第36話 「秋の空白」
城倉が死んで、最初の七日間は不思議な感じがした。
毎週三回通っていた道がある。雨の日も雪の日も歩いた道だ。足元の石の位置まで体が覚えていた。しかし今は行く必要がない。その空白が、思った以上に体に残った。
稽古がなくなったわけではない。源三郎との刀の稽古は続いている。朝の素振りも続いている。しかし城倉との稽古には、技術以上のものがあった。
毎回「今日の仕事で一番難しかった判断は何か」と聞いてくれた。
その問いが、俺の思考の整理になっていた。戦略眼で地形を読むように、自分の一日を俯瞰して見る。何がうまくいって、何がうまくいかなかった。なぜそう判断した。別の道はなかったか。城倉はいつも答えを教えなかった。ただ問いを立てることを続けた。
その問いを立ててくれる者が、いなくなった。
自分で問いを立てるしかない、と気づいたのは五日目だった。
夜、長屋の布団に横になりながら、自分に問いかける癖をつけ始めた。今日の仕事で、一番難しかった判断は何か。なぜそう判断したか。別の判断もあったか。
声に出す者がいないから、答えはただ頭の中に浮かぶだけだ。しかしそれでいい。城倉がいなくても、問いだけは残った。
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八月が終わり、九月に入ると秋が来た。
稲刈りが始まり、城内も年貢の取り立て準備で忙しくなった。広瀬からの仕事が増えた。帳面の確認、村々の記録更新、今年の収量の集計。俺と竜之介は毎日文書に向かった。
竜之介の字が上手くなっていた。
最初は読めるかどうか怪しい字だったが、今は広瀬が「まあ使える」と言うくらいになっていた。書き続けることで手が慣れてきたのだ。
「字ってこんなに変わるものですか」
竜之介が自分の書いた字を見て言った。
「三ヶ月前の字と比べてみろ」
「比べたくないです。恥ずかしいです」
「恥ずかしいということは、成長した証拠だ」
「そういう言い方をしないでください」
竜之介は苦笑しながら筆を動かした。筆の持ち方も、紙への向き合い方も、足軽だった頃とは違う。
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九月の半ば、浅野から二度目の使者が来た。
前回と同じ顔の侍だった。しかし今回持ってきた条件は前回と違っていた。石渡から俺に伝わってきた内容では、境界線の変更という要求は取り下げられ、代わりに三年の不可侵のみを求めてきたという。
条件が大幅に緩んだ。
石渡が俺に分析を求めてきた。
「どう見る」
「浅野の内部で、強硬派が力を落としたと見ます。前回の条件から境界変更を外したということは、桑田に大きな譲歩をしたということです。そこまで折れた理由が、内部の動きにあると考えられます」
「源三郎の動きが効いたか」
「可能性が高いです。ただ、条件が緩んだからといって、浅野が本当に静かになるかどうかは別の話です。内部で力の均衡が変わっているなら、今後また別の動きが来るかもしれません」
「桑田様は三年の不可侵を受け入れるつもりだ。お前はどう見る」
「三年あれば、桑田が内部を整えられます。北の村の問題、水路の整備、足軽の訓練。やれることはあります。三年の不可侵は、桑田にとって悪くない条件だと思います」
石渡は頷いた。
「同じ見立てだ。桑田様に伝える」
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その夜、源三郎に会った。
「浅野の条件が緩んだ件、内部が動いたということでしょうか」
俺が聞くと、源三郎は少し間を置いた。
「動いた。俺の繋ぎが動いてくれた。内通者は失脚した」
「完全にですか」
「城内の仕事から外された。今後は表に出られない立場になった」
「源三郎さんの目的は達成されましたか」
源三郎はしばらく黙った。
「一つは達成された」
「まだあるということですか」
「もう一つの話は、もう少し後にする。まだ状況が固まっていない」
俺は追わなかった。源三郎が話せる状況になれば話してくれる。それだけ信じることにした。
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城倉がいなくなって最初の試練は、思いがけない場面でやってきた。
十月の初め、桑田が俺を呼んで言った。
「浅野との不可侵が成立した。それに伴い、桑田家の内部を整える。お前に新しい役を与える」
「どのような役でしょうか」
「足軽組の訓練の監督を兼ねてほしい。岡部の下で動くことは変わらないが、日々の訓練の内容を考えて、足軽たちに指導する立場だ」
俺は少し考えた。
「俺が侍になって半年です。足軽たちの中には、俺より長く勤めている者がおります。そういう者たちが、俺の指導を受け入れるかどうか」
「桝田に相談してみろ。あの男はお前のことを認めている。桝田が動けば他もついてくる」
桑田はそう言って話を終わらせた。
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その夜、桝田に話した。
桝田は俺の話を聞いて、少し黙った。
「足軽たちの訓練の監督か」
「岡部様の下でですが」
「お前が俺たちに指示を出す形になるということか」
「そうなります。受け入れていただけるか、正直に伺いたかったのです」
桝田はしばらく考えた。座ったまま、膝の上に手を置いて、動かない。急かしてはいけない空気があった。
「お前は足軽の頃のことを覚えているか」
「覚えております」
「何を覚えている」
「最初に槍を持ったときの重さ、麦飯の薄さ、初陣の前の夜の怖さ。全部覚えております」
桝田は俺を見た。
「それを忘れないなら、俺は従う。足軽の立場を知っている者が上に立つなら、それは悪くない」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。ただし間違えたときは正直に言え。偉くなると間違いを認めにくくなる者が増える。お前はそうなるな」
権蔵も、城倉も、同じようなことを言っていた。何人もの人間が同じことを言う。その重なりが、俺の中に積み重なっていく。
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翌朝から、俺は足軽の訓練の様子を観察した。
まず現状を把握する。何が足りていて、何が足りていないかを見てから、内容を変える。一番気になったのは、組み合いの質だった。素振りはみんな一定以上できる。しかし二人で組み合う稽古になると、急に動きが硬くなる。相手の動きを読んで動く、という経験が足りていない。
城倉に教わった問いを、今度は自分が足軽たちに問いかけてみた。
「今の組み合いで、何が難しかった」
最初は誰も答えなかった。
桝田が俺の意図を汲んで、「誰か答えてみろ」と言った。若い足軽の一人が「相手がどこを狙っているか分からなかった」と言った。
「それだ。それが今日の稽古で直す一番の問題だ」
俺は具体的に動きを分解して説明した。城倉に教わったことを、足軽の言葉に直して伝えた。難しい言葉は使わない。体で感じられる言葉で話す。一刻後、組み合いの質が少し変わった。
わずかな変化だ。しかし変化がある。
稽古が終わって、足軽たちが散っていく後ろ姿を見た。城倉の道場の帰り道で、俺もこういう後ろ姿だったかもしれない。
問いが残っている。それがある限り、稽古は続けられる。
(続く)




