第37話 「権蔵の過去」
十月の終わり、権蔵が病に倒れた。
熱が出て、三日寝込んだ。珍しいことだった。権蔵はこの二年、風邪一つ引かなかった。大きな岩が突然静かになったような、落ち着かない感覚がある。
俺は城の薬箱から葛根を取り、煎じて届けた。
権蔵の部屋に入ると、大きな体が布団に収まっていた。顔が赤く、目が重そうだ。いつもの迫力がない。
「葛根の煎じ薬です。熱に効きます」
「医術まで知っているのか」
「少し」
権蔵は薬を受け取って飲んだ。苦そうな顔をしたが文句は言わなかった。
「弱っているな」
「人間だから弱る」
「それはそうですが、権蔵さんが弱っていらっしゃるのを見るのは初めてです」
「お前、俺を鉄でできていると思っていたか」
「少しそう思っておりました」
権蔵が笑った。笑うと咳が出た。
「笑うな」
「笑わせないでください」
俺は部屋の隅に座った。他にやることは特にない。薬が体に馴染むまで、少し時間がかかる。
「少しお話しできますか」
「何の話だ」
「権蔵さんの昔のお話を聞いたことがないので」
権蔵は布団の中で少し考えた。
「聞いてどうする」
「ただ聞きたいのです。城倉先生が亡くなってから、人の話を聞く機会が減りました」
「城倉殿のことは残念だった。俺も少し話したことがある」
「そうなのですか」
「一度だけ。お前のことを聞かれた。橘蓮という奴はどんな人間か、と」
「城倉先生がですか」
「ああ。俺が見た橘蓮の話をした。面白い奴だと答えた」
「何が面白かったですか」
「足軽の頃から、立場より仕事を先に考えていた。普通は逆だ。どう動けば自分の立場が上がるかを先に考える。お前は違った。それが珍しくて、覚えていた」
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権蔵が少し楽になったのを確認してから、話を促した。
権蔵は天井を見ながら話し始めた。声が静かだった。
「俺の昔の主君は、小さいが義のある人だった」
「義のある、とおっしゃいますと」
「約束を守る人だった。農民と交わした約束を守った。足軽への給金を遅らせたことがなかった。それだけのことだが、それだけのことが守れない主君の方が多い」
「なぜ滅びたのですか」
「義があっても、力がなければ滅びる。隣の大きな領主が攻めてきて、三日で城が落ちた。援軍を呼んでいたが、間に合わなかった」
権蔵の声は静かだった。感情を抑えているのではなく、この話を何度も自分の中で繰り返してきた声だ。
「俺は外の使いに出ていた。援軍を呼びに行く役だった。しかし間に合わなかった。城に戻ったとき、主君は死んでいた。仲間が半分以上死んでいた」
「お顔の火傷は、その時のものですか」
「燃えている城から二人を引き出した。三人目は間に合わなかった」
俺は黙って聞いた。権蔵の声の静けさが、その重さを示していた。火の中に戻って人を救おうとした男が、それでも一人届かなかった。権蔵の顔の火傷を、初めて正面から見た気がした。
「それから十年、いくつかの主君に仕えた。しかし最初の主君のような人には会えなかった。義があって力がある、というのは難しい。力のある者は義を忘れやすく、義のある者は力が足りないことが多い」
「桑田様はいかがですか」
権蔵は少し考えた。
「義はある。約束を守る。足軽への給金を遅らせたことがない。しかし力はまだ足りない。それが今の桑田家だ」
「力をつけるために何が必要だと思われますか」
「人だ」
「人、ですか」
「信頼できる人間が増えれば、動ける範囲が広がる。お前みたいな奴が五人いれば、桑田はもっと大きくなれる」
「俺一人でも手一杯ですが」
「それは今の話だ。三年後は分からない」
権蔵は目を閉じた。
「眠くなってきた」
「お休みください。薬が効いてきたんだと思います」
「お前、本当に何者だ」
眠りかけながら権蔵が言った。
「旅人です」
「旅人が侍になっているな」
「この時代はそういうものでしょう」
権蔵はそれ以上言わなかった。眠りに落ちた。
大きな体が、子供のように静かに息をしている。俺は少しの間そこに座ってから、静かに部屋を出た。
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廊下に出ると、秋の風が通り抜けた。
義があっても力がなければ滅びる。権蔵はそれを実際に見てきた。桑田は今、義がある。しかし力はまだ足りない。俺がここにいることが、その差を少しでも埋められるかどうか。廊下を歩きながら、それを考えた。
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長屋に戻ると、竜之介が帳面を広げていた。
「権蔵さん、大丈夫ですか」
「薬が効いてきた。三日で戻る」
「よかったです。俺も行けばよかったですか」
「二人で行っても狭い。それより帳面の方はどうだ」
「一応終わりました。確認してもらえますか」
俺は帳面を見た。数字は合っている。字も以前より読みやすい。
「悪くない」
「悪くないですか。いいとは言わないんですね」
「あと一歩、数字の並べ方を統一すると見やすくなる。今は村ごとに違っている」
「そこまで気づいていませんでした」
「直せばいい。次からそうする」
竜之介は帳面を修正しながら言った。
「橘殿、最近変わりましたね」
「どう変わった」
「なんか、落ち着きました」
「落ち着いたか」
「城倉先生が亡くなってから、少し静かになりました。前はもっとぱっぱと動いていました」
俺は少し考えた。
「城倉先生がいた頃は、先生に確認できた。今は自分で全部決めないといけない。それで少し慎重になったかもしれない」
「それが落ち着いたように見えます」
「慎重すぎると、動けなくなる」
「そうなっていないから大丈夫ですよ」
竜之介はそう言って、修正した帳面を書き直し始めた。
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源三郎が道場で稽古をつけてくれていた夜のことだ。
組み合いが終わって、二人で座っているとき源三郎が言った。
「城倉殿が亡くなってから、お前の刀が変わった」
「変わりましたか」
「以前は城倉殿の形を意識していた。今は自分の形になってきている」
「先生の形を失ったということですか」
「違う。引き継いで、お前のものになってきている。城倉殿が喜ぶ変わり方だ」
手のひらを握った。源三郎は気づいていたかもしれないが、何も言わなかった。
目の前が少し滲んだ。俺は軽く目を拭いて、立ち上がった。
「明日また」
「ああ」
源三郎は黙って頷いた。
城倉の話は、それ以上しなかった。しなかった方がいい気がしたし、源三郎もそれを分かっていた。
城倉が残したものは、形ではなく動き方の中にある。その動き方が、少しずつ俺のものになっていく。
源三郎が言っていた言葉を、俺は一人で繰り返した。それが一番の供養だ、と。
(続く)




