第38話 「北の大名」
十一月に入ったある日、石渡が俺を呼んだ。
いつもより顔が硬かった。
「聞いてほしい話がある」
「何でしょうか」
「北の大名、浜田家が動き出している」
浜田。
浅野よりさらに北にある、中規模の大名だ。石高でいえば五万石ほど。桑田の六倍以上ある。浅野でさえ手を焼いた桑田が、浜田を相手にすれば正面からでは勝ち目がない。
「浅野と浜田が連携するということでしょうか」
「今すぐではない。浜田は今、東の別の大名と揉めている。そちらが片付くまで、こちらには来ない。ただ、片付いた後のことを考えておく必要がある」
「源三郎さんはご存知ですか」
「知っている。あいつが最初に話を持ってきた」
俺は少し考えた。
「桑田様のお考えは」
「今の桑田家の力では、浜田と真っ向からぶつかっても勝てない。しかしかといって、手を上げて降るのも桑田様の性分に合わない」
「別の道を探していらっしゃる、ということですか」
「そうだ。そのための動きの一つを、お前に任せたいと思っている」
俺は石渡を見た。
「俺に何ができるでしょうか」
「西の細川に、使者を送ることを考えている。今春の合戦では、細川は浅野に連携して桑田を挟む側だったが、浜田が大きくなれば細川も脅かされる。その点で、桑田と細川の利害が一致する可能性がある」
「交渉の使者を送る、ということですか」
「そうだ。お前に行ってほしい」
返す言葉が出なかった。
「俺が使者にですか」
「お前は足軽の頃から地形を読み、合戦では東を守り、城内では広瀬の仕事を支え、訓練の監督もしている。桑田の事情を全部知っている。それができる者が使者になれる」
「しかし俺は外交の経験がございません」
「誰でも最初はない」
石渡の言葉は短く、有無を言わせない強さがあった。
「準備期間は一ヶ月ある。その間に細川家について調べろ。俺も教えられることは教える。源三郎も知っていることがあれば話してくれるはずだ」
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その夜、源三郎に話した。
「細川に使者として行くことになりました」
「聞いた。石渡殿から俺にも話が来た」
「細川について教えていただけますか」
源三郎は少し考えてから話し始めた。
「細川は今の当主が三代目だ。先代が浜田の圧力で一度城を追われ、取り戻した経緯がある。浜田への警戒心は強い。ただ桑田への信頼はまだない。なにしろ今春まで同じ側で桑田を挟もうとしていた」
「それを知った上で交渉に行く、ということですね」
「そうだ。ただし今春、細川が実際には動かなかったことを覚えておけ。あれは単純に間に合わなかっただけかもしれないが、見方を変えれば、細川は最後の瞬間に判断を変えた可能性もある」
「つまり細川にとっても、浅野との連携は居心地が悪かったかもしれない、と」
「そう読むこともできる。お前が使者として行くとき、その点を掘り下げてみろ」
「どうやって掘り下げればよろしいでしょうか」
「直接聞けばいい。今春の件について、どう考えているかを尋ねる。相手の本音は、答えそのものより答え方の中にある」
「外交というのは、怖いものですか」
思わず聞いた。源三郎は少し目を細めた。
「戦場より怖い。戦場では、敵かどうかがはっきりしている。外交では、目の前の者が敵かどうか分からないまま話を続けなければならない」
「それでもやれますか」
「やるしかないから、やれる」
源三郎の言葉が体に刺さった。交渉も戦場と同じで、相手を読むことだ。刃が見えないだけで、構造は変わらない。
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一ヶ月の準備期間に、俺は細川家について調べ尽くした。
石渡が保管していた文書の中に、過去の細川との取引記録があった。水の利用について以前話し合いがあったらしい。広瀬の帳面の中に細川領との境界地帯の記録もあった。数字を追うと、細川の農村は近年収量が落ちている。原因は複数あるが、その一つが浜田からの圧力による兵の動員が続いていることだ。農民を兵に取られれば、田んぼの手が足りなくなる。
細川は静かに消耗している。
竜之介が調査を手伝った。
「細川は何が強い家ですか」
「騎馬の数が多い。平地での戦に強い。しかし山地では不利だ」
「桑田の城は山の上ですもんね」
「そうだ。正面から攻めてくるより、包囲して兵糧攻めにする方が細川には向いている。しかしそれには時間と人手がいる。浜田が大きくなってくれば、細川はそんな余裕がなくなる」
「つまり桑田と細川は、お互いに手を組んだ方が得ということですか」
「俺はそう見ている。問題は、細川がそう思っているかどうかだ」
竜之介は帳面から顔を上げた。
「橘殿が使者に行って、うまくいきますか」
「分からない。ただやれることはやる」
「行くのが怖くないですか」
「怖い。ただ合戦の前の怖さと似ている。準備して、当日に動くだけだ」
竜之介は少し笑った。
「合戦と外交が一緒ですか。橘殿はそういうところがありますね」
「根は同じだ」
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出発の三日前、桑田が俺を呼んだ。
「準備は整ったか」
「大体は」
「正直だな」
「完璧とは言えません」
「完璧な準備で行く使者などいない。重要なのは、向こうで何が起きても判断できるかどうかだ。お前はそれができる」
「過信しないようにいたします」
「過信と自信は違う。お前はそれも分かっている」
桑田は文書を出した。
「細川への書状だ。交渉の大きな枠組みはここに書いてある。ただし細かい条件はお前が現地で見て判断しろ。俺には分からないことが、現地にある」
「どこまで決めてよろしいですか」
「不可侵の期間と、共同の訓練、それと情報の共有まで。領地の貸し借りや金の話は俺に持ち帰ってから決める」
「承知しました」
桑田の目が静かだった。
「向こうで笑われても怒るな。向こうで無視されても焦るな。お前は桑田の顔として行く。その顔が崩れれば、桑田の評価が下がる。顔を保ったまま、できることをしてこい」
俺は頭を下げたまま、その言葉を体に収めた。
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出発前の夜、権蔵が長屋で待っていた。
熱はすっかり引いていた。顔の色が戻って、いつもの威圧感が戻っていた。
「明日出るな」
「はい」
「外交は戦と違う。刃が見えない分、判断が遅れやすい。急かされても急ぐな。考える時間は自分で作れ」
「分かりました」
「生きて帰れ」
権蔵はそれだけ言って横になった。言葉は少ないが、それで全部だった。
竜之介が帳面を閉じながら言った。
「俺も連れていってください」
その言葉が意外だった。
「外交の場だ。危険はないが、慣れないことも多い」
「それは分かっています。ただ一度、橘殿が外交をするところを見たいです。見なければ覚えられないことがあります」
竜之介の言い方は真剣だった。
俺は少し考えた。供が増えることで先方に余計な圧力をかける心配はある。しかし一人増える程度で判断が変わる交渉ではない。それより、竜之介が外交の場を見る機会を作ることの方が、長い目で見れば価値がある。
「分かった。連れていく。ただし現地では俺の指示に従え」
「分かりました」
留守を桝田に頼んだ。
「広瀬様の仕事と、訓練の様子を見ておいてください。何かあれば桑田様に報告を」
「承知した。竜之介も連れていくのか」
「外交の場を見せたいと思って」
「そうか。あいつに外交を覚えさせるつもりか」
「先を考えたら、今のうちに見せておいた方がいい」
桝田は短く頷いた。
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出発前の夜、竜之介が荷物をまとめながら言った。
「外交って、緊張しますね」
「まだ始まってもいない」
「始まる前から緊張しています」
「正直でいい。緊張しているのに緊張していないふりをするより、緊張していると知っていた方が動きやすい」
「それが橘殿の外交の仕方ですか」
「そうだ」
竜之介は荷物を縛り終えて、手を止めた。帳面の前に座っていた一年半前とは、手つきが違う。この男はいつの間にか、体で仕事をする顔になっていた。
明日、俺は桑田の使者として細川の城に向かう。
竜之介を連れて。
(続く)




