第35話 「城倉の別れ」
八月の終わり、城倉が倒れた。
二度目だった。
今度は最初の倒れ方より重かった。使いの者が夕方に城に来たとき、俺は稽古の最中だった。
「城倉様が意識を失っています」
俺はすぐに走った。槍を置いて、着替えもせずに走った。
城倉の家に着いたとき、城倉は布団に横になっていた。呼吸はある。しかし目が開かない。顔の左側が完全に弛緩していた。体の左側全体が動かない。
前回より深刻だった。
村の年寄りが「今度は難しいかもしれない」と言った。
俺も同じ判断だった。
城倉の手を取った。冷たい。しかし脈はある。細いが、確かにある。
竜之介も後から来た。部屋の外で待っていた。
俺は一晩、城倉の傍にいた。
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夜中の丑の刻、城倉が目を開けた。
ぼんやりとした目だったが、焦点が合った。
「……橘か」
「はい」
「また来たか」
「また参りました」
「今度は重いな」
「先生がご判断ください。俺には医術は分かりません」
城倉は少し笑った。口の端が歪んでいたが、笑いだと分かった。
「正直な奴だ」
「先生に教わりました」
老人は天井を見た。
「俺の時間は少ない」
俺は何も言わなかった。
「だから話しておく。長くなるが聞いてくれ」
「聞きます」
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城倉が語り始めた。
若い頃の話だ。
城倉はかつて、ある大きな大名家の侍大将の下で働いていた。そこで戦術の才能を認められ、合戦のたびに抜擢された。しかしある大きな合戦で、上から無理な命令が来た。
守れない陣地を守れと言われた。
城倉はそれを上に進言した。守れない、別の配置を提案する、と。
聞き入れられなかった。
結果として、城倉の部下の半分が死んだ。
「俺は生き残った。それが今でも引っかかっている。部下が死んで、俺が生き残った。その後で、正しいことを言っても動かない組織に嫌気がさして、仕える場所を転々とした」
城倉の声は落ち着いていた。怒りも嘆きもない。長い年月の中で全部が静まって、ただ事実だけが残った声だ。
「そしてある時期に、桑田のこの地に流れ着いた。隠居した。それが今だ」
「源三郎さんとは、その時期に知り合われたのですか」
「そうだ。あいつはまだ若かった。ある戦場で会った。俺が隠居するとき、この地を教えた。流れ着く先として使えると言ってな」
城倉が源三郎にこの地を教えていた。源三郎がここに来たのも、城倉の言葉が根にあったということだ。返す言葉を探した。
「源三郎さんがこの地に来たのは、城倉先生が教えたからだったのですか」
「教えただけだ。来るかどうかは向こうが決めた。ただ、橘蓮という名前の面白い足軽がいると聞いたとき、あいつが動いたのは分かっていた」
「ご存じだったのですか」
「あいつはそういう男だ。面白い人間を見ると放っておけない」
城倉は少し息を整えた。
「橘、俺は若い頃、師がいなかった。自分で全てを決めて、全てを間違えた。その間違いの積み重ねが今の俺だ。お前にはそうなってほしくなかった。だから教えた」
「ありがとうございます」
「ただ覚えておいてくれ」
城倉が俺の手を握った。力は弱かったが、確かに握っていた。骨ばった老人の手が、俺の手を包むように握る。
「強くなる理由を忘れるな。それだけを、覚えておけ」
手の温かさが、少しだけ残っていた。
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城倉は夜明けまで意識があった。
俺はその間、傍にいた。
城倉は時々目を開けて、何かを言った。ほとんどは昔の話だった。死んだ部下の名前を呼んだ。若い頃の戦の断片を語った。俺には分からない固有名詞が混じっていたが、黙って聞いた。
口を挟まなかった。
この老人が話せる時間は残り少ない。聞けることを、全部聞いておきたかった。意味が分からなくても、声を聞いていたかった。
一度、城倉が俺の名前を呼んだ。
「橘」
「はい」
「お前に槍を教えて良かった」
俺は何も言えなかった。ただ手を握り返した。
夜明け直前、城倉が俺を見た。
「眠い」
「眠ってください」
「また話せるか」
「話せます」
城倉は目を閉じた。
呼吸が続いていた。
そのまま、静かに眠るように、止まった。
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俺はしばらく動かなかった。
城倉の手を握ったまま、夜明けの光が障子を白く染めるのを見ていた。
竜之介が入ってきた。
俺の顔を見て、全てを察した。
何も言わなかった。ただ、俺の隣に座った。
二人で、しばらく黙っていた。
城倉の手が冷たくなっていくのが分かった。それでも手を離さなかった。
泣かなかった。
泣けなかった、というより、泣くより先にやることがあった。城倉の家の世話をしている村人に知らせる。弔いの段取りをする。源三郎にも伝える必要がある。石渡にも知らせなければならない。
ただ動かないまま、もう少しだけいた。
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弔いは小さかった。
城の者から桑田と岡部と石渡が来た。源三郎が来た。広瀬も来た。村の者が十人ほど来た。
誰も長くはいなかった。それぞれが手を合わせて、去った。この時代の弔いは、静かに済む。
桑田が帰り際に俺の横を通った。何も言わなかった。ただ、一度だけ目が合った。それで通じるものがあった。岡部も何も言わなかった。石渡は「残念だった」と一言だけ言った。
源三郎が俺の隣に立って言った。
「あの人らしい最期だ」
「苦しんでおられませんでした」
「それがあの人の生き方に合っている」
源三郎は手を合わせた。その横顔は静かだった。
俺も手を合わせた。
城に戻る道で、源三郎が言った。
「城倉殿が残したものは、お前の体の中にある。それを使い続けることが、一番の供養だ」
「そうします」
「俺も同じようにした。あの人に教わったことを、今も使っている」
源三郎と俺は、しばらく黙って歩いた。
竜之介が俺の後ろをついてきた。こちらも黙っていた。
三人で歩いた。誰も何も言わなかった。それでいい時間だった。
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城門をくぐったとき、俺は足を止めて空を見た。
夏の終わりの空だった。青く、高く、城倉が生きていた頃と変わらない色をしていた。
俺は歩き出した。
足元が重かった。しかし止まらなかった。
(続く)




