるか」
「お役に立てると思います」
岡部は俺を上から下まで見た。
「本当に登れる道があるなら使え。ただし本隊と連絡を取り合え。勝手に動くな」
「承知しました」
伊助と源三郎と三人、俺たちは先行隊として丘の東側へ向かった。
問題の丘は、集落から半刻ほど歩いた先にあった。
近づくにつれ、戦略眼の情報が精細になる。丘の輪郭、岩の配置、地表の固さ。足場の悪い部分が警告するように頭に浮かぶ。
東側に回り込むと、急斜面が目の前に現れた。高さは十間ほど。角度は六十度近い。普通に登ろうとすれば手も使わなければならない。
伊助が見上げた。
「本当に登れるのか、これ」
「あの岩の右脇に、幅三尺ほどの足場があります。そこを伝えば上まで行けます」
頭の中の情報を頼りに指さした。伊助が目を細めた。
「……確かに段差があるな」
「先に行きます」
槍を背中に縄で縛り付け、両手を使って登り始めた。岩の感触を確かめながら進む。足場が滑りやすい箇所は体重を分散させ、上半身を前傾きにする。
半分ほど登ったとき、右足が滑った。
瞬間的に左手で岩を掴んだ。体が揺れたが、落ちなかった。心臓が跳ね上がり、全身から冷や汗が出た。
下から伊助の声が聞こえた。
「大丈夫か」
「問題ない」
嘘だった。足が震えていた。落ちていたら最低でも足を折っていた。しかし止まれない。
再び登り始めた。頂上まで、体感で十分ほどかかった。着いたとき、思わず大きく息を吐いた。振り返ると、遥か下に伊助と源三郎が小さく見えた。
「来られるか」
「行く」
伊助が登り始め、続いて源三郎。源三郎は身軽で、俺より速く登ってきた。三人が丘の頂上に揃った。
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丘の頂上からの景色は、思った以上に広かった。
西側には緩い斜面が続き、その向こうに三田領との境界線となる集落が見えた。南には田んぼが広がり、北には林がある。
そして三田側の動きが、すでに始まっていた。
西側の斜面の麓に、人影が集まっていた。遠目にも武装した男たちの群れと分かる。数は二十から三十。旗が風に揺れていた。
「来てる」
伊助が短く言った。
戦略眼で三田側の動きを読んだ。足並みが揃っている。統率が取れている。ただの寄せ集めではない。しかし装備を見ると、精鋭ではなく先鋒の足軽衆だ。本体はまだ後方にいる。今動けば、本体が合流する前に先鋒を抑えられる。
「本隊への合図は」
「煙だ。火を焚けば本隊が動き始める」
鎌田から聞いていた通りだ。俺は周囲の枯れ草と木の枝を集め始めた。火打ち石と火口は事前に用意してある。
源三郎が西側の斜面を見ながら言った。
「二十五から三十。旗は三田の家紋だ。本隊の精鋭ではない。先鋒の足軽衆だろう」
「本体はまだ後ろにいると」
「丘を先に押さえようという腹だ。俺たちと同じ考えだ」
時間がない。
俺は火を起こした。枯れ草が燃え始め、枝を重ねると煙が上がった。白い煙が青空に伸びる。
西側の敵の動きが変わった。誰かが丘の頂上を指さし、声が聞こえた。俺たちが先に頂上を押さえたと気づいたのだ。
「動き出した」
三十人が西側の斜面を登り始めた。走っている。
鼓動が急速に上がった。
三人対三十人。
数の差は圧倒的だ。しかし高所の優位がある。本隊が間に合えば。
「守れるか」
伊助が俺に聞いた。俺は西側斜面の状況を戦略眼で捉えた。
「登り口は狭い。一度に来られるのは三、四人が限界です。最初の波を防げれば、本隊が来るまで持ちます」
「やるしかないな」
伊助は槍を構えた。源三郎は刀を抜いた。
俺も槍を握った。
手が震えている。体が震えている。しかし槍は下ろさない。
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敵の先頭が斜面の中ほどまで来た。槍を持った足軽だ。顔が見えてきた。同じような年齢の、普通の農民の顔だ。
俺たちと変わらない。
先頭の男が頂上に差し掛かった瞬間、源三郎が動いた。
半歩前に出て、刀を横に薙いだ。男の槍の柄を打ち、弾いた。男がよろけて、源三郎の追撃で肩を打たれた。男は斜面に倒れ、そのまま転がり落ちた。
素早かった。一瞬の出来事だった。
次の男が来た。伊助が槍を突いた。男が槍を弾こうとしたが、伊助の突きは重く、弾ける前に穂先が男の肩に当たった。深くはなかったが、男は体勢を崩して後退した。
三人目が来た。俺の番だ。
男が斜面を登り切ろうとした瞬間、俺は槍を突いた。狙いは腹だった。
穂先が当たった感触があった。柔らかくて、重い抵抗。
男が声を出した。空気が押し出されるような、短い声だ。
俺は槍を引いた。男の腹に血が滲んでいた。深くは刺さっていない。しかし男は痛みで足が止まり、後退した。
血を見た。
自分がつけた傷だ。
胃が引っくり返る感覚があった。吐きそうになった。しかし体が動き続けていた。次の敵が来るから、止まれない。
四人目、五人目。
伊助と源三郎と三人で、斜面の登り口を押さえ続けた。高所の優位は本物だった。登ってくる者は足場が悪く、体勢が不安定だ。槍を振るうのも難しい。こちらは安定した地面の上から突き下ろせる。
それでも、数が多い。
十人目を処理した頃、俺の腕が疲れてきた。恐怖で余計な力が入りすぎていた。槍の柄を握る手が白くなっている。
「力を抜け」
源三郎が隣で言った。戦いながら話している。
「腕に力を入れすぎだ。槍は体で動かすと言ったろう」
「今それを言いますか」
「今だから言う」
俺は意識して手の力を緩めた。槍の重さが変わった。体の軸を意識して、腰から突く。確かに動きが変わった。
戦略眼が少し働いた。次に来る男の足の踏み出しの角度が、一瞬先に見える。それに合わせて槍を振った。男の槍を弾き、追撃で太ももを打った。男が後退した。
使える。こういう場面で使える。
十二人目が来たとき、俺の槍が太ももに刺さった。
男が叫んだ。高くて、短い叫びだ。
俺は槍を引いた。手が止まらなかった。止まったら死ぬ。しかし左手の感触が消えなかった。
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本隊が到着したのは、それから四半刻後だった。
西側の斜面を岡部率いる五十人が駆け上がってくる声と足音が聞こえた。三田側の足軽衆が動揺した。前後から挟まれる形になると気づいたのだろう、後退が始まった。
じわじわと引いていく。
やがて三田側の軍は完全に引いた。
俺は槍を地面に突いて、体を支えた。
全身が震えていた。腕が限界だった。足も笑っている。呼吸が荒い。
伊助が地面に座り込んだ。
「生きてる」
一言だった。しかしそれが全てだった。
源三郎は立ったまま、刀についた血を布で拭った。表情は変わっていない。
俺は丘の東側の斜面を見下ろした。転がり落ちた足軽が一人、斜面の途中で動かなくなっている。他の者は自力で立って引いていった。
農民の顔。俺と変わらない顔。
その論理は分かっている。しかし手のひらに残る感触は、論理では消えなかった。
岡部が丘の頂上に来て、周囲を確認した。俺たちを見て、伊助に聞いた。
「三人でここを守ったのか」
「はい」
「損害は」
「軽傷が一名。死者なし」
岡部が俺を見た。
「お前が地形を読んだ足軽か」
「はい」
「よくやった」
短い言葉だった。岡部の目は真剣だった。
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その夜、俺は野営の火の前に座っていた。
丘の戦は終わった。俺は生きている。竜之介も本隊の一員として無事だった。
しかし手のひらの感触が、まだ残っていた。
火が揺れた。男の顔が浮かんで、消えた。




